光をてらせ


シャイン・ア・ライトを見てきました。

この映画のことを知ったのが9月の中頃でしたか、日本公式サイトでアップされていた予告編を見て「あーかっこいい、これは見たいな」と思っておりました。見たのは公開日翌日の12月6日、映画館はTOHOシネマズ船橋ららぽーとです。

まず、最初にお断りしておきたいのだけれど、私はローリング・ストーンズの熱心なファンではありません。もちろん彼らのことは知っている、知っているけれど、それは本当にただ「知っている」というだけで、アルバムを通して聴いたこともなければ、ライブに足を運んだこともない。有名な曲はもちろん知っている、Paint It Black、Jumpin' Jack Flash、(I Can't Get No) Satisfaction。つまるところ、私は「誰でもが知っているストーンズ」しか知らないのです。

加えて、私のサイトやブログを読んでくださっている方なら先刻ご承知のことと思いますが、私は映画に対しても非常に浅薄な知識、経験しかない。ぶっちゃけ、ほとんど映画を見ない。もちろんマーティン・スコセッシは知っている。この私ですら、フィルモグラフィーを見ると二つか三つは作品を拝見している。でも、それだけです。

なのになぜ、この映画を見たいと思い、そして公開されるやいなや映画館に足を運んだのか。状況が整っていたということも勿論ありますが、なによりも大きな理由は、私が「ライブ映像」というものが好きだからだろうと思います。もっと言うなら、「かっこいいライブ映像」が好き。「かっこいい人を撮ったライブ映像」じゃなくてね。

予告編を見たときのその私の期待は果たして、まったく裏切られませんでした。映画を見てから、もう3週間ほどになるけど、まだ私の頭の中でJumpin' Jack Flashのあのリフが鳴り響いている。たとえ、ストーンズのファンでなくても、例えばそう、一度でも、「ロックバンド」を好きになった人なら、「ロックバンド」というものに心を預けたことがある人なら、その未来、というものを考えたことがあるひとなら、きっと何か感じるものがあるのじゃないかと思います。

映画のオープニングは本番前の彼らの様子と、そこに至るまでの監督スコセッシとの(主にミックの)やりとりが伝えられます。飛行機の中で、膨大な曲目リストを繰りながらセットリストを練るミック・ジャガー。そのリストはもっともポピュラーな定番曲、ほどほどに知られている曲(MEDIUM KNOWSとカテゴライズされていたような)、そしてファンしか知らないレア曲とわけられていて、彼はそうやって、毎回のセットリストを組んでいく。ビーコンシアターでのライブを撮るスコセッシが、最初の曲はなんなのか、ボーカルが入るのか、ギターソロなのか、リフで入るならそのリフを弾くのはどっちなのか、どれだけ気を揉もうと「セットリストはお預け」。

実際にはスコセッシは本番の少し前にはセットリストを手に入れたようなのだけど、しかしそんなことはどうでもいい。本番直前、調光室とおぼしきところで待ち構えるスコセッシのもとに滑り込んでくる紙、「よし、1曲目は・・・」その台詞にかぶるあのリフ。

これを「かっこいい」と思わないひとなんているんだろうか。

どうして自分は、ロックバンドというものに執着してしまうのか、ときどき考えることがあります。どんなバンドにもつきまとう不仲説、活動の停滞、全盛期の光の翳り、そして「解散」という手痛い一撃。そういうものをくらい続けて、どうしてまたバンドを好きになってしまうのか。その答えは探しても探しても出ないものなのかもしれない。でも、この映画でストーンズが見せてくれる「かっこよさ」は、紛れもなくその答えの一つのような気がします。曲間に差し挟まれるインタビューでキース・リチャーズはこういいます。「(ロンとどちらがギターがうまいかと問われて)正直に言うと、二人とも下手だよ。でも二人がそろったら最強だ。」

私でも知っているようなMOST POPULARな楽曲、久々に演奏される曲、ゲストを交えた3曲(クリスティーナ・アギレラのパワフルボーカルにもしびれたが、バディ・ガイの渋さったら、もうもうもう)、楽曲が途中でぶったぎられるなんてことはありません。インタビューと曲がかぶるのはたった1曲、キースボーカルのConnectionのみ。曲間にはところどころ昔のインタビューが差し挟まれて、だんだんと時間を経て変わっていく彼らの顔にどんどん風格が備わってくる。「60歳までやるつもり?」「もちろん」そして映し出される60歳をとっくに超えたミック・ジャガー。しびれるったらない。

