「アメリカン・ドリーム」

  • PARCO劇場 A列15番
  • 作・演出 三谷幸喜

三谷幸喜さん新作で、キャストに小日向さん浅野さん山崎さんが揃っているのを見た時点で「こんな勝ち確あります!?!?!?」って飛び上がっちゃった。共演者も手堅くてしかも題材がマッカーシズム!かつて「笑の大学」という大大大大大傑作をものした三谷さんが、「思想を取り締まる」という部分に踏み込むって、んもー期待値爆上がりでしたよ。

舞台上の構図はいたってシンプルで、「赤狩り」のために映画人たちが共産党員ではないか、コミュニストの集会に参加しているのではないか、そういう人物を知っているのではないか…という尋問を行う政府側の役人2人の待つ部屋に、女優、映画監督、劇作家そして脚本家という立場の違う4人が一人ずつ呼び込まれ、そこで1対2の構図で繰り広げられる、丁々発止のやりとり、野心や信念をめぐる侃侃諤諤を描いています。

この、4人の映画人に対していずれも構図は同じ、というのが実によく効いていて、「同じことを聞かれる」からこそ、それをどうやって返すのか、という部分が自然と際立ってくるんですよね。さらに言うと、この小日向浅野山崎っていう名手三人の役者としてのタイプの違いみたいなものも浮かび上がってくる。今回3人は基本的に「受け」の芝居なので、だからこそいっそう、彼らの技量が際立つってわけですよ。

いやもう正直、もちろん物語としても楽しんだけど、この3人の芝居のうまさに舌を巻きっぱなしの1時間50分でしたわ。もうね、本当にむちゃくちゃ細かいところまで芝居が行き届いてんのよ。机にぐっと身を乗り出すタイミングとか、仕草や声のトーン、相手の芝居を「聞く」姿勢のうまさとか…。この長い芝居を憎み短い芝居を愛する私をして、「いやーこれ、もうちょっと長くやってもらってもええですけどね!?」ってなるほど、ずっと見ていたかったもん。飽きねえ。こんなにも芝居のうまさが結晶のように舞台の上に出現することってあるんだ…(感動)。

4人の登場人物にはそれぞれ実在のモデルとなった人物がいて、浅野さんがエリア・カザンだというのはすぐわかったな。山崎さんの役が劇作家というので誰だろう?と思ったらブレヒトだったんですね知らなかった。トランボは最初に名前が出てくるので、これが小日向さんの役のモデルなんだろうなーと思いながら見ていました。

今回の舞台における浅野雅博さんの役のような、いわば取り締まる方を絶対悪のように書かないのが三谷さんらしさだなと思うし、そこに物足りなさを感じるひともいるかもしれないが、彼らもまた「市井の人」であることを考えれば、三谷さんのしたいことは彼らに対する断罪ではないんだよね。冒頭のトランボの名言からしても、皆同じ人間で、でもだからこそ立場が違えば人はとことん残酷にもなれる、というのは、笑の大学でも、国民の映画でも三谷さんが書かれてきたことなんだよな。そして常に、「制約のなかで芸術はなにができるのか」を考えているひとなんだろうなと思う。そう思うと三谷さんがこの作品でトランボを芯に据えるのも頷けるものがある。

今回の芝居、名手三人は基本受けの芝居だと書いたけど、逆に「投げ」役はもっぱら中川くんが背負っていて、役人としての立場と、映画という文化を愛する市民としての二律背反に悩む、悩んではいるけれど明るさは失わない役柄を好演していました。浅野雅博さんは権威主義的な立ち回りの役だけど、その実、場の交通整理とお互いの感情の通訳をこなしつつのあの仕事ぶりなので、手練れとしか言いようがない。ダブル浅野贅沢すぎなんよ!関谷春子さん、初めてお見掛けしたと思うのだけど、この座組において印象が薄れない芝居ぶり、お見事でした。なんかフライヤーとかキャスト一覧で関谷さんだけフォントが小さいの、マジで意味不明なんですけど。最初声だけなのかなとか、出る場面が限られるからなのかなとか思ったけどぜんぜんそんなことないじゃん。どういう意図か知らないけどこういうの本当にしょうもないし作品の良さが泣くのでやめた方がいいと思います。

