「キャラクター」NODAMAP

NODAMAP新作。手触りとしては、「オイル」に似ていると思いました。つまり、実際にあったできごとがこの舞台のうえに現れるわけですが、ただその現れ方は、ある種暴力的と言ってしまってもいい激しさでした。以下ネタバレです。ネタバレを読んでも作品の興を削ぐとは思いませんが、気になる方はお気をつけて。
この作品には、多くの野田さんの作品で感じることのできる舞台ならではの美しさや、カタルシスはありません。救済もない。救いはない、光はない、なぜなら、それが現実だからです。

あの事件が起こったとき、たくさんのマスコミ、メディアが「なぜこんな事件が起こったのか」「どうして絵に描いたようなエリートだった彼らが」「なぜ」「どうして」と繰り返したが、結局のところ、あの集団の特殊性だけが浮かび上がり、そしてその特殊な集団にいたのだから、彼らは特殊な人々だったのだというレッテルをはって、どこかの箱にしまい込んでしまったような気がする。けれど、この物語のなかで、野田さんが描いたのは、そこにいたのは「あなた」だったかもしれないという現実だ。あなただったかもしれない、わたしだったかもしれない、わたしの息子だったかもしれない、わたしの弟だったかもしれない。

ギリシア神話の登場人物になぞらえる台詞の数々が実に効果的でした。最初は一見ただの「神話ごっこ」に聞こえるどこか間の抜けたやりとりが、あっというまに恐怖を象徴する言葉に変わっていく。ダフネの物語や、GIVE ME CHANGEの台詞などは繰り返し現れ、そのたびに暗い影が言葉に漂っているような気さえしました。

現実に何が起こったのかは、もちろん当事者でなければわからない。けれど、意味のないものに意味を見出し、見出せなければ作り上げ、その狭い空間の中でだけ熱に浮かされたようになにかの「ごっこ」が浸透していくその怖さ。その溜まりに溜まった熱が一気に外界に吹き出していくさまは、その「外にもれてきたもの」を知っているだけになおさらおそろしい。あんなに他愛もないやりとりが、裏読みが、なぜあんなことに繋がってしまうのか。ダフネの変身から続く最後の30分間は、観客も身じろぎもせずただ見ることしかできない、という空気が劇場を覆っていたようにおもう。

個人的には、冷蔵庫に隠れた家元が最後に放つ一言が決定的なダメージでした。あまりにも悲惨な事態の大きさと、完全に反比例するあの台詞。

ギリシア神話が大きなモチーフに使われているんだけど、ギリシア神話なら、まかせろ!と胸を張って言いたいところですが(何しろ山室静さんの「ギリシア神話」を子供の頃ぼろっぼろになるまで読み倒した私だ)、ダフネとアポロンのように逸話とキャラが沿っているのもあれば、アルゴスとヘルメス、プロメテウスのように実際の逸話とは違う交わり方をするキャラもいたりしてちょっと混乱したり(笑)でも三つ子の魂なんとやらでどんな単語が出て来てもばっちこいだったよ!

宮沢りえさんの声が今の段階でちょっと危なそうなのが気になるところ。でもパイパーの時もギリギリになってから保ってた気がするので大丈夫かな。NODAMAP初登場の藤井隆さん、良かったです。お金を数えるのがやけにうまい、と思ったら経理経験者でらっしゃるのね。どのキャストも好きなひとばかりで不満なんかぜんぜんないのだが、劇場の構造か音が拡散して届かないのがなんとももどかしかった。スパーン!とこっちに入ってこないので必死に拾いにいかなきゃいけない感じ。後方席だってこともあるのかもですけど。しかし、それでもなお肝の台詞になればなるほどガンガンに届けてくる古田さんはさすがでした。あの役をやるってほんとにかなりしんどい作業だと思うけど、客に媚びるようなところを見せずにやりきっているところはすばらしい。野田さんが古田さんを是非にと希望したのもわかる気がします。

パンドラの筺のなかには、最後に希望が残る。だがこの神話ごっこの中では、きぼうも、のぞみも残ってはいなかった。15年前のある朝、8時9分に起こったあの事件の幼さを、改めて突きつけられる思いがした芝居でした。