「国民の映画」

初演から3年。3年前にパルコでこの芝居を観た記憶と、3月11日にまつわる記憶はやっぱり時間を経て今もなお密接なところがありますね。芝居そのものというよりも、あの時の渋谷、あの時の空気、開演前に起きた小さな地震、照明の落とされたロビー、そして三谷さんからの「ごあいさつ」。

とはいえ、舞台そのものの記憶はやっぱり別の箱に入っているようなところがあります。この芝居も休憩15分を含めて約3時間、なかなかの長尺もので、しかも1幕が50分2幕が1時間50分というアンバランスさですが、芝居の空気も後半に向けてどんどん濃密になっていくので、後半になればなるほど長さが気にならなくなるあたりがすごい。ことに、ラスト30分の「ぴーん」という音が聞こえてきそうな緊迫感はすばらしいです。それまでに、例えばヒムラーゲッペルスの告発を匂わせるシーンや、ゲーリングゲッペルスの不協和音や、そういった小さな爆発があちこちに仕込まれ、けれどそれは思ったほど大きな波を立てないことで観客はどこかで油断する。そこに起こる老俳優の性癖への糾弾、発砲、とうとう口の端にのぼる「ユダヤ」の文字。

誰も音を立てない、役者も、観客も固唾を飲む。穏やかで、そして冷酷なヒムラーの台詞。そう、そういえばここに登場するナチの高官3名はそれぞれ異なった制服を着ているのだった。ゲッペルスは大臣、ヒムラーはSS、ゲーリングは空軍。その彼らの語る「最終解決」。誰もが、今なら「正気か」と思うようなことだが、あの時彼らはそれが正義だと信じていた。そして、そのあとリーフェンシュタールが言うように「少なくとも自分たちが生きている間は」自分たちは安泰だと思っていたのだ。実際には、最後に語られるまでもなく、彼らはその後まもなくその人生を自ら閉じる。

先日「HHhH」を読んだということもあって、初演を見たときよりも「歴史上の人物としての彼ら」をより意識して舞台を見たところがあった気がします。そして「少なくとも自分たちが生きている間は」と言ったレニ・リーフェンシュタールの台詞が自分を突き刺したことに自分でも驚きました。私も、皆も、どこかでそう思っていないか、いろいろまずいことがおこっているかもしれない、けれど、「少なくとも私が生きている間は」、と。

キャストもほぼ初演からの続投なので、これはもはや盤石といっていい布陣。小日向さんの声の良さ、佇まいの美しさ、ロマンチストな側面と、氷のような台詞を吐く一面と、それらがひとりの人物のなかに無理なく共存しているんですよねえ。そして見る度に思ってるんだけど、段田さんのうまさって、うまさって、はー(ため息)。小林隆さんのフリッツも、言うまでもなくすばらしい。執事としてのチャーミングな彼も素敵でしたし、最後のモノローグを「以上でございます」としめるあの台詞のトーンもまさに完璧。

三谷さんとしては3年前、時節、というものと否応なしに向き合ってしまった作品を、もういちどフラットに、という思いもあったのかもしれませんが、もしかしたらあの時よりも「時節」というものと向き合わざるを得なくなる、そんな作品だったなあと思いました。