浅野(和之)さん、露悪的な立ち回りをしてみせつつ、監督は作品を撮り続けることでしか生きられない、そのためにはなんでもするという信念を見せる場面とか素晴らしかったね。他人を告発することは正しくはないのだろうし、こういう人物にはしっぺ返しにあって欲しいと思っちゃう部分もあるけど、だが彼には彼の正義があるんだよな。中川さんが映画ファンだと知って心の中で彼の称賛を待ってしまう機微をみせるところ、ひーひー唸るほどうまくてしびれた。山崎さんは外国人という役回りを存分に活かしてそのギャップで笑いを誘う場面も作りつつ、しかしこの芝居の中でもっとも痛烈な批判を浴びせるのもこの人だっていうのが最高でした。緩急の極みみたいな芝居作りの確かさ。最終盤における存在感も含めて見事すぎ。

小日向さんはみんな大好きカミソリ小日向の匂いも若干ありつつ、自分自身の信念を曲げない、でもその曲げない姿勢すら大仰にみせず人としての在り方を伝える役で、こんなん、こんなん、好きにきまっとりますが!?となるしかなかった。党員であることも集会に参加したことも否定しない、でも他者を売り渡すことを徹底的に拒否するあの姿勢、それを穏やかに、でもきびしくみせる芝居の温度感たるや。ほんと、贅沢な時間だったよ…。

私は日本国憲法でいちばん好きな条文は第19条なんです。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」内心の絶対的自由、沈黙の自由。人間が考えていることを取り締まろうとするとき、それは本当に世界が良くない方向に進んでいるときだし、だからこそ、いま三谷さんがこのマッカーシズムを取り上げたことには大きな意味があるような気がしています。

「パレイドリア」第三舞台2026

  • 紀伊國屋ホール A列12番
  • 作・演出 鴻上尚史

「ロックミュージシャンというのは、ノスタルジー配給係としての役割っていうの、絶対あると思うんですよ。僕は再結成してよかったなと思うのは、再結成っていうのは単にバンドが、メンバーがよりを戻すってことだけではなくて、そのバンドが再活動することによって、スタッフとの再会があったりだとか、他のミュージシャンとの再会があったりだとか、ファンとの再会があって、ファンはファン同士の再会があって・・・結局わかったのが、ロックバンドの再結成というのは、ほんとにたくさんの、無数無限の再会をいたるところで派生させるための、音楽による、大いなるきっかけという本質があるんだなと思ったわけですね。」

2011年の「深呼吸する惑星」で劇団が解散してから15年、なんと第三舞台の再結成、新作公演である。再結成と表立っては言っておらず、鴻上さん曰く「今集まれるメンバーで」の公演なので「2026」をつけているらしい。いやしかし、バンドの再結成は枚挙に暇がないほどあるけれど、劇団の再結成ってのはなかなかない。こういうとき、名前の後ろになんかつけて照れ隠し(決めつけ)しちゃうのも、俺にはこの道はいつか来た道すぎる。

さて、冒頭に引いたのは筋肉少女帯が再結成したときの大槻ケンヂさんの言葉である。私がやっている別のBlogのタイトル「配給ノスタルジー」はこの言葉から頂いている(なお自分の贔屓のバンドが再結成する遥か前に命名したので、自分でもええセンスしとるやんけと思っている)。さて、では劇団にも同じようなことが言えるのだろうか?つまり、「無数無限の再会を発生させる、大いなるきっかけ」という側面が、ノスタルジー配給係としての側面があるのだろうか?

学生時代にボランティアサークルで活動していた仲間のうちのひとりが、昔の仲間を突然訪ねてきて、昔子供らの前で上演するはずだった「桃太郎」を上演しようと言い始める。戸惑う仲間たちだったが、実は彼は若年性健忘症を患い、記憶が混濁した状態にあることがわかってくる。だが、話しているうちに、彼の記憶の中にあるはずの「思い出したくない過去」が消え去っていることに彼らは気がつく。

「桃太郎」のような、言ってみればある種の典型的な物語の標本のようなものを取り上げ、それを解体してみせていく、というのは鴻上さんの好きな(得意な)パターンでもあって、いかにも中年然とした佇まいとそれにふさわしいある種の貫禄のついた役者たちが「桃太郎」と連呼するのは最初はどこかアンバランスな感じがするのだが、稽古においてコンプライアンスを意識したツッコミや物語の視点に茶々を入れていく場面はかなり面白く仕上がっていてさすがだった。

