「フェイクスピア」 NODA MAP

野田地図新作。フェイク+シェイクスピアのタイトルからして何かこう、仕掛けがあることは間違いない雰囲気ぷんぷんでしたし、「フェイク」という単語を入れ込んでいるところから見ても、昨今のSNS、ネットにおける「ことば」の使い方を刺す方向でくるんじゃないのかなー?という予想をしておりましたが、個人的にはいい意味で予想が裏切られたという感じ。

例によって、以下は完全に物語の具体的な展開(いわゆるネタバレ)が含まれますので、これからご覧になる予定の方はお気を付けください。

恐山のイタコが呼び出すものは、言葉の神様?四大悲劇?父と子のダブルブッキング?火を盗んだプロメテウスさながら、言葉を盗んだ男の手にする箱の中にある言葉とは一体何なのか?

私の年代(1971年生まれ)に近いか、それ以上の観客であれば、この物語が何をとりあげているのか、ということにかなり早く気がつく方も多いのじゃないでしょうか。実際私も、物語のかなり序盤であの箱が何か、というのはうっすらと認識しながら見ました。事故の記憶自体が非常に鮮明に残っている(私の場合、そのニュースを聞いた場所・シチュエーションもはっきり覚えています)のもありますし、加えて過去にこの日航機墜落事故を題材にした演劇作品にふれていたことがあるからです。燐光群の「CVR~チャーリー・ビクター・ロミオ」、そして離風霊船の「赤い鳥逃げた…」。中でも、CVRはまさにその名の通り、コックピットヴォイスレコーダーを再現する芝居でしたから、「その言葉」を一通り体感していたことになります。

私にとって予想外だったのは、野田さんがあの言葉の一群を「生きるための言葉」と定義し、書いたもん勝ちの「言葉」の対極に置いたこと、フィクションを「ノンフィクション」にさせないために、その飛行機の尾翼にとりついてでも…という台詞があったこと、それらの言葉のなだれ込む先が、若者への「生きる」という言葉へつながるところでした。

コロナの影響を受けた作品を書くとすればもっとあとになるだろう、とご本人は語っておられ、それは実際にその通りだろうと思いますが、この着地点に至ったことには少なからず、今のこの誰もが不安を抱えた時節に書かれた作品であることが関係しているような気がしてなりません。

それにしても、「赤い鳥逃げた…」でもそうでしたが、CVRの音声に限らず、あの事故の中で語られた「言葉」の強度はやはりすさまじく、創り手が一切手を加えないで引用、再現する例が続くのは、ある意味フィクションの敗北というべきかもしれないですが、しかし私が見た作品はいずれも、その敗北を取り込んだうえで「何か」を表現するべくもがいた作品でもあり、だからこそ心に深く残っているような気がします。

わりといつもお馴染みの面子が並ぶ野田地図キャストですが、今回初の出演、という方も多く、フレッシュな顔ぶれになったのはよかった。高橋一生はあのうなるほどうまい橋爪功とがっぷり組んでぜんぜん食われるところがないのが何気にすごい。あとそれがもう芸風だとわかっていますが野田さんはもうちょっと落ち着いてもいい。いや落ち着いたら野田さんじゃないのか。

作品としての感想は以上です。以下は自分の観劇記録におけるメモのようなもの。

私が拝見したのは28日のソワレですが、序盤(イタコとオタコの掛け合いとなるあたり)からどうも台詞の間が合わない場面が続き、これはどうやら白石加代子さんの台詞が覚束ないぞ、ということに気がつきました。最初は「上手の手からも水がというやつだなあ」とか「初日開けたばかりだし、コロナもあって稽古時間があまりとれなかったのかなあ」などと思っていましたが、たとえ台詞に詰まってもきっかけがあれば流れ出す、という場面は今まで沢山見てきたものの、この日に限ってはまったく復調の気配がなく、私の座席が前方上手側だったこともあり、プロンプの姿が袖からはっきり見えてしまい、声から野田秀樹がプロンプをしていることもわかり、舞台の上も動揺していたかもしれませんが私もむちゃくちゃ動揺しました。

その後、野田秀樹が台本を片手に登場して白石さんの横に立ち、その後は基本的に台本を読みながら演じるというスタイルになりました。白石さんの役柄が「イタコ」の見習いということもあって、「言葉を借りて喋る」から台本を持っているのか…?というようにも見え、演出の枠組みの中に入れるような対処でよかったと思います。

他の役者陣は非常に冷静に対処しており、とくに高橋一生は極力間を開けないよう食い気味に台詞をかぶせたり、相手の台詞を引き取ったりしながら、泰然自若というような佇まいを崩さず、大器だなあと感心しました。高橋一生橋爪功のコンビ、高橋一生伊原剛志川平慈英のトリオ、ここの芝居のリズムがまったく崩れなかったことが、最後まで芝居を成立させた最大の功労者だったと思います。

翌日以降の舞台は無事につとめられているとのことで、一種心理的な要因によるこの日限りのことであったのかなと思いますし、このコロナ禍での上演が、演者にとっても有形無形のプレッシャー、ストレスとの戦いであることを改めて思い知らされたような気もしています。

個人的には中盤以降、舞台における意図しない間の空き方、緊張感、あの白石さんが、というショックで集中を欠いた観劇になってしまった部分もあり、そこは残念だったとしか言えませんが、しかしこれが生の舞台というものだよなとも改めて思いました。何も約束されたことなどない、その日その日の奇跡の結実のようなものなんだなと。これを演劇の「醍醐味」とは言いたくありません。醍醐味とは、そう、普段の白石加代子さんの演技のようなことをいうのであって、またその「醍醐味」に触れる機会を、今は楽しみにしたいと思います。