「もうがまんできない」ウーマンリブ vol.15

2020年に上演予定だった作品ですが、コロナ禍で上演中止となり、無観客で上演したバージョンがWOWOWで放送されたものの、当時は「観客の笑いではじめて作品が完成する」との思いを強くされたそう。今回満を持しての劇場での上演です。

WOWOWで放送されたやつ、いまいち覚えてないんですよね。後半は見た覚えがあるものの。なのでほとんど初見のような感覚で観ておりました。タワマンと隣接する古い雑居ビルの屋上が舞台で、その屋上では芸人がコントの練習をやっている。タワマンのバルコニーでは、上司へのバースデーサプライズを仕掛ける仕込みをしているが、実はその男は上司の妻と不倫中で…という設定。

タワマンのバルコニーに「閉じ込められる」男の境遇はある意味シチュエーションコメディで(マンションのベランダに閉じ込められる東京サンシャインボーイズ「なにもそこまで」をちょっと思い出した)、出たい、けど出れない、そのうち状況はどんどん悪くなっていく…という、宮藤さんとしては珍しいパターンのホンかなと思いました。雑居ビルに移動しようと梯子をかけるあたりからぐっと宮藤さんみが強くなった印象。

対して雑居ビルの屋上は、売れないコント芸人、よくわからない風俗店オーナーとその娘、風俗店オーナーと因縁のある男、と肌馴染みのある宮藤さんワールド。売れない芸人は仲野太賀くんがやっているってこともあって、どうしてもドラマ「コントが始まる」を思い出してしまったな。

脚本も3年前からけっこう手を入れていると思うんだけど、とはいえ見ててちょっと苦しいなと思う部分もありましたね。ポリコレやコンプラを揶揄する(それだけではないけど)台詞もあるんですが、これ誰が言ってたんだったかな~、ポリティカルコレクトネスやコンプライアンスによって「言いたいことが言えなくなる」っていうのは実際のところちょっと違って、「そういうネタがウケなくなる」ことで淘汰されてくるんだっていうのをある芸人さんが仰ってたんですよね。芸人にとってはウケることが正義だから、意識のアップデートがウケへの欲求を上回ることは難しいけど、観ている観客側の意識が経年変化すると、「これは笑っていいネタなのか」ってブレーキがかかると思うんですよ。で、笑いにおいてブレーキが一瞬でも踏まれてしまったらそこから持ち直すのって相当困難になると思うんですよね。今回の宮藤さんの脚本・演出にはそういう意味での「笑いにくさ」がかなり感じられてしまった気がします。

阿部さん、終盤までほぼ出ずっぱり、かつご自身で「いつもの声じゃなーい!」と声の調子を嘆いておられましたが、当社比いつもの声じゃないだけでそれでも相当パワフルでした。仲野太賀くんと永山絢斗くんのコンビもよかったです。自分のことだけわからない男と、自分のことしかわからない男、だから喧嘩するけど続いてる、っていい台詞でしたね。

「平成中村座姫路城公演 第一部」

播州皿屋敷」。皿屋敷っつーと「番町」のほうが思い浮かびますが、皿屋敷系のお話っていろいろバージョンがあるんですね。番町皿屋敷のほうは以前吉右衛門さんの青山播磨で拝見したことがあり、そのときはイメージしている「皿屋敷」とかなり展開がちがったので驚いた記憶があります。どっちかというと今回の「播州皿屋敷」のほうがよく知られる怪談のイメージに近いかな。これもご当地上演で、なにしろ姫路城内に「お菊井戸」が現存してるっていうんだからすごい。

この演目の浅山鉄山はマジでむちゃくちゃ悪いんですが、それにしたってやってることがエグすぎてちょっと笑っちゃいました。誰だよ女を井戸の滑車に吊るして打擲するだけでは飽き足らず、刀をくわえさせてそれを引き、口から血を溢れ出させるなんて演出考えたやつ。絵面がどうやってもR18すぎて客席若干引いてたぞ。諧謔美とかものは言いよう過ぎる。

終盤、お菊が鉄山らに憑りつくあたりで場内の照明も落とされ、「これは東海道四谷怪談の演出パターンくるな」と思ったらやっぱりでした(笑)むちゃくちゃ叫び声があがってて、観客を巻き込んでラストになだれ込む手法として大成功だったんじゃないでしょうか。

横恋慕した女が振り向かないと見るや窃盗の濡れ衣着せてなぶり殺し、橋之助さんの鉄山、鬼の鉄面皮もかくやという冷徹ぶり、Sッ気炸裂の好演。虎之介さんのお菊も前半のつつましやかな佇まいがよく、後半との落差が効いてました。

「鰯賣戀曳網」。中村屋さんではお馴染みの演目になりつつありますな。「播州~」がかなり陰惨な演目だったので、対して明るく、罪がなく、最後に開けた感じで終われる、かつご兄弟の見せ場がある、ということで選ばれたのかな。勘九郎さんの愛嬌と七之助さんの美しさが堪能できる演目ですよね。個人的にはもっと見たことのない演目をかけてほしいよという気持ちもそりゃもちろんありますけれどもね!

