ネットで書くということ

ラーメンズ絡みで知り、ときどき読みに行かせていただきコメントも確か書かせていただいたことがあったように記憶しているのだけど、sahya*1さんの「悪態日記」が更新を停止するという事で書かれたエントリと、それに対してTBをされているboxcurio*2さんの「scribbles and scrabbles」のエントリに非常に思うところあったので、TBさせていただきます。

私も自分のサイトを始めたときからもう6年あまり、「ネットで文章を書く」ということを続けている身としてふんどしを締め直すというか・・・なんでそんな喩えなんだ・・・改めて我が身を振り返ったエントリでした。

私はここのはてなに芝居の感想と、舞台周りの雑談を主に書いているわけですけれども、芝居の感想を書くにあたって、私にはひとつ決めている事があります。それは、わたしが書いたこの文章を、創り手本人の前でそのまま口にすることが出来るかどうか、という基準で書くということです。ネットの文章を読まれることがあるかもしれない、ということではなく、私自身が例えば鴻上さんなり野田さんなりいのうえさんを目の前に自分の書いたことをそのまま言うことが出来るかどうか、ということを考えるようにしているのです。実際に書いていて言葉を選ぶとき、なにを選択するかをその基準で決めているわけです。

以前私の感想を読んだ人から「読んだけど、それでその芝居は面白かったの?面白くなかったの?」と尋ねられたことがあります。それはつまり私の感想ではそれが伝わっていなかったということで、それは感想としては失格というか、どうなんだ、というものだと思うんですけども、それは言葉を選びつつ面白かったかそうでないかを伝えることの出来ない私の力不足そのものであり、「芸」の無さに他なりません。

私の感想は、だからある意味では歯に衣を着せまくった感想なわけです。そんな感想を、書く意味があるのか、と思う人もいるかもしれません。確かに、boxcurioさんも書かれているように「書く」ということ、そのものが「加害者になりうる限りなく高い可能性」を秘めているものであって、どれだけ言葉を選んでいてもその可能性はゼロにはならないでしょう。

それでも私がこうして書き続けているのは、それはこの感想を書き始めた遠い昔、何も残しておけない芝居というモノを、どうにかして自分の中に形として残したいと思った頃の思いがまだ生き続けているからとしか言えません。大学ノートに、誰も読まれるあてもないまま書き続けていた思いと、自分の自己顕示欲が今こうしてサイトをやり、ブログを書くことに繋がっているのだと思います。つまりは、1から10まで自分のためだということです。自分のために、人が心血注いで創った物に寸鉄釘を刺す行為を続けることに対して私が課したルール、それが「ネットでしか言えない感想なら書かない」ということなのです。

私も最初からそう決めていたわけではありません。センセーショナルな言葉を好んで使っていたこともありました。変わったきっかけはひとつではありません。あるサイトで「否定的な意見を書くときほど、自分の品性が問われているんだということを省みてほしい」と言われたこともそうですし、近鉄劇場を喪ったのも大きなきっかけのひとつです。好きなように書くことで私自身への信頼が失われるだけならともかく、どこかの誰かの「演劇」への信頼を失うことになっていたとしたら?口ではみんなに「もっと芝居を観て」と言いながら、全く逆のことを結果的にしていたとしたら?それは私にとって何よりも恐怖を感じることです。

ルールを課しても、ちゃんと面白いものとそうでないものを伝えることは出来るはずで、それはこれからも試行錯誤しながら自分で見つけていかなければならないものなのだと思います。

sahyaさんも書かれていますが、これはあくまで個人の問題、というか、私にとってはこれがネットで文章を書く上でのルールです。私が私に課したルールですから、他の人がどうだとか言う気はまったくありません。それでも、長いこと書いていると甘えというのは出てきますし、伝えたい何かを見失うこともあります。お二人のエントリは自分のルールをもう一度見つめ直すきっかけを下さいました。感謝します。