- 新宿シアタートップス F列5番
- 作・演出・美術 小沢道成
初演の上演時も好評ぶりは小耳に挟んでいて、と思ったら読売演劇大賞で優秀賞に名前があがっていて、うわーこれ再演があったら観たいな、と思っていたんですよね。これは何度かブログでも書いてるけれど、私は読売演劇大賞は誰が獲るかもあるけど、思いもかけない名前があがってきたときに「次見に行くリスト」としても活用しています。劇団チョコレートケーキに出会ったのもそれがきっかけだったし。小沢道成さんは虚構の劇団に参加されていたこともあって、お名前を存じ上げていたのも興味をもった理由のひとつです。
めちゃくちゃおすすめしたい作品なので、このあと大阪・北九州・金沢でご覧になる機会のある方はこの先を読まずにぜひ足を運んでいただけたらと思います。
我々はどこからきて、どこへいくのか。いろんな創作者が手がけてきたテーマでもあると思うし、永遠に問い続ける、つまり答えのない問いなのかもしれない。この作品はその問いに極限まで真摯に向き合うことを描いた作品とも言えます。
別に作品に似ているところがあるわけではないのに、なぜか過去に観た鴻上作品の芝居の断片が浮かんでくる瞬間があり、もちろんそれは小沢さんが鴻上さんの舞台に出ていたことを知っているからかもしれないけど、でもこの「世界」に対する向き合い方、姿勢のようなものが似ているのは偶然じゃないような気もします。たとえば「朝日のような夕日をつれて」のラストは、「みよこの遺書」と呼ばれるものですが、その中の「この宇宙は分子によって成立している、どんなに多くとも有限な分子によって成立している、だとすれば、有限な分子が、有限な組み合わせを、無限の時間のうちに繰り返すなら…」というフレーズなどは、この「我ら宇宙の塵」と世界観を同じくするように思えましたし、そして私はやっぱりそういう演劇が好きなんだな、と実感するものでもありました。
星太郎が自分の中でずっと問い続けたことが、視点の逆転によって時間が動き出し、喪ったものと向かい合うシーン、パペットがパペットでなくなり、パペット遣いがパペット遣いでなくなるあの瞬間は、演劇だからこそ見せることができる一瞬の錯覚、錯覚のなかの真実にほかならず、あまりにも美しい、美しすぎるシーンでした。
陽子が星太郎を探しながら行きかう人と道行きを共にし、それぞれがそれぞれの中にある「死」と折り合いをつけるという展開も、今年の夏父を亡くしたこともあり、自分の中でも星太郎と同じことを問いかけずにいられない芝居だったなと思います。あの道行きを共にする展開も、ちょっと不思議なテイストがあってよかった。まるでおとぎ話のような。鷲見がかつて飼っていた犬のことを、散歩していた公園の中にこそその姿を見る、と語る場面も好きだったな。そうだよね。思い出って本当に不思議で、その人がその人らしかった瞬間が永久凍結されたように浮かんできたりするよね。
池谷のぶえさん、本当にすばらしい。一部分だけを切り取れば「毒親」と断罪されかねない行動のその裏になにがあるのかを繊細に掬い取っていて、見事でした。のぶえさんの出ている芝居は、のぶえさんが出ているというそれだけで信頼してしまいたくなります。
久々に小さな劇場で、濃密な時間を過ごせましたし、本当にこういう芝居を観るたびに、私はここの村の出身だな~!と思っちゃう。こういう芝居が私の好きな芝居です、と胸を張ってみんなに紹介したくなる、すばらしい時間でした。