「ザ・シェルター/寿歌」加藤健一事務所

  • 「ザ・シェルター」

「寿歌」と二本立てで、最初が「ザ・シェルター」。いっやああ面白かった!!こちらも舞台で拝見するのははじめてでしたが、ある意味オーソドックスな設定ながら、3.11以後の「今」にも有効だし、同時になんともいえないノスタルジックな感覚もあるという。

開発会社の社員とその妻、娘、そして祖父という4人が、新製品のレポートを書くためにシェルターで数日間暮らしてみる、という設定なのですが、こういった「思いかけず密室になってしまう」筋書きってある意味手垢がつきまくった感があるんですけど、そういうのをまったく感じさせないところがすごい。ろうそくのあかり、昔話、とシュチュエーションは奇抜でも何でもないのにどのエピソードもすごくよく磨かれているという感じ。飄々とした「おじいちゃん」の存在がとてもよく効いているんですよねえ。最後にちょっとした「センスオブワンダー」をのぞかせるのも素晴らしい。

暗闇のなかで、核戦争があったとして、その中で、家族はどんな話をするんでしょうね、という台詞があるけれど、ちょうど1年前を思い出したひとも多かったのではないかと思う。家族が寝静まった後の、一瞬見える幻影も美しかったなあ。

小松さんはほんとにどれだけ芝居のテンポがあがっても(そしてご本人はゲラであっても)滑舌の良さが活きているし、抜群の存在感で見ていて嬉しくなりました。そして加藤健一さんのうまさですよ!もう!知ってたけど改めて驚かされるわ!

  • 「寿歌」

つい2ヶ月前にSIS版を見たばかりなので、どうしてもどこかで比較対象にしてしまうところがありますが、そもそも私今回この2本立てを観に行こう!と決めたのが下のエントリでも書いた「小劇場が燃えていた」を読んだからなんです。そこにこの「寿歌」についても当然触れられているんだけど、彗星’86で上演されたものより、加藤健一事務所が手がけたものの方が「はるかに良かった」と書かれているんですよね。

それで今回加藤健一事務所の「寿歌」を見て、面白い、というか、普通に「笑える」ってこと、そこが一番違いを感じたところでした。核戦争、リチウム弾、放射能、という単語が並びながらも、基本的にこの舞台は笑いに包まれている。それはやっぱり加藤健一さんが30年前からこの戯曲に取り組んでいらっしゃることもあるだろうし、つまりそれは80年代のあの空気、重いボールをいかに軽く持ち上げてみせ、そしてそれを観客に届けることができるか、というような精神を理解されていることと無関係ではないと思う。

笑いながら芝居を観ていても、いや笑いながら見ているからこそ、時折入り込んでくる絶望や死の匂い、そして今の世界とのリンクが、笑ったその一瞬後にぞっと背筋を走るような感覚を何度も味わいました。セットのない、ホリゾントだけの完全素舞台。それでも圧倒的な演劇空間を出現させることができるのだから、まったくもう脱帽しましたという感じです。

SIS版のときにはまったく気がつかなかったんですけど、十字架に雷が落ちる街、たしかパルタイと言っていたけど、あれはパリサイのことなのではないのかな。ヤスオが「善きパルタイびとよ」と話しかけるのを聞いていてそう思った。あとゲサクが復活してくるときに、一瞬ヤスオが十字架を背負って見せるのもなんとも言えず効果的。ちなみにヤスオは自分のこと「ヤ…ソ」と紹介するんですよね、それをキョウコが「ヤスオ」と聞き間違える。

圧巻はラストシーンの「エルサレムは雪やろか モヘンジョダロは雪やろか」で、降りしきる雪と佇むリアカーのショット。美しい、もうそれしか言葉がないほど圧倒的に美しい。この美しさあっての「モヘンジョダロは雪やろか」なんだな…と感じ入りました。

「ザ・シェルター」で小学生の娘をやっていた占部房子さんがキョウコを演じていて、これも抜群によかった。小松さんのヤスオも、どこか突き放したような佇まいがどこか得体の知れなさを漂わせて絶品だったと思います。そしてやっぱり加藤健一さんのうまさだよ!って同じこと繰り返してどうするって話ですが、いやもう格が違う。地力の違いってこういうことかって思い知らされた感。

二本立て上演で15分の休憩挟んで約2時間半。それぞれ1時間強の上演時間ながら濃密でした。3月11日ということで、終演後加藤健一さんよりご挨拶があり、客席で黙祷。この日にこの芝居を観ることができてよかったです。