彼らの過去に何があったのか、という部分は、わりと想像できるように書かれているので、展開にあっと驚かされる、というよりは、どこかやはり同じ時代を生きたあの頃の彼らが、いま舞台でどうやって生きているか、を確認するような気持ちが自分の中で強かったと思う。長野さんの着ぐるみなんかは、もう完全に開き直っていて、初めて第三舞台を見に来るひとには何のことかまったくわからんのではないか…とも思ったが、個人的にはでもまあ、それでもいいんじゃないか、という気がしていた。そういう気持ちになったこと自体、自分も歳をとったんだなあと思う。

そうそう、「ごあいさつ」にもAIのことが書かれていたが、こうした技術について鴻上さんは常にオープンマインドなところは素直にすごい。演劇においてああいう形で「AI人格」を舞台に登場させたのは初めてではないか?実際、今回AIのキャラクターが果たした役割は、今までであれば「空気が読めないキャラ」が代替していた可能性が高く、それがAIになることで不思議な面白さを産んでいた部分もあったと思う。

芝居の作り方もキャラクターの立て方も、あの頃のままといえばその通りで、でもこういうやり方を貫き通したから彼らは今ここにいるんだよなってことを思ったな。それが古いとか正しくないと言われても、それはそうかもしれないが、でも私には彼らのエネルギーからもらえるものだけが光だった時期があったし、突然流れる音楽に乗せて踊る彼らのかっこよさ、中央で赤いドレスで踊る長野さんの輝きに生かされていた時が確かにあったのだ。

演劇は、終わってしまえば何も残らない、「風に記された文字」だからこそ今を問われ続ける。今回の「ごあいさつ」では「忘れる」ことについて書かれているが、私も、忘れることは人間にゆるされた恩寵だと思っているので、この文章はあまりにも刺さった。忘れたり忘れなかったり、忘れようとして忘れられなかったり、忘れたくないと思いながら忘れたり、でもそうして月日が経って、もう一度あの頃愛した劇団に出会うというのは、それだけでひとつの大きなエポックなんだなと思った。それがノスタルジーと言われるなら、それはそれで私はいっこうにかまわない。

大高さん小須田さん長野さん山下さん、みんな過去に演じたキャラクターの欠片がどこかにあるみたいに感じられたな。回想シーンの長野さんが小須田さんに「そうね、私には関係ないもんね」というところ、まんま天使の「ケイ」のトーンでそれだけでガチ泣きしそうになりました。中山さんや飯窪さん、小松さんや安西さんら「若手」側の出演者たちが、ちゃんと彼らの世代の理論で「第三舞台メンバー」に相対する役だったのも、よかったです。

しかし、こうなってみると、「いや、じゃあほかのメンバーでもやれんじゃね?」となってしまい、それならそれで…見たいが?となるのはしょうがないと思うのよ。今回の2026のおかげで、そういう扉も開いた、かもしれないと少しだけ期待してしまう自分がいます。

「八月納涼歌舞伎 第二部」

  • 歌舞伎座 1階5列21番

「らくだ」。昨年急逝された片岡亀蔵さんを偲んでの演目です。駄菓子菓子!それなりに長いこと歌舞伎の舞台に親しんできたはずなのにわたくし、この演目、今回初見でございます。歌舞伎データベースで検索してみたらけっこうな頻度で上演されてて二度びっくりよ。なんで見たことなかったんだろうな?

ふぐを食べて頓死してしまった悪友の弔いのためにあれこれ企てる遊び人の半次を幸四郎さんが、半次に振り回される久六を勘九郎さんが演じていて、楽しく拝見しました。このらくだの筋書きに沿って、死んでしまった馬太郎があれこれと「こちら側」の人間を笑わせる…っていう構図をメタに考えちゃうと、亀蔵さんを思わせる台詞の遊びとかだけで泣けちゃうアレなので、そこは心の距離をとりつつではありましたが。

しかし、俯瞰で見るとこれ、それぞれの場面での面白さ、笑いのフェーズが違うのでけっこうやるのが難しい演目だなという気はした。スラップスティックな笑いもあれば、落語らしい酒をきっかけの攻守交替による笑いもあり、単純なずらしの笑いだけじゃないって感じですよね。近々勘三郎さん・三津五郎さんと亀蔵さんがおやりになったときのシネマ歌舞伎が配信されるそうなので、そっちも見てみよーと思いました。

