そこにギョーカイはあるのかい

正直何から書いていいのかわからんというか、毎日毎日何かがある(誰かがなんか言う)のでそれに右往左往していて、右往左往した挙句疲れ果てもういいや寝よ…となる毎日。

でも何も書かずにためこんだままだと身体に悪いような気がしてくるのでいちおう、一人の演劇ファンとして思ったことを書きます。

平田オリザさんをはじめとする「興行に補償を」という主張が、いろんなところで取り上げられて、まあ炎上といっていい事態になっているのを遠くから眺めていたんですけど、その彼ら彼女らの主張に対してどうか、ってことを言いたいわけではないのです。とはいえ、野田さんのステートメントで引き合いに出された「スポーツ」を皮切りに、製造業とは違う、○○とは違う…という、「何かを引き合いに出して地雷を踏む」というのをなぜ毎回みんな丁寧に踏襲するのかなと心底思います。それ絶対やっちゃだめってばっちゃが言ってたやつ。表に(特にSNSに)出す前に誰かに見てもらったら…とも思うけれど、みんな間違いなく「書ける人」としてキャリアを積んできているのでそういうことは考えていないのだろうなあ。

オリザさんの言い分もいちおう全部目を通したし、なので本論というか「未曽有の事態を前に今までに補償スキームのなかったエンタメ業界にも独自のスキームが必要だ」っていう主張自体が突飛なものとは思わない。しかしいかんせん伝え方が…と私も思うし、一読した段階では、おまえ製造業なめてんのかとどうしても思っちゃうし、いったんそう思うともうそのあとの論旨なんて入ってきやしない。あと鴻上さんがSPAの連載で「好きなことを仕事にしているんだから我慢しろ」という主張について反論していたのも、これだけ鴻上さんで産湯を使った人間からしても「ちょっと待てい!」と思わざるを得なかった(「好きなことを仕事にしている」「していない」の分断を鴻上さん自ら作り出してる気がするし、そもそも我々仕事に「好き」かどうかってマターを持ち込んでないッス)。もちろん、だからといってどんな悪罵をぶつけてもよいというわけじゃないのは当たり前だ。さらにいえば、確かに感じよくない、印象良くない、上から目線、そうかもしれないけども、だから補償を受ける資格がないとも思わない。感じがいい人でなきゃ受けられない補償は補償じゃないと思うからだ。

しかし私がこの「コロナ禍」における演劇界について今思っていることは補償の是非というような話ではない。新型コロナウイルス感染症被害対策:舞台芸術を未来に繋ぐ基金=Mirai Performing Arts Fundの賛同人代表でもある板垣恭一さんのメッセージにあったこの部分に「確かにそうだな」と頷くところがあった。

それは演劇界ってのは、本当に存在しているのか?ということでした。例えば有事ではなく平時から僕らは「自助努力」してきたのかと。宋さんが発信していたように、保険制度を独自に持つとか、有事に対して業界で連携して社会貢献するなどの動きはあったのかと。僕たちは、それぞれが散発的に仕事をしてきただけで、互いに連携することでの「業界としての力」みたいなことにあまりにも無頓着であったのではないか。

国民に対する一律の給付金についてニュースが飛び交っていたころ、和牛の「お肉券」を発行することで畜産業界からの要望に応える…といった話が浮上していたのは記憶に新しいし、私のTLでも文字通り沸騰するようにその話題が出た。もちろん皆の主張は「今は肉じゃねえ!金だ!」だったわけだけれど、なぜああいうニュースが出るかというと、それはその業界団体が仕事をしているからに他ならない。高級和牛の需要が減り、畜産農家が困窮する、そのための施策を考えてくれ、と業界団体が発言し、それを政府に届かせるスキームを持っているからだ。畜産業に限らず、漁業も、農業も、個の力をひとつにして大きな声にする仕組みがなければ立ちいかなくなる、という事態が今までにもたくさんあり、それが今の発言力に繋がっている。ここで「いや私たちは最後で大丈夫ですよ、どうか他の人を助けてあげて下さい」とかいって業界団体が主張しなかったら、当然のようになにもしてもらえない。だから声をあげる。もちろん、なんでも業界団体の言うことを通せというわけじゃなく、今は肉じゃないんで、肉のことはあとで考えるから、まずお金ね、というようにそれらの主張を聴き、調整し、採用し、あるいは却下するのが政策の仕事だ。

