「日本文学盛衰史」青年団

高橋源一郎さんの原作を青年団平田オリザさんが舞台化。いやー面白かった。ずっとニヤニヤ、時にゲラゲラ笑いつつも、自分が当たり前に享受してきた言葉の喜びというものについて考えさせられたりもして。

小説原作ではあるんだけど、まず唸ったのが脚本のうまさ。かつて、三谷幸喜さんが「オケピ!」で岸田戯曲賞を受賞したとき、審査委員のひとりである野田秀樹さんが選評で、三谷さんの脚本の上手さを花見の場所選びの上手さにたとえていたけど、まさにこれもその「花見の場所選びの上手さ」が炸裂した脚本だとおもう。

舞台は主に4場で構成され、北村透谷、正岡子規二葉亭四迷夏目漱石の葬儀の場面が描かれている。アーロン・ソーキンが「スティーブ・ジョブズ」で、ジョブズにとってターニングポイントとなるプレゼンテーションの舞台裏、という場に絞った脚本を書き、いやはやソーキンあんたはやっぱりうれしい男だよ、と私を喜ばせたけど、同じようにこの全幕を4つの葬儀の場とするというアイデアはまさに演劇的だよなあとおもう。「場所」を動かすことの制約を逆手に取っているというか。

葬儀に三々五々集まる文学者たち、森鴎外らの登場、故人の家族の挨拶、故人の思い出を語る参列者、故人の恩師的立場の者からの挨拶…と、どの場も基本的に同じフォーマットを踏んで展開していく。でもってこのリフレインがあるからこそ、否応なく動いている「時代」というものがよりくっきりと浮かび上がってくるのがすごい。

彼らは皆、新しい日本語、新しい文学における言葉の獲得というものと向かい合ってきた人間で、その中でいかに自己の内面を表現するか、いかにイデオロギーから自由になるか、というようなセリフがあってハッとした。絵画や音楽がかつて宗教を表現することからはじまり、やがてそこから自由になったように、この時代には文学とイデオロギーは密接な関係にあって、そこから自由になることを模索していたのだ。この時代とは言ってもたかだか100年前の話なのに、今やアーティストがイデオロギーを語ることは禁忌のように扱われる。

最後の漱石の葬儀には、レッツゴー三匹ならぬ坂口安吾太宰治織田作之助無頼派三匹トリオが表れ、「これから」の話をする。そこで森鴎外が問いかける「では日本はいちど、滅んだんだね?」「はい」「でも文学は滅びなかった?」「はい」というやりとりが、どうにもぐっと胸にきてしまった。西洋文学の翻訳というかたちで、「正解」を知ってしまっているからこその苦悩、という話も面白かったし、幸徳秋水に対して夏目漱石が語る文学の敗北の言葉も印象深い。そうした時代があってこそ、表現というものが個人の権利として保障される時代に私たちは生きることが出来ているんだということを改めて考えたりした。

正面切って語られる文学論の傍ら、徹頭徹尾「今」の話題を差し挟んでいて、それがシームレスに展開していくのが見事だったなー。冒頭のカゲアナからして「本日は日大…失礼しました、日本文学盛衰史にご来場いただき…」だもんな。漱石の使うLINEスタンプは猫、女を男を癒す道具だと思ってない!?と意気軒高な樋口一葉に重なる「RT」「RT」の声、ドラマ、スポーツ、あらゆるネタを盛り込んで、それがなんというか内輪受けのようにならないところがすごい。ネタに品があるというかね!

それぞれの登場人物の略歴を知っているとずーっとニヤニヤできる感じがありつつも、全然知らなくても十分に楽しめる描かれ方だなーと思いました。逆に今まで名前しか知らなかったという作家でもここで描かれた人物像から気になって著作を読んでみたくなったりして。

森鴎外役の山内健司さんの存在感、すばらしかったなー。どんな場面でも森鴎外が出てくるとぐっと場面の手綱が引かれた感覚があった。全場を通して島崎藤村田山花袋の役で出ずっぱりの大竹直さん島田曜蔵さんも印象に残りました。志賀廣太郎さん、お元気な姿を拝見できてよかったです。あと坪内逍遥役はまりすぎでした!