亀蔵さんがいなくなってしまったことはちょっとあまりにも急すぎて、いまだにぜんぜん受け止められていないんですけど、私は亀蔵さんのことを思い出すとき、なぜか「天日坊」で演じた赤星の出の場面でしぬかと思うほど笑い転げたことを真っ先に思い出します。だから亀蔵さんのことを思い出すときは私はどーしても笑顔になっちゃう。そういう役者さんだったよな、観客にそういう楽しさをくれる役者さんだったよなってことを、これからも何度でも思い出したい。

「百千鳥沖津白浪 鬼神のお松」。初見です!そりゃそう!本興行では62年ぶりの上演らしいですから!あらすじも全く知らないので、新鮮な気持ちで観ました。実際見てみると、なるほど62年ぶりなのもまあ…わかるかな…という部分も確かにありましたね。いい場面はいくつかあるけど有機的に繋がっていかないのでドラマの盛り上がりに欠ける部分もあったり。四郎太郎と四郎次郎、むちゃくちゃいい設定なんだから、四郎太郎をお松が手にかけたって展開をもうちょい活かしてほしさある。歌昇さんマジでいい人すぎただけで手にかかって去っていくの寂しすぎた。お松が手にかけたと知って、そこでどう出る!みたいなアレほしい(個人的な願望すぎる)。

しかしこの演目は、最後の花道でのお松の去り際の芝居、あそこに全ベットだなという気がしましたね。あの場面、マジでしどころしかない。サブテキスト満載の台詞に役者がどう応えていくかって意味でも見ごたえ十分でした。七之助さんのために書かれた設定では…?みたいな役柄で、どこをとってもはまり役という感じ。楽しかったです。

「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」


おっ公開してるな~タイミング合ったら見ようかな~とか思ってたんですけど、第2弾の入場特典がボンボンドロップシールと聞いてまぁじ!?となってしまいいそいそ出かけてしまいました…いやべつにシール集めてるとかじゃないですけど、あまりにも噂に聞くボンドロを入手してみたくて…ッ!ちいかわ原作は熱心に追いかけているわけじゃないですが、このセイレーン編はX更新当時界隈がむちゃくちゃざわついていたので気になってリアルタイムで見ておりました。あと映画観に行こうって決めてからもっかい読み直しました。

面白かったし、ほぼ原作の漫画通りの絵面で進行していくのに動画としての魅力もむちゃくちゃあってそれがすごい。映画だからって過剰に客に対してお節介になったり親切すぎたりしないしはしゃぎすぎもしない。なんて地に足がついてるんだ!

高額の報酬につられて出かけた島で怪異と出会い、その怪異の退治を依頼されるが、怪異が島人たちを襲うようになったのは理由があり…という、神話上の存在との契約が破られたことによって報復を受けるという民話的側面と、「いつもの仲間」がそれぞれは微力ながらもなんとか力を合わせて目的を達成しようとする冒険パーティ的な側面があって、どっちの見方をしても入り込めて楽しめる。びんよよってあんなに使える武器なの!?うさぎかっこよ!ちいかわがんばれ!モモンガてめえ!みたいなことを思って手に汗握りながら、ヒトハとフタバの罪と罰的展開に震えちゃうのが同時に起こるので、この懐の深さがたくさんの人を惹きつける理由なのかもな~と改めて思いました。

Xでいろんな考察とか、子供に見せられるいや見せられんみたいな話まで全方位で盛り上がっているのもむべなるかな。私が見たときは学生ぽい年齢層のひとが多かったけど、みんなちゃんと事前情報を得ているのか、ポストクレジットシーンまで誰一人席を立たなかったな。

セイレーンを追い払ったあとの宴でちいかわがヒトハたちに何かを言いかけてやめる、という場面、べつにちいかわはあそこで彼らを告発しようとしたわけじゃないだろうし、彼らに命を救われてることを考えてもそんなことしないでしょう。でも本当はなにがあったのか、ということは尋ねたかったのかもしれない。けど、ふたりの震える手をみてやめるんだよね。それはべつに臆病だからでも日和見だからでもないよなーと思いました。あとちいが泣きながら実を食べるシーン、なぜか脳裏に「泣きながらご飯をたべたことがある人は生きていけます」がこだました俺なのであった…。

