「南部高速道路」

原作未読。とてもよかったです!!なにより物語の枠組みが私のツボにクリティカルヒットでした。原作の短編小説をここまで「演劇」に立ち上げた長塚さんの力量に感服。

原作を読んでいないので、実際にこの小説がたとえば現代社会への風刺や寓話といったニュアンスを含んでいるのかは定かではないのだけど、私はこの1本の芝居をそういった「現代社会への直接のリンク」とは感じずに見ました。物語の枠組みがツボだったというのは、私がもっとも愛する絵本「てぶくろ」に類するものを感じたからです。もしくは、ラヴェルボレロのような。

以下具体的なシーンに触れますので畳みます。

尋常ではない「大渋滞」に巻き込まれた人々が、連帯し、組織をつくり、外部と相対していく。それはまるで「天使は瞳を閉じて」で描かれた「町を作る」光景さながらです。季節は真夏の日差しが降りそそぐ酷暑から、しんしんと雪の降り積もる真冬まで姿を変えていき、その中で、断絶があり、和解があり、死があり、誕生がある。

だが、ミニの彼女が序盤で見失い「きっともうずっとうしろにいってしまった」はずの腕時計が再び彼女のもとに戻ってきたその瞬間、車が、いや、時が流れ始める。もしかしたら彼らはただ、ずっと同じところをぐるぐるとまわっていただけではないのか?これは彼女が腕時計と腕時計を見るその一瞬の間の出来事なのではないのか?車の流れは再び止まることはなく、描かれていた共同体は一瞬にして消え去る。まるで最初からなにもなかったかのように。

トラムの中央をステージにし、四方向を客席で囲むかたち。椅子がどこか車の座席を模したように据えられていて、座席に置かれたチラシ束のいちばん上の紙の色とシートの色がリンクしていました。時折キャストが客席に対し「渋滞を共にしている別の車」に対するように話しかける場面もあり、観客全体を「渋滞」という事態に巻き込んでいく作り方でした。しかし、実際には渋滞を味わっている訳ではないのに、あの空間にいるとどことなく落ち着かない気持ちになるというか、早く車が動けばいい、と思ってしまう自分がいて、舞台にすっかり共振していたんだなあと思います。

THE BEEのパンフでの野田さんの言葉ではないけれど、まさに演劇とは見立てであるという、その言葉を具現化したかのような数々の、そして見事な「見立て」が炸裂していました。あの傘のアイデアはほんとにすばらしいよ!この演出アイデアは売れるよ!と私が鼻息荒くしてもしょうがないのだが。

ノローグとダイアローグが交錯する舞台ですが、キャストの皆さんいずれもすばらしく、彼らの中に生まれる「連帯」がすとんと胸に落ちてくる芝居作りはさすがでした。ほんとうに刺激的な舞台でしたし、英国留学後の長塚作品を苦手にしていたという方にもぜひ、とおすすめしたいです。