「歌舞伎NEXT 阿弖流為」東京公演無事千秋楽!

本日7月27日、新橋演舞場公演無事千秋楽を迎えました。めでたい。まずはなにより無事に東京公演を乗り切られたことをお祝いしたい。お芝居のかみさまありがとう。

私はといえばもともと初日と前楽、楽日を買ってあったんですが、初日を観た後「これ楽日まで待つの無理やー!」となり、一度は2階席からも観てみたいという欲もあって、真ん中に日帰りでぶっ込みました。自分で何やってんだと思わなくもないですがいやしかしそれだけの時間と金をかけてもすこしも惜しくないと思えるこの幸せ。

しかし、今振り返って思うと初日はよちよち歩きの子どもが立った!ぐらいの感じだったんだなあ。ほんとうに生まれたて。だってもう、そこからの進化がすごいもの。七之助さんは後半もうどんどん人外の域に達してるし、あとやっぱ染五郎さんね。楽日観てて、はあ〜さすがに最後持っていきますわ高麗屋のダンナ…!ってしみじみしました。しみじみしました。とはいえ、初日の興奮は興奮でなにものにもかえがたい。生まれた!という興奮なのか、それともその先の未来を見ての興奮なのかわかんないけど、あの時点ですでにこちらを魅了するにじゅうぶんな舞台だったし、それがどんどんと細部をつめていっているわけだから、それは神も宿りますわ。というわけで、以下感想というよりも個人的なキモイ思い入れをずるずると書く、というか、書いたんですが、どん引くほど長い。すいません!先に謝る!

  • 初日見た後書いた感想に「染五郎さんはどこかに笑いをいれられないかと狙ってそう」と書いたんですが、やっぱり狙ってましたねww「言ってごらん言ってごらん言ってごら〜ん!」「ハイ、オハヨー」「サガだ(ガックリ)」、勘九郎さんとの大見得合戦と蛮甲&熊子のくだりはとくに楽しんでやってらっしゃった感。熊子の取った鮭をめぐるアレコレ、前楽は振られるの嫌さに後ろに隠れた七之助さんが引っ張り出され、千秋楽の今日は亀蔵さんが「千秋楽だから!ネ!」と染さまにパス。そのあと七之助さん→亀蔵さんと続いたシャケダジャレ合戦の後、シリアスに芝居を戻した新悟くんにハートの強さをおれは見た
  • 上からも見てみたいよ〜と欲をかいたのは、戦闘シーンの動きが前方だとどうしても平面的にしか見えないというのもあったんですけど、これが2階席で見ると予想以上にすばらしかった!まず照明の細かい仕事をちゃんと見られるというのもいいし(床に模様が浮かぶ照明が数々あり、それは1階席ではちと堪能できない)、舞台美術も無駄なく、かつ効果を最大限発揮するように組まれていてうなった。1メートルぐらいの高さの台を中心に設えて、盆と横と上の出ハケを活かして場をスピーディに変えていく。転換の際はかならず幕前か花道での芝居があり、客がそっちに集中している間に転換を済ませる。この「暗転のための暗転がない」っていうのはほんとすばらしい。盆を180度の角度だけではなく120度で使って3つの場面が一気に進むように組んでいるシーンもあり、工夫のあとが見られたなあ。八百屋大好きいのうえさんだけど、中心に設えた台の片方に階段、片方に斜面をつけて、ここぞ!という場面ではその簡易八百屋舞台を使っていたんだよねー、そのあたりの処理の仕方もさすがでした
  • 最近新感線の作品がどんどん大きな劇場に、どんどん大がかりなプロジェクトになっていって、いのうえさんの演出もLEDや映像やギミックをふんだんに使ったものになる傾向があったんだけど、歌舞伎と組んだことでそこががらっと変わったのは個人的には大ヒットだったなあ。うまく言えないけど、盆やセリや花道や、持てる舞台機構のすべてをこれでもか!と使って場面を作り出していく演出がすごく好きだったので(その興奮の最たるものが00年の阿修羅城だったんだけど)、そういう興奮をまた味わえたのも大きかった
  • というか、これは初日に一緒に見た姉とも話していたんだけど、いのうえさんが、とうとうここまできた…!みたいな感慨、やっぱあるよ。00年の阿修羅の時もそうだったけど(何しろあの古田が、新橋演舞場でやるのが夢と公言して憚らなかったのだから)、いのうえ歌舞伎なんてネーミングつけても、もはや洒落というか、言ったもん勝ち的なそんなものであって、誰もこんな未来を予想はしていなかったわけだよ。いや、いのうえさんは予想していたかもしれないけどね!それが本当の意味で「いのうえ歌舞伎」になる日が来ようとは、っていうさあ!
