「ブレードランナー2049」


ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。1982年に上映された「ブレードランナー」はどこかで見たはずなんだけど、遠い記憶過ぎるので、続編見るならやっぱり復習しておこ!と思い、配信で見ました(べんりな世の中だよ…)いやー見ておいてよかったです。それこそ、テレビの洋画劇場で見たのか、レンタルで見たのか、そのツールも定かじゃありませんが、なにより自分の記憶がウロすぎた。ウロだったというか、ある一点だけ鮮明に覚えていて、それ以外の記憶の不確かさがすごい!という感じ。でもって、記憶の補完ができてよかったという意味だけでなく、「自分が何を鮮明に覚えていたか」を再認識することで、この2049にスパッと入っていくことが出来た気がするんですよ。

以下、ブレードランナー及びブレードランナー2049の最終的な展開に触れまくるので畳みます。
オリジナル(第1作?)ブレードランナーで、私が覚えていたのは、ロイ・バッティとプリスのことがほとんどでした。いやもちろん、デッカードハリソン・フォードだったってことは覚えてますよ!でも正直レイチェルのこととかすっ飛んでた。あっそうだっけ、そういうラストなんだっけ…てラストも忘れてる始末でした。私のなかのラストシーンはあのロイがデッカードを引き上げるあそこで止まってる。

今作の主人公「K」は反乱の意思を持たないレプリカントとして、ブレードランナーの任についている。テストもなんなくこなす。ホログラムの恋人と一緒に暮らしている。けれど、ある任務によって、彼の記憶の蓋がひらく。植え付けられたものだったはずのその記憶が、実在するとしたら?ほんとうだったとしたら?彼はマダムに言う、生まれたものの解任をするのははじめてだ、彼らには魂(ソウル)があるから…と。その魂を、自分も、持っているのだとしたら…?

ブレードランナーが、追う者ではなく追われる者、レプリカントに軸足を置いた作品であることは、この物語の原作もオリジナルもこの続編も変わらないと思いますが、さらに言えば、私にとってはそのレプリカントの「魂」を描いた作品で、そこがやっぱりどうにも深く刻み込まれるんだなというのを、この2049で改めて実感しました。あのときデッカードを引き上げたロイのように。沈みかけた船から、デッカードを助け出したKのように。

デッカードにまつわる物語、レイチェルや、その子供や、その顛末よりも、Kがなぜ、戻ってきたのかに心を寄せてしまうし、だからこの映画のラストシーンの、切ないような、ホッとするような、かれがひとりであることに心引き裂かれるような、でも、魂を持つものは結局最後はこうしてひとりなんだ…ということをしんしんと考えてしまい、なんというか体の中にその余韻が長く尾を引いて残っているような感覚がありました。

物語とはほとんど関係がないんですけど、私は「無駄に大きい建造物フェチ」なところがあって(ロードオブザリングに出てくるアルゴナスとかああいうのですよ。具体的に役に立つわけではない、威容を示すやつ!)、なので後半ばんばか出てくる朽ち果てた巨大石像みたいなののオンパレードめっちゃ滾りました。でっかいCGよりぜんぜんぐっとくる。

ライアン・ゴズリングよかった、すごくよかった。あの「揺らぎ」を得てからのKの佇まいがとくに印象的です。猥雑なエネルギーというよりも、雪と雨の中沈みゆく朽ちた大陸、というような美術もすごく好きでした。