最後に鰯売りの呼び声を観客にもやらせる(そのためのポストカードの配布あり)のが5類移行後の演出って感じなのかな。三の丸庭園の中村座の小屋のうしろで背面が開くのを待っているお客さんの人だかりが結構なことになっており、こういう「うしろからタダで観れちゃう」光景も中村座の名物だわねと思ったり。

それにしても橋之助さん、今回全4演目すべてにご出演ってなかなかすごいよね!ある意味中村橋之助奮闘公演の趣もあった今回の姫路城公演だったなと思います。

「平成中村座姫路城公演 第二部」

姫路城三の丸庭園に平成中村座がやってきたよー!というわけで行ってきました。三の丸庭園、さあどうぞここに小屋を建てて姫路城を借景にしてくださいといわんばかりの抜群のロケーションにあり、「お城借景シリーズ」の中でも指折りの光景になったんじゃないかと思います。

第二部は「棒しばり」と「天守物語」。棒しばりは勘九郎さんの次郎冠者、橋之助さんの太郎冠者。お馴染みの演目ではあるものの、歌舞伎座や松竹座で見る時とはまた違う客席の新鮮なリアクションも相俟ってとても楽しめた。次郎冠者が手を縛られるところでどよめくし、どうにかして酒を呑もうとするふたりのあれやこれやがとにかくよくウケる。扇雀さんと勘九郎さんがとにかく楽しそうで、最後の3人入り乱れるところ、ふたりとも「いやー楽しくってしょうがねえなあ!」みたいな顔つきで観ているこっちもふわふわと浮かれた気分に。こういう場に立ち会うとやっぱり巡業とか地方公演の意味って大きいよなあと思いますね。

天守物語」。まさに戯曲の舞台となった姫路城を臨む公演で、しかも七之助さんの富姫。これは見たいと思わせるやつ。2009年に歌舞伎座玉三郎さんの富姫、海老蔵(当時)さんの図書之助、勘太郎(当時)さんの亀姫で拝見したことがありますが、今回は玉三郎さまが演出も担当。その甲斐あってというか、七之助さん、ところどころゾクッとするほど玉さまの匂いを感じさせた富姫でした。特に声音ね!ここまで似てるなと思ったのは「刺青奇偶」以来かもしれない。

とはいえ、「似てるな」だけでなく、端々にどうしてもこぼれ出る七之助さんらしさが溢れていて、それがまたよかった。自分らしさを全開に出そう!というよりも教えをなぞってなお零れ出るものが本当のその人の個性なのかなと思います。あの図書之助を前にしての高まりや振る舞いは七之助さんならではの熱が感じられてすばらしかったな。

前半の亀姫とのいちゃつきぶり、その耽美さ、耽美な中の残酷さ、まさに泉鏡花の筆の冴えという感じで、ここは前回も見ていて本当に楽しかったし、七之助さん鶴松さんコンビでの百合百合しい佇まいもたいへん美味しくいただくことができました。虎之介さんの図書之助も文字通り若く清廉、という若武者ぶりでよかったです。

なにより、舞台となる姫路城をまさに眼前にしてのこの公演、やっぱりご当地のものを観るって数字では測れない良さがありますよね。なんというか、全体のシンクロ率があがる感じがある。最後に舞台後方が開き、姫路城の天守閣が聳えるのを見るのはなんというか、言葉にできない満足度がありました。素晴らしい場に立ち会わせてもらえたなという気持ちでいっぱいです。

「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」


突然の告白ですが、わたくし、ゲームをビタイチ通らない人生を送ってきました。
ファミコンから始まるありとあらゆるゲームのハード機器を所持したことがなく、だからこの「世界でもっとも有名なキャラクターアイコンのひとつ」である赤い帽子のおじさんにも一切の馴染みがないわけです。なのになぜ見ようと思ったかっていうと説明が長くなるんですが、私が最近よく見ているゲーム実況者の方がマリオ大好きで、でもって私はその人の実況動画を通して「マリオ」のゲーム世界をのぞき込んでる状態だったわけですね。で、その状態で映画館で予告編を見た時に、「これはゲームでやってたあんなことこんなことを映画で実現してるやつなんだな」と思ったからです。それに実際、公開されて大ヒットしてたしね!