  • しかし、初日は初日ならではの興奮がもちろんあったわけですが、もうどんどん変化して,進化して,深化していってるのな!下座なんか昨日と今日でももう違うみたいな。そのへん生きた舞台であることを最大限活かしていると思うし、文字通り一度たりとも同じ舞台はないんだよなっていうのを実感する
  • それにしても、私はこの舞台の勘九郎さんが、つーか田村麻呂が好きすぎて、本当にヤバイ。普段舞台写真とか買っても棚にしまい込んでいるのがせいぜいなのに、なんか冷蔵庫に貼り付けて開けるたびににやついていたりするのでどうしたらいいんだこれ。なんでこんなにツボなのか自分でももうよくわかりません
  • 初日からちょっとコミカルに作ってある場面もけっこうあったけど、それもどんどん加速してたり効果音がふえたりしてたなー。稀継に褒められてニタァ…と笑うとことか、大見得合戦とかは音がふえて面白さを強調してたし、あと百発百中でウケる「なんですかあの五月人形は!」とか(あれ文字通り「どっ」という感じでウケるので、きっと気持ちいいだろうな…と思いながら見ている)
  • 私は稀継さま大好き!なわんこっこ田村麻呂が大好きなんですけど(振ってる尻尾が見えてくるぐらいわんこっこだよね!)、小父上にほめられて嬉しそうだったり、「帝もお怒りじゃ」という言葉に「えっ」って小さく返したり(←これほんと小声でちょうかわいい。かわいいったらかわいい!)、黒縄のところに稀継がいるんだからまずは疑えよ!と思うのに「黒縄の動きがあやしいから」とか言われてあっさり納得するうえに「征夷大将軍がご無事でよかった」とか言われてまた尻尾振っちゃいそうな田村麻呂がマジでかわいい。なんでそんなにかわいいのかよ(孫ではない)
  • だからこそそのあとの「死ぬのはお前だ」の、刺される瞬間まで、いや刺されたあとも「何が起こったかわからない」みたいな顔!!!顔が!!!!もう!!!!すんげええかわいそうですんげえええええときめく!!!!(ダンダン!)(机を叩く音)あそこもう全部が好き!!!全部が!!!(おちけつ!いやおちつけ!)
