「広島ジャンゴ」

先に観劇した友人らの「きつい」「しんどい」評に、そ、そうなの?どうやら思てたんと違うらしい…とおっかなびっくり見てきました。先に心構えができててよかった。確かにしんどい。確かにマッドマックス。いや主演天海さんで鈴木亮平が馬でって言われたらそこにおポンチの香りをかぎとってもしょうがないと思うのよ。でも蓬莱さんだからね!そういう方向にいくわけなかったね!

最初に描かれる「現実」のシーンのしんどさ、そのえぐみがあまりにも濃く、「これ2時間ずっとだったらマジで心折れる」と暗澹たる気持ちになるほど。最悪な意味での「家族のような職場」、休日にクソみたいな上司につきあわされ、野球の話を振られ…あああいやだ。マジであの職場、秒でやめる。

その職場で上司の腰巾着というか米つきバッタといおうか、とにかく事なかれ主義を絵に描いたような鈴木亮平演じる木村は、勧善懲悪ものの西部劇を繰り返し観ることで心のバランスを保っているが、ある日目覚めるとその西部劇の世界に入り込んでいて、しかも自分は馬だった!という筋書き。

自分は馬だった!というのは、あの世界での無力感を描く(現実での無力さと繋がってる)ための装置なんだけど、こちとら新感線で産湯を使っている人間なので、「ヒトが馬…おもろいに決まってるやん!」みたいな、オモロ装置としてとらえちゃうところに超えられない壁があったという感じか。

西部劇世界においては町長が町民の生命線であるところの「水」を抑えて暴利の限りを尽くすという、お前はどこのイモ―タン・ジョーだよという感じだし、その町長の舌先三寸に言いくるめられる民衆のしんどさも容赦ないのだが、しかし蓬莱さんの筆はやっぱり現実世界の「しんどさ」の方により細かく書き込みされているという感じなんですよね。木村の姉が出てくる場面、あの「20分の昼休み」の描写はまさに蓬莱さんの真骨頂というほかなく、この場面があるから西部劇世界でのディカプリオの大暴れにつながり、それがさらに現実世界での、絶対的なボスへの反抗につながるという。

20分の昼休みすら持つことのできなかった自分の姉との対話を経て、今自分の目の前にある「そうなるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」人との対話につなげていくところはさすがだなという感じ。

逆に言うと西部劇世界はそれとは真逆のはっちゃけぶりがあってもよかったなと思う。もう少しケレン味多めでお願いしますー!と言いたくなるのは、芯に天海祐希を持ってきているメリットをもっと活かそうぜえ!!というシアターゴアー心ですね。

天海さんは何をやらせても声の良さが際立つというか、カッコよくキメようとしなくてももう、存在から匂い立つカッコよさがすごい。最初のシーンで必死にオーラ消してますけどもれてますよ感あった。鈴木亮平さんももちろんよかったが、役者のタイプ的にはこういう無力感にのたうちまわる役よりも、それこそ暴君タイプの方で見てみたかった気も。池津さんも宮下さんも声の存在感が群を抜いていてさすがでした。