中でも、中盤に披露されたAs Tears Go Byには、なんというかもう、泣いてしまいました。椅子に座ったキースがかき鳴らす12弦のギター、ミックのあの手の動きの美しさ。カメラは上手にいるキースをかすめて、中央にいるミックの横顔をとらえる。二人は一瞬だけ視線を交わす。作ったときには照れくさくて自分たちじゃ歌えなかった、というその曲のなんとラヴリーだったことか。

このライブを撮影したカメラマンも錚々たるメンバーで、「LotR」を撮ったアンドリュー・レズニーがいたというのはあとで知ったのだけど、某音楽番組みたいにバカみたいに寄りを繰り返し(言いたかないがMステだ)たり、落ち着きなくメンバーを追っかけたり、いったいなにを撮りにきてるんだといいたくなるような、観客のショットばかり執拗に収めたりという見ていてイライラする要素が一切ない。私は個人的には、この映画の偉大なところはそこにあると思っていて、それはひいてはスコセッシの偉大さでもあると思うんだけど、たとえばスコセッシがね、もっとなにか、自分の作家性とでもいうようなものをこの映画に残したいと思っても、それに否というひとなんていないわけじゃないですか。監督だし。スコセッシだし。でも彼はそれをしていない。おおっぴらにあちこちに自分の名前をサインしまくるようなことはしていない。これは私の妄想なのかもしれないけど、スコセッシは誰よりも「ストーンズはかっこいい」ってことを心からわかっていて、その彼らの姿をちゃんととらえることがなによりも大事なことだと思っていたんじゃないだろうか。

ほんとうに、その場面の切り取り方や編集、チョイスされたインタビューの絶妙さ、あげればキリがないんだけど、キースがしゃがみこんで観客にピックを投げるときに、投げるキースを前からも押さえ、後ろからもちゃんとその絵をおさえてるとか、As Tears Go Byに至ってはすべてが完璧すぎておそろしいぐらいだとか、チャーリー・ワッツの茶目っ気たっぷりなため息とか、ロン・ウッドボトルネックとか、え?そんなの普通でしょとか思う人がいたら小一時間問い詰めたいぐらいですよ実際。

アンコールのBrown Sugarの時には、どうしてこれを座って聴いていなくちゃいかんのだあああああ!と身悶えするほどで、これほんといつかヘドウィグ・ナイトみたいなのやってくれないものでしょうか。スタンディングで見たい。立って踊って踊りくるいたい。

フロントマンとしてのミック・ジャガーのあの動き、60歳を超えているとは思えないとか、そんな陳腐な言い回しじゃとてもじゃないけど言い表せません。何曲かギターを持っていたけど(ファイアーバードを見たような気がしたけど幻覚かも)、トリプルギターってのもまたオツなもので。永遠の不良少年キース、ライブのラスト、Satisfactionで中央にいるミックではなくてまるでギターのネックにキスするかのような姿勢でうずくまるキースをずっととらえていたあの画、劇的だったなあ。そのキースのギターと絶妙に絡み合うロン・ウッドのギター、ほんと二人そろったら最強なんてもんじゃない。チャーリー・ワッツのあのロマンスグレーっぷりは絶対日本人の好みだと思うんですけどどうでしょうか。そうだ、チャーリー・ワッツってレギュラーグリップで叩いてるんですね。初めて知った。初めて知ったことばかりだけれど。

続けていくこと。ロックバンドで在り続けること。奥田民生はかつて、「ストーンズになれなかった」と述懐したことがあるけれど、でも、誰もストーンズにはなれないんだよね。
ストーンズになれるのはストーンズだけ。
だからこそ、彼らはあんなにもかっこいいのだ。

こんなに長々しく文章を書いたのも、ただひたすら、この映画をひとりでも多くの人に映画館で見てもらいたいからという思いに尽きるわけで、それはなぜかというと私の住んでいる静岡ではこの映画は見られないからです(現時点では)。でも多くの人が足を運んでくれれば、地方でも配給が開始されるかもしれない。とはいえ、私は年末にもういちど上京するので、その時に意地でももう1回見てやろうと思っていますけども。

最後に、わたしの大好きな甲本ヒロトの言葉*1を借ります。

「ロックンロールバンドが目指す場所はね、無いんだよ。中学生でもいい。小学生でもいい。高校生でもいい。例えばホウキでもいいんだ。ギター持ってなくてさ。ロックンロールに憧れて教室の隅っこでワァーってなる。すっげぇ楽しいんだ。そこがゴールです。そこにずっといるんだよ。そっからどこにも行かないよ。それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ。ロックンロールバンドは最初から組んだ時点でゴールしてんだ。目的達成だよ。」

ローリング・ストーンズはかっこいい。
ロックバンドはかっこいい。
そのきわめてシンプルで、贅沢な真実を、わたしたちの血と肉にしてくれる122分です。
是非、映画館で。