  • そして私の大好きな彌十郎さまのドS台詞「そんな身体になってもまだ儂を小父上と呼んでくれるか」炸裂!!やばいこれ今PCで打ってる私の顔が最高ににやけている。自分でそのにやけが止められない。誰よこんなかわいそうな台詞考えたの…中島さんか…天才かよ…
  • あそこでそれでもまだ蛮甲を逃そうとする田村麻呂さまいいよねマジ…ほんと長髪ありがとうだよね…髪…髪が…乱れて顔にかかるあたり…マジで最高ですしおすし
  • そういえばこの場面の前、ひとり佇む田村麻呂が襲われるところで仮花に逃げていく蛮甲を追うシーン、残るふたりを叩きのめしてからの「逃がすかよ」がすっげえかっこいい、とtwitterで評判になっていたので楽前は(目の前ということもあり)一挙手一投足をガン見していたわけですけれども、あれ何が卑怯って立ち回りで乱れた髪を直しながら言うんですよ、アイツあれ絶対自分かっこいいって知っててやってますよ、むしろ乱れてなくても髪を直すイキオイですよ、すんげえドヤ声のドヤ仕草で全身全霊からかっこいいしか漂ってないのであそこで田村麻呂さまに踏まれる石となりたい(出た病気)
  • しかもマントだからねあのシーン…マント…マントはあかん…(鼻血をおさえつつ)
  • 傷を負った田村麻呂が本物の鈴鹿に助けられる場面(こういうシチュエーション、炊き出しと並んで中島戯曲あるあるだよね!)、個人的に私の鈴鹿萌えポイントは「山菜粥ですが…」の申し訳なさそうな言い方です(でもこれも微妙に毎回ニュアンスちがった。ちがって全部かわいかった。鈴鹿、おそろしい子!)。ほんと手弱女じゃ…とうっとり眺めてしまいそうな儚げな風情あるよね鈴鹿。同じ人がやってるってわかってるのに「あっちの鈴鹿は何者…?」と田村麻呂と一緒に首を傾げてしまうよね鈴鹿
  • 果たしてこの鈴鹿が「一緒に逃げてくれ」と阿弖流為に言うかというのはあるんだけど、でも長の息子として戦うことしか宿命づけられていなかった阿弖流為だからこそ、この優しさに癒されたんだろうなってことで私の中で納得してます。もう1エピソードぐらいあるともっとすとんと腑に落ちそうだけど、それよりは展開のスピードを落とさないことを重視したい私だ
  • 鈴鹿を殺されて田村麻呂が覚醒する場面、いんやもうすごかった。何がすごいって、もう「ドーン!」とか「カッ!」って効果音が勝手に脳内に響き渡るぐらいだけど、あの開眼して黒縄を見下ろす瞬間、完全に劇画の白目に見えるんです!言ってる意味わかりますか!少年マンガかよ!こわい!もし背もたれがなかったら3メートルぐらい眼力で吹っ飛んだと思う私。黒縄じゃなくても腰抜かしますってば!
  • あの眼帯が吹っ飛ぶシーン(と眼帯に血がつくシーン)、七之助さんのナイスアシストも見逃せないところ
  • 劇中で田村麻呂のもっとも激しい怒りを買うのが黒縄さまだと思うんですけど、あそこリミッター完全にはずれてるからこれでもか!と惨殺するのほんと…大好きです…右手で突き刺した刀を逆手にひねるところヤバイ。あれやられたら死ぬ。物理的にも概念的にも死ぬ。
  • 橘太郎さんの佐渡馬黒縄、あと宗之助さんの随鏡も、初日からさすがの完成度だったんだけど、そこからそれぞれきっちり余白を見つけて遊び心も見せて下さったのうれしかったなー。黒縄さま、変顔のパターン変えてきたり、「ちょっと腕が立つから」を「ちょっと背が高いから」とかに変えて田村麻呂のリアクション引き出したり。そうそう、楽前で随鏡の頭巾がちょっと脱げかかっていて、勘九郎さん危うくオチそうになってたんだけど、なんと千秋楽では「ええいおまえたち!」でスパーン!とその頭巾をかなぐり捨てたの最高でした。なんかどよめきでかき消されたけど「やっちゃって!」とか言ってたような気がしないでもない。
  • 随鏡は御霊御前に文字通り沈められるわけですけど、御霊さま…ああもう、御霊さまとしか呼べない。こわい。なにがこわいって、沈んでいく随鏡を見つめてる時の目!!わるいかお!!わるいかおしてはる!!!個人的にここで随鏡が落とした扇子がセリにうまく乗らないとき、御霊さまが足ですぱーんとセリに落とすのが大好きです…
  • でもほんとね、御霊さまを見ているとね、この舞台に女性がいないことを忘れるのね…。最初から最後までブレのない見事な芝居で、もうもはや拝みたいものね。御利益ありそうだものね
  • 稀継という役を彌十郎さんが演じてくださったのも大きかったなー。確変する前が文字通り「良き理解者」の佇まいだし、また彌十郎さんのニンがそれを後押ししてるよね。そこからの、アレですから。はー。「そんな身体になっても」も好きだけど、「実におまえは良い男じゃ、実に都合の良い」ってやつもいいです。たまんないです。これもう毎回言ってますけど悪がちゃんと立たないと物語はぜったい面白くない!!!悪が悪を引き受けてくれる、その大事さプライスレス
  • 新悟くんの阿毛斗もとってもよかった…長身のすっきりとした佇まい、落ち着いてよく響く声が印象的。巫女の一族という役柄がずっぱまってたなー。殺陣もがんばってた!炊き出しでのよきお母さんぶりもとってもいい。そして殺陣といえば楽前に間近で見て鶴松くんの翔連通に相当ときめいていたわたしだよ!(気が多すぎ!)
