「日本の大人」ままごと

いつまでも鳴きやまない蝉。
溶けないかき氷。
燃え続ける花火。
終わらない夏休み。
そんなものは、
ない。

あいちトリエンナーレ2013のパフォーミングアーツオープニング。初日にうかがいました。このあと新潟や伊丹でも公演予定あります。まだ開幕したばかりの作品なので、以下畳んでおきますね。
誰でも、「大人」と呼ばれるようになった人なら誰でも一度はこう思ったことがあるんじゃないだろうか。「自分がこどもだったときの『おとな』って、もっと大人だと思ってた」。そしてこうも思ったことがあるんじゃないだろうか、「自分はいつから、大人になったんだろう」。

物語は20年前、おくだなおと君が小学校6年生だったときと、32歳の「今」との両方の視点から描かれます。ある日彼のクラスに転校生がやってくる。くまのふうたろうという名前のその転校生は32歳。小学26年生。

いつまでも子どもでいたい、大人になりたくない。少年のままでいたい、なんて言ったら聞こえが良すぎますし、どこかピュアな印象さえ抱かせますが、しかし現実にそのピュアネスをこじらせた人間の美しくなさ、この容赦ない描きぶりがすごくいい。まだ「こども」なのに、どこか「おとな」でいることを求められる、いや、求められていると思っているなおとと、通称「くまのぷーさん」はどこまでいっても対照的だ。なおとは「何かをやらなきゃだめだよ」という。何かをやらなきゃ。大人にならなきゃ。ぷーさんはこう返す。「オレは『なんにもしない』をしたいんだ!」

でも「今」のなおとは「なんにもしてない」。そしてあの頃を思い出している。なんにもしない、をしていたぷーさんのこと。でも、自分の周りの人間は誰もぷーさんのことを覚えていない。なおとが「なんにもしな」くなったこと原因は直接は語られない。ただ2年前、というキーワードがあるだけだ。

20年前の現実の「卒業式」の風景と、「今」の幻の卒業式の風景が描かれるわけですが、そこでのくまのぷーさんとの会話でもはやどうにもならないぐらい泣いてしまった私なのだった。ずるくて人の顔色ばっかりうかがって、だけどやっぱり自分は大人になるよ、というなおとをぷーさんは止めない。そして幻の卒業式が行われる。ここに、こどもの全課程を修了したことを証します。

何かをしなきゃ、という自分と、なんにもしない、をしたいとおもう自分。どっちも自分で、それは大人だとか子どもだとかで決まるものでは、多分ない。終わらない夏休みという単語に特別なノスタルジーを抱くのは、私の中にもそういう自分がいるからなんだろう。でもずっと自転車で下り坂を下っていく勇気がないように、終わらない夏休みを続ける勇気もまた、私にはなかったというだけのことなのかもしれない。

普段はあまりアフタートークなどの機会があっても参加しないのですが、あまりによかったので引き続き柴さんのお話も聞いてきました。今回の作品はあいちトリエンナーレにおいて「こどもとおとなが一緒に見られる舞台」というテーマで話があって、生まれてきた作品とのこと。「こども」を明確なターゲットにしたことで変わった部分もずいぶんあったそうです。今回の舞台は真ん中に絵日記をかたどった木製の扉が据えられていて、それにブレヒト幕の効果ももたせる仕組みになっていました。確かに、あの扉と同時に人物がハケ、新しい登場人物が出てくるというのは目を惹きます。小道具を床に埋めた形にしているのもよかった。柴さん曰く「小道具を使うのは本来好きじゃないので、使ってもすぐに消えて欲しいというのがあり、こういうデザインに行き着いた」そうです。

これもアフタートークでのお話ですが、今まで自分は音楽を中心に舞台を作るなど、演出家としての部分が大きかった。けれどだんだんそれに疑問を感じてきた部分もあり、今回は劇作家として作った部分が大きいとのこと。個人的には今回の作品が自分のツボにはまった要因のひとつでもあるような気がします。

こどもが見れば20年後の自分を、おとなが見れば20年前の自分を、複数の視点が交錯するように舞台を作りたかったと仰ってましたが、まさにこどもが見て笑い、大人が見てしみじみと、時には涙する舞台でした。