「ディファイルド」

この戯曲は2004年の、大沢たかおさんと長塚京三さんのコンビ、スズカツさんの演出で上演されたものを観ています。今回は戸塚祥太さんと勝村さんの顔合わせ。かっちゃんの芝居観るの久しぶり、いつ以来かなと思ったら2年ぶりぐらいだった。そんな久しぶりでもない…?(笑)

13年ぶりに観るということは、もちろん私も13歳年を重ねるわけで、そうするとこれは時間が経てば経つほどハリーの年齢から離れ、ブライアンの年齢に近づいていくわけです。そのせいなのか、演出のプランなのか、はたまた上演台本の変更?のせいなのか、自分のスタンスが驚くほどブライアン側になっているということになんだかちょっと愕然としました。

いや、というか…やっぱり脚本のカットがあるような気がするんですけど、どうなんでしょう。確か前回上演時間が2時間はあったと思うんですよ。今回は1時間40分。あと、印象的だった台詞、がなかった、気がする…(記憶違いだったら申し訳ない、鱒の台詞ってありましたっけ?)

最終盤でブライアンはハリーに向かって「現実ってやつを教えてやる」と言い放ってしまうわけなんですけど、その言葉は迷える若者には有効かもしれないけれど、例えば明日、命が終わると知って祈りを捧げている者にとってはなんら有効なものじゃないじゃないか、そう感じたことをすごく覚えてるんです。でも実際、そのブライアンの語る「現実」に頷かざるを得ない私がいましたし、今回はハリーに身を寄せて考える前に終盤の展開がきてしまったという感じでした。

あと、勝村さんがやってるからというのもあるかもしれませんが、どこまでがブライアンの「交渉術」なのか?ってことを割と考えましたね。おそらく、ブライアンにとっての計算違いは最後にハリーがブライアンだけを外に出して図書館の中に戻ってしまったことだけなんじゃないだろうか。つまり、一旦出て、銃を持ち帰り、形勢を逆転させ、交渉に失敗したと思わせて最後の妥協案を出す…ハリーが本を探しに行ってる間の無線を通じての「成功しました。これから出ます」のトーンの一種冷酷さ、しびれました。そしてハリーは逆に、どうにかしてブライアンを外に出す、ということをきっと考えていたんだろう。奥さんの声を聴きたがったのも、そのためなのかもしれない。そう思うと切ないですね。

勝村さん、いやー、さすがにうまい。見ている間、うんまいなあ…と感嘆しっぱなしであった。この戯曲の設定にある「ブライアン」のような、定年間近の老刑事にはちょっと見えないのが難といえば難だが、それを補ってあまりあるうまさである。東京でやった劇場よりもブリーゼは数倍大きいが、きちんとコヤのサイズに合った芝居をしてくるところもすばらしい。硬軟自在にもほどがありました。戸塚くんももちろん悪くはないが、しかしどうしても球種の少なさが目立ってしまうかなあという感じ。行き過ぎた思い入れ、がサイコパスめいた台詞回しに流れそうになるのが惜しいなと思いましたし、ブライアンに詰め寄る時の芝居ももう少しパターンがあった方がいいかなと。姿勢や身のこなしが美しいのはさすがですね。電話越しにイタリアの小さなカフェの話をするときのトーンはとてもよかったです。あそこいいシーンだよね…。

コンピューター、スターバックス、画一化されていく世界、副題のように「飼うのに都合のいい短毛種の犬」が世界を覆っていく。そのうち誰もが本当の「ユニーク」を忘れ、役立たずのものは排除される。そんな世界への反旗を翻したかった若者像を舞台上に結ぶことができていたか、という点では演出面も含めてもう一声!という感じはありましたが、脚本そのものの強さというか、この構図が訴えかけてくるものの不変さというものを改めて感じることができた気がします。