  • 今回は冒頭の田村麻呂対立烏帽子に始まりそれぞれに殺陣が多く、三者三様の殺陣を堪能できたのもよかった!勘九郎さんと七之助さん、やはりご兄弟ということもあるのか最初っから息が合っていて,それが何に出てるかというと間合いの近さ。もう、当たるんじゃないか?いや当たってんじゃないか?と引きでみていると勘違いしそうになる。七之助さんの立ち回りは総じて流麗そのもので、流れるような太刀捌きがまっこと美しい。衣装の翻りも目の保養。相手の太刀筋を読んでよける時の身体のしなりがいいんですよね〜。なにげに好きだったのが立ち回りの前にくるん、と刀を回す仕草(前楽で見た時2回目撃して、何いまの!カックイイ!ってなったんだけど千秋楽は現認できなかったー。むねん)
  • 勘九郎さんはその太刀筋の気迫もさることながら、あの低い低い構えの美しさがマジでおなごごろしだと思うのです。その構えでぴたっと止まるだけじゃなく、そこからスローモーションかというような体重移動を経て立ち回りに入るっつーんだからどんな筋力、どんな体幹よ!勘九郎さんと染五郎さんの立ち回りはもう全部をパラパラ漫画にして懐に入れておきたい…つらくなったときにこれをパラパラするんや…と欲望があさっての方向に転がりだしてますが、いやもう静と動とツートンカラーの縞模様の波、どこを切っても好きな絵にしかならない金太郎飴、もともとこのおふたりが大すっきというのもあるけど、マジで何時間でもこれ見てられるわ…って思ったけど役者さんたおれちゃうからやめてあげてね
  • あの阿弖流為と田村麻呂の最後の一騎打ち、鈴鹿に示された刀を手に阿弖流為のところに走る田村麻呂、自分を悪路王、北天の戦神という阿弖流為を前にその男は神でもなければ鬼でもない、ただのひとです、と告げにくる彼。田村麻呂を見る阿弖流為の顔がどこか子どものようでもあるんだよ
  • ふたりがお互いの刀をつかんで押し合うところ、ふたりとももうお互いしか見ていない、この命のやりとりという名のキャッキャウフフぶりにおれが、見たかったものは、これだ…!と涙を目の幅で流すイキオイでした
  • でも田村麻呂は阿弖流為にひととして生きる場所を与えたかったのに、阿弖流為がそこに見たのはひととして死ねる場所だったっていうのがほんとどうしたらいいのこの切なさ。「滅びることで礎となる身だ」「それじゃおまえ…!」この!おまえ…!の切なさ!ほんと往々にして生き残る方がつらいってあるよ、あるよね…でもその重さも引き受けての「これでいいな」なんだよね…
  • あの最後阿弖流為の刀が瞬くようにきらっ、きらっと光るのって新感線版「アテルイ」でもやってたよね確か…違ったっけ。なんか副音声でいのうえさんが「もっと早くやればよかった」みたいな話をしていた遠い記憶…
  • 阿弖流為が御霊と稀継の霊力に押さえ込まれてしまうシーンで、蛮甲が告げる「田村麻呂殺しは稀継の計略」って言葉が阿弖流為を奮起させるじゃないですか。これっていわゆる「ガラスの仮面第17巻現象」ですよね。えっ何言ってるかわからない?いやだなあ、ガラスの仮面第17巻といえば、卑怯な手口で北島マヤを追い落とした乙部のりえが姫川亜弓にボッコボコにされるみんな大好き巻じゃないですか!つまり「あいつを倒すのはこのおれだ、おまえごときしゃしゃり出るな」っていう、あれでしょ?えっ?もっと何言ってるかわかんない?
