一期は夢よ ただ狂え

赦す人

赦す人

「赦す人」読みました。
大崎さんが「小説新潮」に団鬼六の評伝を連載していると聞いた時から、本になるのを楽しみにしていました。面白くない訳がない、という予感がしていましたし、そして当たり前のように、その予感ははずれませんでした。

団鬼六、という名前を聞いて出てくるのは「花と蛇」だったり「SM作家」という肩書きなのではないでしょうか。そして、名前は知っていても実際には…という方も多いのではないかと思います。かくいう私もお名前を存じ上げてはいますが、その著作を手にとったことはありません。なのになぜ、面白いにちがいない、と思ったのか。それは筆者があの大崎善生さんであるという点がひとつ、そして団鬼六が、かつて将棋を通じて大崎さんと知己を得ていた間柄であるというのがひとつ。

多額の借金を抱え、鬼六御殿といわれた大豪邸から「夜逃げ」する場面からこの本は始まります。その落ちぶれ方はまるで劇画のようですらあります。読者は考えずにはいられない、この人物は、どうしてこんな絵に描いたような没落を味わう羽目になったのか、そして、どうやってここから再び不死鳥のごとく甦るのか。まさに巻を措く能わずの面白さです。

SM作家、という括りだけで団鬼六を知っている、という方にこそおすすめしたいです。もちろん、その手の描写がこの本に一切ないわけではないですが、それよりもなお圧倒的なエネルギー、波瀾万丈という言葉ですら追いつかない浮き沈みの激しさ、そしてそのただ中にあって常に「前向きのエネルギー」しか放出しない団鬼六という人物の凄さを垣間見ることが出来る本です。団鬼六がかつて中学校の教師だったとか、その母がかの直木三十五の弟子であったとか、テレビ黎明期の海外ドラマの吹き替え台本を書いていたとか、趣味が高じて不振の将棋雑誌を買い取り出版業に手を出していたとか、とにかく出てくるエピソードの意外性とスケールが想像の斜め上どころではありません。

ことに、どのように「花と蛇」を書くに至ったか、というあたりは読んでいるこちらも言いしれぬ高揚感があって、太平洋に向かって生まれたばかりの長男を背負いながら「お父ちゃん、これからエロを書くからな」「エロ一筋でお前を育てていくからな!」と叫ぶシーンには、その風景のなんともいえないおかしみとせつなさに胸を熱くさせられました。

しかし面白いのは、大崎さんも作中で何度も書いていますが、鬼六自身が相当な「ふかし」だったことで、よくよく話を振り返ってみると相当な脚色が、つまり「盛った」話であることが少なくなかったようです。それというのも鬼六自身が「おもろかったらええやん」という精神の持ち主だったからで、「おもろいほうが真実や」と公言して憚らなかった。そして大崎さん自身にもこう言っています。「大崎さんも書いていて、こっちがおもろいと思ったらそう書いてくれていいんですよ」。大崎さんはその鬼六のサービス精神と、辿り着ける真相らしきものとの間を綱渡りしながらこの本を書ききっていて、その誠実さはまさに大崎さんらしさだよなあと思いました。

団鬼六は2011年5月6日、あの東日本大震災の1ヶ月半後にこの世を去りました。確かに彼の人生は、清廉潔白というにはほど遠い人生だったと思います。常に愛人を抱え、稼いだ金を相場に突っ込んでは根こそぎ失い、PTAが眉をひそめるようなエロ小説を何本もものし、刑法175条による摘発を一度も受けなかったことを生涯のコンプレックスに持っていた男。
確かに清い人生ではなかったかもしれない、けれど、その人生は壮絶なまでに美しい。
そう思います。
そしてその美しさ、破天荒とは、無頼に生きるとは、これほどまでに苦しいものなのかということを、それでもなお前向きのエネルギーだけを持ち続ける者だけが得られるものなのだということを、この本は語ってくれているように思えます。

ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ 柳は緑 花は紅