オープニングやエンディング、劇中歌がむちゃくちゃよくて、うさラップのシーンとか声出さずに笑っちゃってたなー。セイレーンといえば、なあの歌声の演出もよかったし、漫画を読んでいたときに特に声をイメージしていたわけではないのに、これだ!と思わされる声の合いようも素晴らしかったです。

永遠の命を持つものを身体ぴったりの檻に入れてなんかずっと暗いとこに閉じ込める…って、「オールドガード」っていうドラマでもまんまその不死身の女性が鉄の棺に閉じ込められて沈められるっていう拷問あったな…とか思い出して、こんな風に「永遠」をイヤ味(あじ)たっぷりに描写できるナガノ先生すごいし、ポストクレジットのワンショットでいろんなものを読者(観客)に想起させるのもすごい。想像するしかないからこそのこわさ。あと先日公開されたナガノ先生のロングインタビューで「次は島二郎主人公にしたい」とか仰ってて底知れねえ…!と思いましたマル。

「スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ」


前作の「ノー・ウェイ・ホーム」から約4年半、トムホスパイディの新作です。今回監督が過去三作のジョン・ワッツからデスティン・ダニエル・クレットンに交代。正直、ノーウェイホームがあまりにも完璧な「閉じた輪」だったので、ここでスパイディ交代するのでは、みたいな話もあったと思うんですが、さすがにここまで超ド級のヒット作になるとそういうわけにもいかんよねっていう。でもって私自身もね、いやさすがにいろんな意味でノーウェイホームの衝撃超えはむずいよなって思ってたし、予告編みてても今回のメインヴィランてザ・ハンドなのかーとか軽く考えてた。ら!またしても、またしても大傑作を投下してくるというこの、このアレ。そして全米興行収入でもえげつないことになってるっていう。

まずね、今回の新作が、ちゃんと過去の文脈に沿って作られてるっていう、それが最高だなと思ったし、羨ましくすらあった。MCUがデカくなりすぎて、あっちこっちに手が伸びすぎて、そしてヒットしたとかしないとかにいろんなものが振り回されて、正直文脈をたどれてないよねコレ?みたいな作品が最近多かった。ここでいう文脈って同じ世界観とか過去のエピが一致してるとかいうことじゃなくて、そのキャラ、その世界の作用反作用(これがあってこうなった)がちゃんと地続きになってるってことです。

前作でストレンジに自分を忘却させる魔法をかけることを選択したピーターは、良き隣人としてニューヨークの治安を守る活動を続けている一方、MJやネッドと関係を再構築できるわけもなく、孤独にヒーロー活動に身を投じている。ある日、ダメージ・コントロール局の襲撃事件に対応したピーターはその犯人が他者の精神を乗っ取る能力の持ち主であることに気づくが…というあらすじ。

まず今回のメインヴィラン(と言っていいのか)がジーン・グレイだってわかったときの衝撃ったらなかった。全然予想してなかったし、ジーンの名前が出た瞬間汗が噴き出て眼鏡が曇ったほど(マジです)。そのあとの展開もそりゃ…ジーンならね!?ってなるしかない。ジーンが姉の行方を捜していて、そしてあの部屋に行きついて、V-Maxが何かを知るっていうここの展開が、脚本としてあまりにもうますぎて、そして残酷すぎて、ジーンの能力がこれきっかけで解放されちゃうのもむべなるかななのよ。

ピーターのほぼセルフネグレクトもかくや、な孤独ぶりと自分への追い込みが、ただMJたちと離れているって寂しさによるものじゃなくて、メイおばさんを喪ったことへの強烈な自責の念からくる自罰的行為だっていうのも、過去作からの文脈としてすごく頷ける部分だった。だからこそ、ジーンがピーターの中に入り込もうとしてあのメイおばさんとの会話に至るのも無理がない。ピーターの中にあるもっとも根源的な土台はメイおばさんがくれた愛情なんだよなあ。だから彼は世界に絶望しないでいられるんです。

今回、そのピーターの「悪い友達」的な立ち位置でパニッシャー(フランク・キャッスル)が出てくるのも効いてた!大丈夫、わたくし、パニッシャー履修済みですからして。ある意味スパイディとは真逆のキャラというか、彼は絶望を知っているからこそ彼のやり方というものがあるわけだけど、そのフランクが最後ピーターに「お前といると気分がいい」って声かけるのエモすぎだった。スタテン島でなにがあったかは永遠にこっちに妄想させてくれるってわけだろ心得た。バーンサルさん本当にパニッシャーはまり役なんで、こうして映画でもそのキャラ立ちっぷりを拝めてマジで幸!

