「いきしたい」五反田団

五反田団の新作。コロナ禍のことではなく、個人的なことを書きたい、という作・演出の前田司郎さんの弁。ツイッターでフォロワーさんが激賛されていたのを見て、あわてて追加発売になったチケットを買いました。追加販売に救われたパターンですね。

舞台上で引越し荷物の片づけをしている男女。どこにでもある普通のやりとり…と思いきや、そこに男の死体が引きずられてくる。「どうすんだよ」「捨てないと」「どこへ?」「どこか…遠くにだろ」。男女の会話は続くが、転がっていく先は見えない。

1時間の3人芝居、濃密で、演劇の仕事、演劇にしかできない仕事をいっぱいに頬張ったような後味。すばらしかったです。観に行ってよかった。冒頭の男女のシーンで、確かに男が出ていくようなセリフがある(女が「実家に戻るの?」と聞く)のだけど、そこからどんどん話が転がり、かつまったく思った方向に進まないのに、ちゃんとぜんぶが繋がっている(のがわかる)のが、本当に巧み。加えて、あの会話のすばらしさ!女はかつて夫と死別したことがわかるのだけど、舞台上にいるのは死んだ夫の概念というテイの男と男女の3人で、「死んでるのにいるじゃん」「それも織り込み済みでつきあってたんでしょう」というこの台詞ひとつとっても、舞台上にある「ありえないこと」を具体的に指すおかしさもあれば、かつての夫の死をまだ心に抱えたままの女への「まだ(心に)いるじゃん」「(そういう過去も)織り込み済みで…」という、ドラマとして完全に成立する台詞にも読める。サブテキストとも違う、言葉の多重録音つーか、台詞はひとつなのに意味はいかようにも見えてくるというか、そういう面白さがちりばめられている作劇にちょっと震えちゃいましたね。

女が暗闇に誘われていくシーン、あれこそあの空間でないと感じとれない、繊細さに満ちた場面だったなあとおもう。まさに闇に溶けていく、溶暗という言葉がぴったりなあのトーンを落としていく照明。完全な暗転ではないから、より闇が真の闇に見える。そこから誘う声。そこへ引っ張る手。ああいう瞬間はきっと、どんなひとにもあるんだろう。その瞬間に闇のほうを見てしまう人もいれば、闇に気がつかない人もいるというだけで。でもそんなときに、その闇を照らしてくれるものと、人間はかならずどこかで出会っている。その日食べたカレーが美味しかったとか、そんなこと。この女にとっては、それは光るパンツだった。

息したい。遺棄死体。行きたい、逝きたい、生きたい、遺棄して、息したい。抜けた歯の思い出を海の底に返しながら、女は思い出の帰る縁の灯りを隠す。もう戻ってこないように。

最近続いた悲しいニュースのいくつかを思い出し、あのかすかに揺れながら現れるパンツの灯りを思い出し、こういう灯りをどうにかして消さずに、心の中に持っていられたら、みんなが持っていられたら、と、柄にもなくそんなことを思った。

開演前に前田さんからご挨拶があり、感染症対策として行っていることについて説明があったのがすごくよかった。60席販売されていた(当初の45席を制限緩和で増席)とのことだけど、楽屋の入り口とか、シャッターを半開きにするとか、換気扇とかを駆使して空気の流れを起こしていること、舞台ツラから最前列まで2mの距離があること、役者は基本的にツラで芝居はせず、ツラから1.8mぐらいの距離で芝居をすること等々。脚本は800円で販売していたが、お金のやりとりを最小限にするため200円のお釣りをあらかじめマステで止めて脚本と一緒に渡すなど、まさに「ぬかりなくやります」の言葉通りであった。換気のために音と光が気になったりするかなと思ったけど、まったく支障がなかった。あの闇の冷え冷えとした感触はまさにあの劇空間ならではで、そういう感触に首元まで浸かれたのも観劇の文字通り醍醐味でした。戯曲がとにかく素晴らしいので、ぜひ再演を検討していただいて、もっとたくさんの人がこの舞台を経験できるといいなと思います!