「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」

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ショーン・ベイカー監督。今年の賞レースでほぼもれなくこの作品のウィレム・デフォーがノミネートされていて、面白そうだなと思って楽しみにしていました。しかし上映館が少ないのよな~!

映画の構成からすると、ラストシーンのことを詳細に描くのはこれから見る人のことを考えるとよくないような気がするんだけど、自分としてはどうしても書いておきたいので、ここから先はちょっと注意です。かなり詳細に書いてしまっています。やっぱり見てから読もう!という向きには途中で引き返すのも大いにアリです。

フロリダ・ディズニーワールドのすぐ近くの、安モーテルでその日暮らしをするヘイリーとムーニーの親子。彼らはさまざまな事情で家を持つことが出来ない。1日35$の安宿に「連泊」の形で住み込んでいる(「住む」ことを認めていないため、一定周期で1日だけ部屋を空けさせるシーンがある)。物語はムーニーと、同じ境遇の子どもたちの日々の視点から描かれる。彼らは大人たちの想像する、いわゆる「いい子」像からは程遠い。車につばを吐きかけて遊び、観光客からお金をせびってアイスクリームを買い、空き家に忍び込んでものを壊し、ほんの出来心で火をつける。ムーニーの母親であるヘイリーもまた、どこか子供じみたところがあるまま大人になってしまったのだろうと思わせる(使用済みのナプキンを怒りに駆られてガラス窓に張り付けるシーンなど、稚気にもほどがある)。汚い言葉遣いを咎められ、「だから貧しいのよ!」と罵倒されるヘイリーは「だから」貧しいのか、それとも「貧しいから」そうなったのか。

けれど、たとえそうであっても生活は生活であり、その、文字に書きだせば殺伐としか言いようのない世界であっても、子どもたちの世界は極彩色だ。遠くに見えるディズニーワールドの花火、虹、プール、アイスクリーム。モーテルの雇われ管理人であるボビーは悪態をつきながらも、彼ら彼女らにどこか真に心を寄せている部分があって、それがこの映画を見ている私たちのよりどころになってくれている。

差し挟まれるムーニーがお風呂に入るシーンの意味(そういえば、最初は母親と入っていたのだった)、管理人であるボビーがタバコを吸いながら見かけるヘイリーの部屋のひとの出入りが何を表しているのか、そしてそれが何であったかがわかる以上、最終的にこの親子がどうなるのかは明らかであるともいえる。児童家庭局がヘイリーの部屋を訪ね、彼女がやっていることを把握していること、そしてムーニーを一時保護することを告げる。ムーニーは「いっとき、おかあさんと別の場所に行く」ことを意外なほどすんなりとのみこむが、階下に住む友達に挨拶したときの「どこかよそにいく」という言葉に過剰に反応する。家庭局の人間を振り払って、ムーニーは走り出す。母親のところに駆け戻るのではなく、外へ、外へ、彼女は駆けていく。

ムーニーは道路を挟んだとなりのモーテルで同じように祖母と暮らす(母親は出産したあと子供を祖母に預けいなくなった)ジャンシーの家に駆けこんでくる。どれだけ悲惨と思えるようなシーンであっても泣かなかったムーニーが初めてここで涙を流す。よそに連れていかれる、もう会えない、あんたは親友だから言っておくけど…。ムーニーはしゃくりあげてしまいよくしゃべれない。ジャンシーは口をぎゅっと引き結んでムーニーを見ているが、突然、彼女の手を取って走り出す。

走る、走る、ミッキーマウスのフォルムをした看板の下を、極彩色のさまざまな建物の前を、そしてついに見えてくる、ディズニーワールドのゲートを潜り抜けて、彼女らは手を取って走り続ける。彼女らが今の生活では一生行くことのできないであろう「夢と魔法の世界」を、ふたりの少女が駆けていく。

この先は映画では描かれない。描かれなくていいと私は思う。これはいってみれば彼女らの「明日に向かって撃て!」であり、あの疾走にこそ意味があるのだと思うからだ。そう、疾走の果てに物語が閉じる、夏祭浪花鑑をどこか彷彿とさせる。私がこのシーンで泣いてしまったのも、だから無理のないことなんだとおもう。

ウィレム・デフォー、前評判に違わずすばらしい演技。繰り返すが、ゆらゆらと揺らめかざるをえないこの映画の大人たちのなかで、デフォーの演じるボビーがいることが、観客をどれだけ助けたかわからない。良い映画でした。