MJがいままで描いてきた「MJ」であり続けてくれたのも最高だった。あのキスシーンで記憶が…!みたいなところがジーンの(このときはまだジーンとは知らんが)罠だったときはさすがに「おめえ…絶許!」ってピーターと心を一つにしたよ。あんな残酷なことすな!連帯は示すけど、愛情は別だよっていうことをちゃんとわかってて、でも人間としては受け入れてるんだよってことを相手に示せるこの人としての正しさ大きさ。本当に好きになる甲斐のある女性すぎる。ジーンの影響で記憶のフタが開いたりすることもあるのかな。でもそうでなくてももう一回ピーターと隣人からスタートできるし、それでまた愛が芽生えてもそうでなくても、この二人にはそれだけの絆があるって感じさせる展開でした。にしても、ゼンデイヤがあまりに魅力的すぎて、もうこんなの全人類ゼンデイヤの虜になるじゃん!って感じだったな…ホームカミングの頃にちゃんとゼンデイヤを見出していたのがマジですごいよ…。

でもってネッドー!これさ、最後にネッドは記憶を取り戻しているのかっていうのがSNSの感想とかでも二分してるっぽいけど、私はもう取り戻しているに全ベット派です。いや取り戻しているっていうと語弊あるかも。でもあの「ピーター?」はその前にMJからスパイダーマンの名前がピーターだって聞いてるから、それがつながっての「ピーター?」だっていう説には全然頷けない。だったら「スパイディ?」って聞かなおかしいやん、ピーターは握手するときに名乗ってるんだからさあ!人間にはぜったい肉体の記憶っていうのがあるんですよ、それは無意識の中にあるから魔法で操作できないんだよ、何にも考えてなくても体が勝手に動くって誰しもあることじゃない?あのハンドシェイクは二人にとってそういうものだったわけじゃん。ネッドはあのハンドシェイクを身体が勝手に覚えていて、それが「ピーター」と紐づくものだっていうことを思い出してるんだと思うんだよ。そのピーターが自分にとって何なのかは思い出してなくても、このハンドシェイクは自分にとって大切な何かだってことはわかってる。

正直このネッドとのラストシーンがあまりにも好きすぎて、1回目見たときエンドロールほとんど記憶にない。だって泣いてたから。ここから始められるじゃんって思ったから。ピーターはこうしてひとはひとりでは生きていけないってことにたどり着いて、そこにはまたネッドとMJがいるんだなってことにむちゃくちゃ心打たれちゃったんですよねえ。

ニューアベからエレーナが顔見せしたり、ブルースの大学教授としての姿を観られて嬉しい反面、ジーンが頭から出て行ったあと、真に怒りによって姿を変える本物のハルクを見たときのつっっよ!!!でっっか!!!感に興奮する自分もいたりして、バナー博士周りはなんだか複雑な気持ちにもなっちまいましたが、既存キャラクターの配置も実に抑制が効いていて見事だなと思いました。

トムホピーター、いつでも全人類の甥っ子とか思っていたらもう彼すっかり大人だった。ホームカミングのときのマジのほよほよ感はもうすっかり影を潜めてしまったけど、でもこの有象無象渦巻くMCUにあって、彼の圧倒的善性がまったく薄れていないのは素晴らしいとしか言いようがない。本当にキャスティングが慧眼すぎる。

ジーンはあのあとチャールズのところに行ったのかなあ。それはわかりませんが、いずれにしてもこの1作でこのあとに続くドゥームズデイ、シークレットウォーズへの期待が高まったのは間違いないところです!