  • 蛮甲!上にあげた場面もそうだけど、この阿弖流為が蛮甲を再三見逃すことで、最後の最後には蛮甲こそが阿弖流為を死地から救い出すというこの展開、指輪脳のわたしには「まるでゴラムではねえか」と思いましたし間違いなくキーパーソンだし、中島さんが得意とする人物像でもあるし、それをまた亀蔵さんが見事に体現しているという
  • 蛮甲といえば熊子ですけど、いやーわたし、こんなに熊子が皆様に愛されるとは予想してませんでした。歌舞伎ファンの方々の懐の深さよ。楽日には、それまでカーテンコールで姿を見せていなかった熊子がひとり舞台に現れ、文字通りの万雷の拍手でした。花道をぐるっと一周してきたあと、はあはあ疲れている熊子を七之助さんたちがよしよしぎゅっぎゅしてたのがちょうかわいかった。ちょうかわいかったの!!
  • 蛮甲があの首切り役人たちとの会話を聞いているときに、熊の頭がかかってるのは途中からだったのかなー。初日なかった気がする(蛮甲、熊子はつれてこなかったの…?て思ったおぼえがあるから)。
  • もともと、同じ台詞を繰り返し使っていくことによって、最後にはそれがまったく違った意味に聞こえてくる、という構図が大好きな私ですよってに、この蛮甲が言う「おれは生きる、生き延びてやる、こんなところで終わる男じゃねえ」「おれは蝦夷でいちばん生き意地のきたねえ男だ」、それがあの熊子との壮絶な別れのあと、もはや一種狂気をまとったかのように聞こえるところ、もうまずあそこでわしの涙腺やられてるからね。そして阿弖流為をかばって帝人兵に蜂の巣にされる蛮甲が、正真正銘その「生き意地」を叩きつけるところがもうほんとダメ。亀蔵さん、細かいくすぐりは勿論入れつつも、ことさら芝居を速くしたり大きくしたりってことをしないでキャラクターをちゃんと立ち上げてらっしゃるところもすばらしいし、だからこそあの最後の爆発がこっちの胸をえぐるんだよっていうね…!
  • そこからの阿弖流為覚醒だからさー、ほんとここは初日見た時、ああそうだった、そうだった、ここしぬほどかっこいいやつや、もう何回観ても染さまにほれてしまうやつや…!って13年前に観た時の感情までも甦ってきたものね。そしてそういうシーンは台詞が全部頭に入っている私の脳!あの「聞けい!」からの台詞も初演そのまんまだよね
  • 初演そのまんまといえばあれですか、立烏帽子覚醒ですか。いや、正確にはここは「まんま」ではないけどね。でも骨格そのまんまです。私がこの芝居でいちばん好きなシーン。
  • 八百屋舞台の手前に背中を向けた七之助さん、奥に田村麻呂、真ん中に阿弖流為、上手に阿毛斗。この構図からの「我が名を問うか」からはじまる一連はもう、息を飲んで見守るしかできない。いや、呼吸すら忘れるほどでした。後半、七之助さんどんどんどんどんすごくなっていて、全部が宝物みたいな瞬間の連続だったよ。いちばん好きな台詞を、こんなふうに体感させてもらえることのありがたさったらない。あれはまさしく「ヒトではない何か」だったよなとおもう
  • 田村麻呂が鈴鹿(本物)のことを告げてからの七之助さんの目線のひとつひとつがすごすぎて、もうこの芝居で何度目かの「背もたれがなかったら眼力で吹っ飛んでるよ事案」だったよ…
  • わたし、あそこで阿弖流為が言う「おれは、おれだけは、いつもあなたのことを思っている」っていう台詞で百発百中胸が苦しくなって、そのまんま泣きそうになっちゃうんだけど、それを聞いているときのアラハバキの表情もほんとせつない。あの絞り出すような「おのれは…!」って慟哭、神としての愛を、いや、もしかしたら女としての愛もあそこまでそそいだ男が、自分に刃を向ける。あのシーンでのふたりはもう、何かを超えてしまっているんだよな
  • 展開を知ってから立烏帽子でいるときの表情ひとつひとつを追いかけるのもすごく楽しいんだけど、七之助さんがちゃんとその場その場に誠実な芝居を貫いている(ことさらに芝居を立てたりしてない)のもいいんだよね。だからこそ「お前は誰だ、おれにはわからなくなった」での、背中を向けた芝居がぐっと立つし、あそこで観客は立烏帽子の、いやアラハバキの表情を想像するしかないというのがまたいい!
