タンゴ・冬の終わりに2回目感想+雑感

千秋楽おめでとうございました!(見てないけど)
結局11月25日のソワレを見てしまいました。どーしても我慢できなかったんだも!
2回目に見て気がついたこと箇条書き。

  • 冒頭の観客たちのシーン、映画は実際に「観客たちに向けて」投影されているのだということに気がついた。スローモーションのシーンでエンドロールまで流れている。全然気がつかなかった!
  • 「パンク蛆化の女」が流れ出す瞬間の客席が面白い(笑)
  • 私の見たこの日は最後のカーテンコールで段田さんに送られた拍手が非常に大きかった。はっきりそれとわかるほど違いがあった。もちろん一番大きな拍手を貰っていたのは堤さんですが
  • その段田さん、ものを食べるシーンでバナナを落っことしてしまったのだが、そのまま食べちゃった(笑)洋さん笑いをこらえるのに必死
  • 初日のカーテンコールで涙ぐんでいらした秋山菜津子さん、ますます魂の入った演技で魅了された。特に、孔雀(というボロ布)を抱く盛に向かっていう「私達の過ごした、あの甘く苦しい闘いの日々・・・その結末がこれなの?」というシーンが素晴らしかった
  • 初日は結構な前方席で見ていたため最後、秋山さんが舞台を降りたことすらちょっと気がついてないぐらいだったのだが、後ろにさがったことで最後の表情を見ることが出来たのはよかった。舞台を降りきった瞬間に一瞬表情を歪ませて泣いているかのように見えたのだが、瞬時に立て直してきゅっと口元を引き結んだまま、固い表情を崩さずに去っていく姿を見ているとこれまたもう涙が出てとまらなかった
  • 花吹雪が吹き出す勢い、調整したのかな?初日は相当後方まで飛んできていたが、最後に散った紙吹雪のあとを見てもそこまで飛んだ形跡はなかった。初日は後方まで飛んだ吹雪が、舞台の方向に吹く風に乗って実際に後ろから吹きつける吹雪のようになっていて、だからその中で見たあのタンゴが一層忘れられない、というのはあるなあと思う。あれは本当に「劇的な体験」だったことです
  • 常盤さんは本当に美しいのだが、舞台では実際に美しいかどうかということよりも、その美しさを如何に観客に届けるか、ということがやはり求められるのだなあと思った。そして残念ながらそういった点で彼女はまだまだだと言わざるを得ない。もちろん、舞台経験の浅い彼女が段田・秋山・堤といった手練れとがっぷり四つだったわけだから、苦しいところではあるとは思うけども。


初日もこの日も、スタオベはなかった。実はそれが結構気に入ってます。心情的にはこれほどスタンディングオベーションに相応しい舞台もなかったと思うが、この舞台の余韻のあとでそういったことをしたくない、できない、という気持ちもある。カーテンコールの回数やスタオベの回数は決して舞台の出来をはかるバロメーターではないということです。カーテンコールがなくても決して記憶から消えない舞台もあるし、ただ観客が「なんかくれ」「もっとくれ」とねだるだけのスタオベもある。

以下完全ひとり語りなのでちょっと畳。

さて、「タンゴ・冬の終わりに」は私にある曲を思い出させます。
自分の見たもの聞いたものを何でもかんでも自分の知っている狭い世界の中の事象になぞらえたりするのはまったくもって恥ずかしいことであると自覚はしているのですが、自分のためのメモ書きとしてあえて書いておきたい。
物語の終盤の大きなモチーフである「孔雀」とは一体何なのか?今回のパンフレットで、蜷川さんはそこにあえて具体的な意味は感じさせないようにしたい、と言っています。その孔雀とはなにか、をわたしなりに平らに言うと「あの日僕らが信じたもの」ではないのか、と、見ながら思ってしまったのでした。そしてもちろんそれはこう続くのです。「それは幻じゃない」。

堤真一の演じた清村盛という役が、私は好きです。それは、堤真一の演じる盛が往年の名優には見えないとか俳優としての妄執に欠けるとか、そういったことは私の中では大きな事ではないからだろうと思います。日記のほうで少し触れたように、私にとってこの役が堤真一のベストアクトだ、と思う最大の理由は、かれがこの舞台で人間のもつ哀しさというものを、あますところなく体現しているからに他なりません。

「昔はなんでも清村盛の言葉になった」と彼は言います。どんな芝居もどんな台詞も、清村盛風に言えばそれが自分の言葉になった、と。その力が衰えてきたことに、かれは恐怖を感じないではいられない。そしてこれは、この作品を書かれた作者をはじめとする全ての劇作家、この舞台を演出した演出家を始めとするすべての演出家、つまりは、なにかを創り出す、ということに携わる人間すべてに共通する思いではないでしょうか。自分の言葉がいつか枯れたらという恐怖、自分を呼ぶ電話はついには途絶えるという恐怖、初演で平幹二郎さんという俳優を得て描かれたこの役を、堤さんは蜷川さんの狙い通りに、いやもしかしたら狙い以上に、誰しもが持つ「普遍的な」弱さや哀しさを持つものとして表現しているように思えます。

人間には誰にも青春の終わりの夜がある、と蜷川さんは言います。この「タンゴ・冬の終わりに」という舞台は、ついには潰えてしまった希望、いつか見た夢、そういったものへの訣別とともに、その自分達の「青春」を、あれはけっして幻なぞではなかったのだ、と再確認しているようにも思えます。舞台を去っていくぎんが私達自身であるように、歓喜の表情で手を振る幻の観客たちもまた、私達自身なのではないでしょうか。