いつかのぼく

もう1週間以上経つのに、まだコンビニでアポロチョコみるときゅんとする。
「わが星」病ですね。

以下芝居の内容にふれています。

わが星を見ている時に、とあるシーンで野田秀樹さんの「半神」がフラッシュバックしたような感じになって、でも作品が似てるとかそういうんじゃないんですよ。芝居を見たあと岸田戯曲賞の選評を思わず読みにいってしまったんだけど、その時野田さんが書かれたことに、ああ、そうそう!と思ったんでした。

選評読むと、鴻上さんはこの「わが星」が「ソーントン・ワイルダーの「わが町」の感動をかなりの部分、借りているのではないかと感じ」たと書いていて、「わが町」を見たことのない私は一層興味をそそられるわけですが、しかし鴻上さん自身のお気持ちはともかく、「とても大きなものととても小さなものを同時に扱うと、そこに「詩」が生まれます。刹那と永遠を一度に手の上に乗せようとすれば、そこに切なさが立ち上がります。」という表現はなるほどと唸りました。

野田さんはその書きぶりからも、強くこの「わが星」を推したことが伝わってくるんですが、なかでも冒頭の

寂寥感とか孤独といった、積み上げられた悲しみではなくて、ただ寂しさの様なものを『わが星』を読んだ後に感じた。
「今ここに、光が届いているあの星が、とうの昔に消えているかもしれない」という話を誰もが子供のころに聞いた。その時に誰もが感じた《初めての寂しさ》のようなものだ。それは、人が初めて感じる《生き物としての寂しさ》と呼べる。

という部分には、強く共感するところがありました。あの幕切れと同時に私を襲った怒濤のような感情は「ただ寂しさ」だったのかもしれないとおもいます。

何年か前、同じ岸田戯曲賞の野田さんの選評で、「アウェーに行って戦ってこい!」と題されたものがあって、その年の候補作すべてが「「家族」「人間関係」「愛情」でくくられる作品だった」こと、「「人間関係の危機」を描く以前に、「内側の人間関係」をしか書けなくなっていることが危機であろう。」と書かれていたことを思い出す。

私が「わが星」を見て「半神」を思い出したのは、直接のきっかけは先生と僕の会話、「いつかのぼく」に言葉をかけるシーンでした。半神における「もうひとつのらせん階段を下りてくる男の懐中電灯の灯りと、俺はすれ違った」という、ドクターと老数学者のシーン、あれを思い出した。

作品が似てるんじゃない、と最初に書いたけど、それは本当にその通りで、でもあのとき感じた「寂しさ」というものの手触りは、もしかしたらとても似ているのかもしれないです。世界、というものに対して初めて感じる「寂しさ」。

今は北九州公演の真っ最中ですね。これからご覧になる方がほんとうに、心からうらやましい。そう思わせてくれる舞台でした。