  • 最初にも書いたけど、初日にはまだ「心の台本をめくってる」感のあった染五郎さんが、もう回数重ねるたび、観るたび、どんどんデカさと深さを増していって、あの独特のカタルシスを呼ぶ声が威力発揮しまくってて、もはや後半自分がどのツボをこの人に押されてるのかわからない、ってぐらいふとした瞬間に涙ぐんでいた私です
  • 楽日なんかさあああ、もうずっちーよなー!って石ころ蹴りたくなるぐらいかっこいいんだもんね染さま…。んもう芝居がでかいでかい。のまれる、ってああいうこというのかなって思いますよ
  • 阿弖流為といえば、の両花道での名乗りも、「そのもののふの血が流れるは、大和の男ばかりにあらず」で、一拍おいて「阿弖流為だ!」というとこ、もうあそこむやみやたらとぐっときまくる。どういうマジックなんだよー!前方席はほんとに楽しいんだけど、この名乗りを観るのがめっちゃ大変という贅沢なアンビバレンツ
  • 花道での「北の悪鬼が恐怖の炎で燃やし尽くしてくれよう」からの飛び六方、花道横で見るともう、ちょっと直視できないぐらいの迫力で、染さまがこっちにむかってくるのよな。あの瞬間のためだけでも花横にまた座りたい(強欲め)

あー、ほんと、思いつくまま書いてたら、なんなのこの長さ。すいません。個人的に、物語を存分に楽しんだとしても、めったにその中に引っ張られない方なのですが(だから立て続けに複数の芝居を観ても平気なんだと思う)、今回は思いっきり引っ張られてるし引きずられてます。で、何に引きずられてるのかなって考えたら、それはたぶん、私の場合この舞台のしぬほどカッコイイ瞬間になんだよね。

わたしの好きなアーティストが、「あのとき死ぬほどカッコイイ瞬間があった、それがすべてだ」って自分たちの過去を評したことがあって、わたしはその言葉がすごく胸に残ってるんだけど、でもほんとうにそうなんだよな。舞台を観た人の数の分だけ思うこともあるし、それはいいことだったりそうでもなかったりするだろうし、同じものを観ていてもちがうことを考えて当たり前だし、この舞台を観てなにをその胸に抱いて帰るかはそれこそ観客にゆるされた自由だもんね。私が抱いて帰ったのは、結局のところ、この死ぬほどカッコイイ瞬間だったんだと思います。カッコイイ、を貫いてくれること、それに存分に酔わせてくれることのありがたさに感謝しかない。こういう舞台があって、自分がその場に立ち会えている幸運にも感謝しかない。10月の松竹座がもちろん楽しみなんだけど、でも今はあの劇場に彼らがもういないさびしさのほうが募っています。しばしのさよなら、今度は西の町で、あなたたちがくるのを待っています。