つまるところ、今の演劇界の弱さは、業界団体としての脆弱さと直結してるんじゃないかと思う。そういうことを意識してこなかった。むずかしいのは、だからこそ生まれた文化でもあるというところだ。私の観劇歴は長いとも短いとも言えない中途半端なものだし、体系的に演劇史を学んだわけでもないので、これは30年間観客席に座り続けた人間の感覚による頼りない発言にすぎないが、あるムーブメントについてそれを否定し、違うものを表現する、という大きな流れが演劇界の一部にはある。新劇からアングラ、アングラから小劇場、静かな演劇、そしてもちろん大きな資本の入った商業演劇伝統芸能…と演劇といっても一枚岩では決してない。しかも前の時代への否定が入っているぶん、余計に横のつながりが薄い。今となっては、そうしたジャンルも明確な線引きはなくなってきつつあるのかもしれないが、逆に言えば常に新しいものが台頭できたのには、大きな一つの業界を形成してこなかったからこその恩恵の部分もあるのじゃないかと思う。

とはいえ、いつかは限界が来たのかもしれない。それをこの新型コロナウイルスが早めただけとも思う。出演者がインフルエンザに罹患して公演休止…という事態がこの2~3年そう少なくない頻度で起こっており、感染症という突発事態に演劇界がどう対応すべきか、というのは遅かれ早かれ議論になっておかしくなかった。実のところ、みんな薄い刃の上を渡るように興行を打ち続けていて、それが一気に崩され、その下敷きになった演劇関係者が山のようにいるのだろう。だからこそ、じゃあ、これからどうするのか?ということを考えなきゃいけない。それは創り手だけではなく、観客にも課せられた課題だ。

もちろん観客は製作には関与しないが、これから演劇界がより強固な「業界」を形成していくべきなのか、セーフティネットを構築するべきなのか、そしてそれらの負担が「チケット代」として跳ね返ってきたときに、それを受容できるのか、というのは逃れられない問題なんじゃないかと思う。「パラサイト」でオスカーを受賞したポン・ジュノ監督が是枝裕和監督との対談の中で、「3、4年前から、韓国の映画産業が決めた労働時間に沿って制作してきました。昔のように徹夜での撮影が武勇伝になった時代は、完全に終わりました」と言っていたけれど、演劇界での労働条件というものにも、私はこれまで完全に無関心だった。よく海外公演のドキュメンタリなどで、海外のスタッフは労働時間が決められている(から、最後の追い込み作業の時間がない)というエピソードが語られ、それには徹夜突貫何するものぞ、な日本側を良しとするようなトーンがあったけれど、果たしてこれからもそれで良いのか?こうした事態においてスタッフのすみずみにまで補償をいきわたらせるには、ユニオンの存在が不可欠なのではないか?と思ったりもする。

さらには、これはまさに喫緊の課題というようなところだけれど、「コロナ後」の演劇をどうするのか、という問題がある。いまのこの状況は、永遠には続かない。いつかは終わる。それが半年後なのか1年後なのか10年後なのかは誰にもわからないし、どう終息を、というか折り合いをつけるかもわからないが、いつかは劇場が再開される日が来るだろう。その時に今までのままでいいのか、ということを考えなきゃいけないし、「コロナと折り合いをつけながら劇場を開ける」という、いわばプランBを演劇界が共有する必要があるだろうと思う。当日券の売り方、客入れの仕方、座席の配置、そもそもキャパとしてどの程度から再開していいのか、という問題もある。今までは原則応じられなかった「キャンセル対応」の是非の問題もある。緊急事態宣言前は各公演、各劇場が専門家会議の「提言」を参考に独自に対策をとっていたが、キャパ別にある程度のガイドラインを演劇界全体で共有する(当然そのプランを専門家に評価してもらう)必要もあるのではないか。

おまえが消えて喜ぶものにおまえのオールをまかせるな、というのは「宙船」の歌詞の一節だが、その喩えでいけば私は観客としてこの演劇界のオールを持つひとりだ。コロナ後の世界は今までと同じものではない、という言説には、もちろんそうだろうな、と思う。思いながら、でも私は劇場に行くだろうな、ということについて、まったく自分を疑っていない。どれだけ時間がたっても、私が恋しくおもう場所は劇場だからだ。だからこそ、劇場がふたたび開くときのことを真剣に考えたい。演劇界の方にも、いま真剣に考えているであろう「コロナ後」の劇場のことを、観客と積極的に共有してもらいたい。同じ船に乗る者同士、できることはきっとあるんじゃないかと思う。たどりつきたい場所は同じなのだから、きっと、できることがあるんじゃないか。そう思いたい。