八月花形歌舞伎第三部「東海道四谷怪談」

観劇して早2日が経とうとしているのにまったく感想が書けない。自分でもなんでなのかよくわからない。舞台の記憶はいっそう鮮やかで、今でも勘太郎くんのお岩の表情、首の傾け方や手の仕草、そういうものまで覚えているのに、まとめて感想を書こうと思うと何を書いていいのかよくわからない。ふと思ったけど、あれなのかな、まだ気を済ませたくないのかな。書いちゃったら終わり、だから、まだ終わりにしたくないのかなあ。

そんなことを言っててももう一度見に行くことは今度こそ物理的に不可能なので終わりにするしかないのだが、しかし二度の休憩(30分と10分)を挟んで3時間40分強、4時間近い時間を、まったく苦にすることなく楽しめたどころか、時間を感じさせなかった舞台だった。四谷怪談を見るのは初めてではないし、どういう物語かもちろん知っているのだが、それでもなおこの「物語」に引きこんでくれた舞台だったなあと思う。

勘太郎くんのお岩については、ファンの身ながら身を捩りたくなるほどの賛辞が続いているし、ほんとうにまったくその通りでございます、という出来なので、私がいまさら何を言うこともあるまいという感じもするのだけど、ただ本当に物語に尽くした役の造形だったなあと思います。歌舞伎を見る楽しみの中には、物語は置いても、まずその芸としての力に酔う、というものもあると思うのだけど、勘太郎くんはあくまでもこの物語の中に生きている「お岩」という女性に徹頭徹尾尽くしていたなあと。

それがもっとも現れていたのは浪宅の場での「血の道の妙薬」を飲むときのひとつひとつの丁寧さと心尽くしで、あの見事さ、ほとんど台詞のない中でひとつひとつ決められた「型」に情緒をあふれさせるところは見ていてため息の出るほどでした。そして、そのベクトルがきっちり描かれているからこそ、それが反転するときのお岩、元の浪宅でのあの凄まじい変化にこちらの心がついていくことができるわけです。

私がもっともぐっときたのは「これが私の顔かいなァ」というところ、そして「さぞや笑わん、口惜しや」での勘太郎くんの、いやお岩さんの顔。もうこれはひとのものではない、というほどに凄まじい迫力で息を呑みました。そしてほとんど真っ正面であの鉄漿、そして髪梳きの場面を見ていたのですが、あれですね、南北の作品っていうのは、やっぱり根本的にエロい、もっと言うならエログロなんですね。髪梳きの場面で私がいちばんに思ったのはなんってエロい場面を書くんだってことで、それは今回初めて抱いた感覚でもありました。小さく息を吐き出しながら(それがうなるように聞こえてくる)髪を梳くお岩。どれだけ困窮していても、武家の娘としての品、矜持だけは持ち続けていた彼女が、元結を切って一心不乱に髪を梳く。エロくないわけないよこんなん。その姿がさっと髪をあげた瞬間、一層崩れた面体が露わになっているという・・・大南北先生、さすがでございます。

お岩が宅悦ともみあううちに柱に刺さった刀で喉を突く、そのときのゆっくりと首を傾けて目を見開いていくお岩の表情(そしてあの首の動き)たるや。夢に出るよ、もう。決して写実的に、リアルにやっているわけではないのに、圧倒的に「実」を感じさせる芝居だったなあと思います。ホントに演舞場が静まり返ってた。

小仏小平、そして佐藤与茂七の早替えも見せ場のひとつですが、あれですね、自然すぎてうわー早替えすごーい!みたいな感じにならないところがありましたよね(笑)それにしても与茂七の男前っぷりったらなかった!特に隠亡堀でのだんまりはもうただうっとりりんと見つめるばかりでしたよ。手首のあたりがいっそうほっそりしたので、うわー細っ!みたいに思ったりもしましたけど、まあああもうとにかくキリリとして男前にもほどがある男前、その証拠にその場面の舞台写真売り切れてたからね!わかる!気持ちわかるよ!

海老蔵さんの伊右衛門、コレは多分みんな言うことだろうけど、ホント華がありますやっぱり。浪宅に戻ってくるところ、黒い羽織で懐手、楊枝をぴんと飛ばす仕草なんか絵になりすぎってほどに絵になってた。裏田圃で舌を出すのは個人的にはない方向で・・・と思ったりもしたけど、場を埋める存在感は文句なしにあるなあと。ただあれですよね、これ海老蔵さんがどうってわけじゃなく伊右衛門って不思議なキャラクターだなあと。色悪であり、強悪ではあるんだけど、いつも基本受け身というか、積極的に自分からコトを起こそうというハラはない。ただ道徳心というものだけが欠落しているようにも思え、そうすると面体の変わった岩に対するあの仕打ち、宅悦は目を合わすことすら出来ないのに、あれも足りないこれも足りない、もっと出せもっと出せと執拗に責め立てる伊右衛門(岩の胸に手を忍ばせさえするのだ)は、あの状況を楽しんでいるようにも見えたというか。だとするとやっぱり、大南北先生・・・おそろしいです(笑)

七之助くんのお袖、勘太郎くんの与茂七とのコンビは見ていて微笑ましい、ホントに普通の健気なお嬢さんだよなあ。獅童さんの直助は裏田圃よりも隠亡堀での存在感のほうが見応えありました。あと伊藤家の乳母おまきをやった國久さんのきりっとした佇まい、よかったなあ。小山三さんのおいろはもう、ある意味いちばんの御馳走ですよね。

私はどう転がっても観客のひとりだし、ずっとそうありたいと思ってるし、だから板の上にあがっていることがすべて、それでいいんだけど、でもやっぱり先代勘三郎から続く当たり役で、それを引き継いでいかなきゃいけない、その初役の舞台を自分が贔屓とする役者さんがここまで見事につとめあげてくれた、ほんとそれだけで胸がいっぱいざんすよ私は。そりゃもう見てる間、はーかっこいいなんでこんなカッコイイの勘太郎くん、私以前勘太郎くんが世界一格好良く見えるんだけどどう思うとか言ってたけどどう思うじゃねーよマジで世界一カッコイイよとか、あの薬を飲むときの所作のひとつひとつ、あの手!あの手の美しさったら!と悶絶し放題だったとか、最後の立ち回りでの装束決まりすぎマジヤバイ、でもってここまで長丁場の舞台を休みなく勤めたあとのあの動きたるや!とか、いやもうミーと息を吸いハーと息を吐くヲタの心は休むヒマもないぜ!ってほどだったけど、それよりも何よりも勘太郎くんがこれからの長い役者人生のなかで、絶対に登らなければならない階段を見事にあがっていった、そのことが本当に嬉しかったです。あーこの人のこと好きでよかった、しみじみとヲタとしての幸せをかみしめた舞台でした。