「死の笛」

  • COOL JAPAN PARK OSAKA TTホール P列36番
  • 脚本 坂元裕二 演出 水田伸生

初演の時に安田顕さんと林遣都さんの二人芝居で脚本が坂元裕二さんなんて、めちゃそそる顔合わせだなあ~と思って見たかったんですけどチケットが取れず断念。今回、帰省のタイミングと上演日程が重なっていたのでチャンス!とばかりにチケット申し込み、無事当選。

どこか奇妙なしゃべり方の男ふたりが、大きな木の根元で食事を作る下ごしらえをしている。片方の男は娘を殺した犯人に強い恨みを抱いており、その犯人が残した靴を履いて逆シンデレラよろしく「この靴にぴったり合う男が現れたら殺そう」と思っている。もうひとりの若い男は新人のようだが、近くで見かけるお屋敷のお嬢さんに心を寄せているようだ。最初は新入りを訝しむが、そのうちふたりは打ち解ける。時折来る本部からの連絡とふたりの会話から、この木の根元はいわば38度線であり、ふたりは敵同士であることがわかるが、ふたりともあまりそのことを気にしない。お屋敷のお嬢さんに声を掛けに行けと唆された若い新入りの男は、しかし戻ってみるともう一人の男が死んでいるのを見つける。翌朝、何事もなかったかのように死んだはずの男が食事の準備をし始める…。

最初に気になるのはふたりのしゃべり方で、たどたどしいとはまた違う、いわばむりやりgoogle翻訳にかけたような話し方で、これがなんと物語の最終盤まで変わらない。進むにつれ、ここが戦場であること、ふたりが敵味方であることから、そもそもふたりの言語が違い、意思疎通のために使い慣れない言葉を話しているという設定なのかな?とも思ったが、どうもそうではないらしい。ふたりは雑誌の話や憧れのお嬢さんの話を介して打ち解けるわけだけど、戦時であるけれどもどこか戦争とは遠いやりとりが繰り広げられるのはどこかケラさんの作品の空気を彷彿とさせるな~と思いながら見ていて、でも中盤からグッとホラー味が増した展開になるのがちょっと予想外でした。でもって、最後に彼らのしゃべり方の不思議さも、死んでもまた生き返ることも、恨みと憧れという強烈なトリガーの由来も、きっちり種明かしして終わるので、なんつーか、めちゃくちゃフェアな作品やな!と感心しました。

しかし、何がすごいって、劇中の約9割9分の時間、役者が朗々と台詞を語ることをゆるさない作劇にしているのがすごい。マジで台詞に圧倒的に自信のある作家にしかできない所業だなと思いました。どんな劇作家もたいてい自分のものした言葉を響かせたいという欲があるもんだと思うけど、これほどまでに削ぎ落として解体しても、届く台詞は届くもんね、というような自負が垣間見えて唸っちゃいましたね。

種明かしというか「実は」な見せ方も非常にうまく、しかもこちらの予想外のものだったのでそこもよかったし、エピローグともいうべき部分に若干の後味の悪さを残すのも面白かった。役者おふたりの完成度ももちろん言うことなし。ホラーっぽい雰囲気もありつつ、ダンスの手ほどきをするシーンなんかは坂元さんのロマンチシズムが出てて実によかったです。

「メリリー・ウィー・ロール・アロング」


松竹ブロードウェイシネマとかをはじめとして近年拡大しつつある、ブロードウェイミュージカルのヒット作を映画館で!というやつ、沖縄だとさすがになかなか見られる機会がなく、あまり情報を追ってなかったのですが、Xでお友達がおすすめしているのを見て、ダメ元で劇場情報見てみたらやってる!!!桜坂劇場で!!!ありがた山すぐる!!!というわけで足を運んできました。題材といい舞台としての見せ方といい、むちゃくちゃツボで、もう冒頭10分くらいで「おいおいおい、こんなん好きに決まっとるやんけェ!」って心のなかで大喝采でした。大当たりにもほどがある。おすすめしてくださったお友達に感謝感謝です。

「メリリー・ウィー・ロール・アロング」は1981年初演のブロードウェイ・ミュージカルで、楽曲を手掛けたのはあのスティーヴン・ソンドハイム。今回上映されるのは、2023-2024年シーズンにブロードウェイで上演されたマリア・フリードマン演出版で、2024年のトニー賞でミュージカル・リバイバル作品賞を受賞しています。

