つかさんのこと

最初に観たのは熱海殺人事件だった。近鉄小劇場。それから、たくさんの作品を拝見させて頂いた。けれど、過去の時点ではどうあれ、私が現在もつかさんの作品の熱心な信奉者であったかといえば、それはそうではない、と答えざるを得ない。

創作者の死が私たちにもたらす悲しみには2種類あって、それはその創作者の手による「まだ見ぬ未来」が永遠に奪われてしまったということと、もうひとつはその創作者による「かつての作品」へのノスタルジーからくるものだろうと思う。だとすれば、私がいま抱きかかえているこの感情は、おそらく後者の要因によるものがより大きいのだろうとおもう。

だが、それがたとえ単なるノスタルジックな思いからであるとしても、この感情は私の心を揺さぶってやまない。あれから20年近く経った今でも、私はあの近鉄小劇場の舞台の上で、タキシードに身を包んだ池田成志が「チャイコフスキーはお好きですか」と語りかけるあの瞬間を忘れることができないし、厖大な量の台詞をものともせずに、舞台の中央でつか作品の世界を背負って立っていた筧利夫の姿が目に焼き付いているし、モデル兼俳優だった阿部寛が「役者」に生まれ変わったあの瞬間を思い出すし、素舞台のうえで永遠に続くかと思える怒りの台詞に果てしない愛情を感じさせた草磲剛を思い描くことができる。大音量で流れる様々な楽曲、シェリー、パラダイス、風に吹かれて、男性キャスト全員がタキシードで登場しヒロインを迎えるあの様式美を、あの独特の、情熱という言葉ですら追いつけないのではないかと思う熱い瞬間を、私は今でもまざまざと思い出すことができるのだ。それらはすべて、今はもう永遠に喪われてしまった、つかこうへいの手による、つかこうへいの舞台の上でしか味わえない、圧倒的な劇的瞬間だった。

私をこの芝居の道に引きずり込んだ演劇人の多くは、つかこうへいの作品から抜きがたい影響を受けていた。新感線しかり、MOPしかり、そして、第三舞台も。大仰なセットや大仰な台詞回しが「エンゲキってやつ」だと思っていた私の偏見を彼らは木っ端微塵に打ち砕いてくれたが、その源となったのはまちがいなく、つかこうへいと、彼が築いた一時代であったのだろうと思う。それから長い時間が経って、今はその演劇人の多くが、それぞれのスタイルで、それぞれのアイデアに満ちた芝居を創り出している。だがつかこうへいは最後までつかこうへいだった。情熱と情念と、役者の肉体と、そこから生まれてくる「ことば」だけを頼りに作品を創り続けた。

つかこうへいの名前には、一種の伝説めいた話があって、それはこの名前に「いつかみんなが公平に」という願いがこめられている、というのだ。実際にはそうではない、というのが真実らしいが、私はこの伝説めいた話がとても好きだ。それはまさに、つかさんの舞台における圧倒的な熱量の向こうに見えるささやかな願いに似た手触りを感じるからかもしれない。いつかみんながこうへいに。その願いは叶っただろうか。少なくとも、つかさんの創り出す舞台と、それを見る客席の中では、その祈りが通じていたと思いたい。

風が吹けば桶屋が儲かる話をするのなら、つかさんがいなければ、第三舞台は生まれず、第三舞台がなければ、私は芝居に出会わず、そうやって何かに夢中になることを知らず、こうしてホームページやブログで自分のことを書くこともなかっただろう。数々の伝説を生み出してきた、数々の熱い魂の舞台に、心から感謝を。本当に本当にありがとうございました。そして、おつかれさまでした。
できればずっと、この言葉を言うのが先であってほしかった。
ご冥福を心よりお祈りいたします。