「寿歌」

私と同じ世代で、高校演劇、という単語に甘酸っぱいものを感じる人なら必ず一度は北村想さんの戯曲を手にしたことがあるのではないかと思うんですがどうなんでしょう。この作品も、実際に舞台にかかるのを拝見するのは初めてですが、高校時代に戯曲を読みました。「北村想」という字面からまず想像するのは暗くて狭い演劇部の部室だったりします。

以下畳みませんがバレ注意。

この作品の初演が1979年、先日観た下谷万年町物語の初演が1981年、翌日観た「11ぴきのネコ」のテアトルエコー版初演が1971年。これはたぶん「偶然」というものではないんじゃないかなと思います。「寿歌」をシスカンパニーが上演することは震災前から決定していたとのことですが、「それが決して昔話ではない」ことがいよいよはっきりと誰しもに自覚できるようになってきた、ということなんでしょうか。

「ふたり」のところに「ひとり」が訪れる、しかもそれが「ヤスオ(ヤソ)」であるとなると、「ゴドー待ち」の構図が頭にちらついたりもしますよね。しかしこちらはあっけらかんと神が登場し、「せいぜい」ひとつのものをたくさんにふやすことぐらいしか出来ることはないのだった。面白いなと思ったのは、じゅんさん演じる「ヤスオ」はなにも断言しないんですね劇中で。問い返すだけ。神は道をお示しにはならない。

ゲサクとヤスオの問答のようなシーンがすごくよかったなあ。かなり濃密に演出されてましたよね千葉さん。

これだけ少人数で、しかもかなり手強い(わかりやすい物語が提示されていない)脚本をやる、という場で改めてと実感しますが、やっぱり堤さんはうまいですね。もちろん今までだってそう思ってなかったわけじゃないけど、しみじみそう思いました…説得力がハンパない。わけがわからなくても、ちゃんとボールがこっちに届いてくる。じゅんさんもハートの強い演者だし(「痴漢」でひとネタのところなんてまさに真骨頂!)いい座組だったなあと思います。

幕切れの台詞の鮮やかさっていうのはもう20数年前に戯曲を読んだときから心に刻まれていて、ヤスオが向かう道がエルサレム、再生なのだとしたら彼らの向かうモヘンジョダロ(死の丘)は破滅を意味するんでしょうか。ほんと「宿題」といって手渡されるものががっしりとあるような濃密な1時間20分でした。