なんといってもこの作品の一番の眼目は、登場人物たちの物語を現在から過去へ逆再生していくこと。いまやハリウッドの人気プロデューサーとなったフランクは、成功の裏で自己の表現から遠ざかり、お手盛りの娯楽作品を渡り歩く現状にすっかり嫌気がさしている。不倫のうえに結婚したミュージカルスターである妻との生活はすっかり冷え切り、若い女優に手を出すなど私生活も荒れる一方。そんなフランクを「すっかり変わってしまった」と糾弾する友人のメアリーとも関係が断たれそうになる中、かつての仲間である劇作家チャーリーの成功に心穏やかではいられない。どこで間違った?いつ間違った?この3人ならなんでもできる、そう思えたあの瞬間に戻れるのなら…?ここから、彼らの過去を時間を遡る形で描き出していきます。

冒頭に、「選択を常に間違った」という歌詞があるんだけど、いろんな場面を遡って見ていくと、これは何もフランクだけではなく、彼ら皆が「どこかで間違えた」ことがあるのがよくわかる。たとえばメアリーは妻との離婚で落ち込むフランクに「愛してる」と口走ったあの瞬間だとか(あそこで茶化さずに愛を伝えていたら?)、傷心のフランクが作品に没頭しようとするのを享楽的なクルーズツアーに送り出してしまうチャーリーもそうだし、ガッシーは危険だと忠告されたにも関わらず、彼女とフランクを二人きりにしてしまうベスもそう。もちろん、新しい世界の「成功」に目がくらみ、誤った選択をし続けたフランクしかり、運命を変えるポイントは誰しもにあった。

物語のすべての始まりであるルーフトップの場面が最後にくるんだけど、ここのフランクとチャーリーのやりとり、作詞家と作曲家、というキャラクターも相まって「ロケットマン」のエルトン・ジョンとバーニー・トーピンを重ねちゃったり。あの映画にもふたりでルーフトップで語るシーンあったよな…青春の舞台になりがちなルーフトップ…。

冒頭から、どんどん「キラキラしたあの頃」に戻っていく構成、たしかに切ないんだけど、でも正直なことを言えば、私はそこまで切なさに浸ったわけではなかった。たしかに「もう戻れないあの頃」を振り返るものではあるけれど、だって彼ら、まだこの先があるじゃん、と思えたところがある。だってまだ50歳にもならないでしょ?30代40代なんて、ロックバンドなら一度は活動休止か解散かしてる頃合いよ。「俺の人生、これでぜんぶなのか」って誰しもが思い、何かをやらなきゃと思っちゃうタイミングよ。それに、成功して生活に不安がないからこそ思えることだってあるわけでね。あそこで魂を売らず困窮した生活が続いてもなお心が折れずにいたかどうかって、そんなの誰にもわかんない。少なくとも、彼ら3人はまだ不可逆じゃない。この作品が最後に「希望だけがあったあの頃」を見せて終わるのは、ただ切なさを増幅させるだけではなくて、そこにもう一度戻れるってことの暗示でもあるんじゃないかって気がした。フランクを演じたジョナサン・グロフの、あの少年性すら感じる目の輝きがそう思わせてくれたっていうのもある。

作中で印象に残ったのはなんといってもダニエル・ラドクリフ演じるチャーリーがフランクに不満を叩きつける「Franklin Shepard, INC」の大迫力!いやー思わず終わった後拍手しちゃった(3人しかいない映画館だったけど)。あとパーティでGood Thing Goingを歌う場面も、1回目のフランクとチャーリーの間にあるズレを言外に匂わせる切なさと比べて、アンコールを求められたあとの客の「俗物ぶり」のカルカチュアライズした見せ方も実に演劇的でよかった。ジョナサン・グロフの人たらしぶりと、それでもその底にピュアネスを感じてしまうキャラクターも素晴らしかったね。

映像作品としてかなり意識してクローズアップを多用していて、それはそれで各々の表情も追えてよかったのだけど、舞台のオタクとしてはやっぱりもう少し引きで観たかったなと思う部分もありつつ、まあでもそれは舞台で観られるからネ!と言われたらそうですね!としか言えないんだけどね!

ところで、これをあのリチャード・リンクレイターが20年かけて映画化しようとしていると小耳にはさみまして…リンクレイターさん!またしても「BOYHOOD」みたいなことを…!しかも20年て前よりスパン長なっとる!いや楽しみです。フランクがポール・メスカル、チャーリーがベン・プラット、メアリーがビーニー・フェルドスタインて、キャストも盤石すぎるじゃないですか。ただ…公開まで…遠い!それまで生き抜こう!頑張って!