映画本編の前に任天堂のCMが流れるんですが、まさにあのCMのように、ゲームの世界のマリオと「トライ&エラー」を繰り返す時間を過ごしてきたひと、映画に出てくるさまざまなアイテムが何で、どういうものなのかが沁みこんでいるひとと、そうでないひととでは、やっぱりこの映画に対する没入感には違いがあるよな~というのが最初の感想です。面白かったし、今日的なアップデートもちゃんとあって、映像のすばらしさも堪能できたんですが、映画の中に「あの頃の自分」を見つけることができるかどうかって、やっぱりこの映画においては大きい気がします。

逆に言うと、この映画は「あの頃の自分」を見つけられるひとに山盛りの愛情(ゲームというものへの愛情)をこめて作られていることがひしひしと伝わる作品で、ほんと創作って不思議なもので、誰に届けたいかっていう的がちゃんと絞られていればいるほどより遠くへ届けることができるってのがね、すごいと思うんですよ。

ピーチ姫からマリオに課される最初のあの試練、あれきっと、世界中でたくさんのひとが「自分が最初に触れたマリオ」を思い出してるんだろうなあ~と感じられて、なにげにすごく好きな場面でした。

それぞれのキャラクターが生き生きとしているのはもう言うまでもなく(いちいちキャラ立てのためのエピソードが不要なので展開が早い早い)、マリオカートの場面とかねえ~!マジでゲームの画面そのまんまじゃんってなりました。いや私はやってないんだけど。やってるのを見てるだけなんだけど。

4DX吹替で拝見しましたが、完全にアトラクションとして機能していて、これ夏まで引っ張ったら相当お子様たちのリピーター増えそう…と思ったりしました。吹替えの声優陣もみんなガッチガチに手堅くて文句なしだったね!

「ミナト町純情オセロ~月がとっても慕情編~」

2011年に上演された「港町純情オセロ」の改訂上演で、主演に三宅さんちの健ちゃんをお招きしての公演。個人的には①そもそもシェイクスピア作品の中でもオセローが苦手の部類②前回上演それなりに楽しかったけど「オセロー」の苦手部分はわりとそのまんまだった記憶③クソ長い、という要素が重なり正直足を運ぶの気が重かったところがないとはいわない。駄菓子菓子!思いのほか楽しめたというか、ブラッシュアップのお手本のような改訂じゃねえかよと唸る部分が多々あり、最終的にめちゃくちゃ満足して劇場をあとにした次第。

今回の改訂の一番の勝因は、なんといっても原作におけるイアーゴーを女性に置き換えて、さらにその女性が「オセローにとって恩人」の立ち位置に近いこと、そのキャラクターを掘り下げて書いたこと、そしてその役を高田聖子が演じたことにあるんじゃないかと思います。オセローの面白さってイアーゴーをどう描くか、にけっこう依る所があるんだなと改めて実感させられたというか。

イアーゴーの動機については数多の研究がなされてきたと思いますが、今回のイアーゴー=アイ子は大きな虚無を抱えた人物として描かれていて、それは夫の死により引き起こされたものではあるものの、それ以前から彼女を苛んでいるとも描かれています。夫を庇ったことで跡目を継ぐ位置に立ったオセロが、実はそうではなかったとしたら、という疑惑はその虚無に火をつける火種として作用するわけですが、いやもう、これを演じる高田聖子の凄さたるやですよ。シェイクスピアお得意のモノローグとダイアローグがひっきりなしに入れ替わる台詞を完全にものしているだけでなく、なによりあの「テネシー・ワルツ」!あれはこの舞台の白眉といってよく、あの1曲だけで彼女の抱えた虚無が立ち上がってくるようで、まさに劇的瞬間にほかならない。選曲・演出・演者の力量、すべてがかみ合った最高の場面でした。

イアーゴーが女性になったことで、「デズデモーナへの横恋慕」みたいなノイズもないし、オセロにとってアイ子が「姉さん」的な立ち位置にあることで、オセロが年若の部下の手のひらで踊らされるという色合いが薄れ、ピュアさが立つキャラに見えてくるのも、今回のキャストをみてもハマった改訂部分だよな~と唸っちゃいます。

原作の「オセロー」は、イアーゴーの舌先三寸で転がされまくるわけですが、フラストレーションがたまる一つの要因は、いい年したおっさんがまるで陰謀論にはまるように一つのものの見方しかできなくなるさまがこれ以上ないほどじっとり描写されてるからってのもあると思うんですよね。マジで「いいからその前に二人で話し合え!」って野暮なツッコミをしたくなっちゃう。でも今回はオセロの年齢をぐっと下げ、ある意味「ロミオとジュリエット」的なオセローとデズデモーナになっているので、そのフラストレーションを感じずに済んだなって部分もありました。そもそも、健ちゃんってオセローのニンかというとそうでもないし、このキャストなら若いふたりをロミジュリにした大胆改訂でもよかったかもしれない。もーう分別ないですわたしたちー!みたいなバカップルぶりもこのふたりだと楽しく観られるし、嫉妬に狂った、というより愛×若さ=暴走、みたいな末路だったのも個人的には納得のいく描写でした。

あと、これもうまいなと思ったんですが、原作のエミリアビアンカといった役をカナコさん、さとみさん、エマさんらに振り分け、それぞれのキャラもちゃんと掘り下げている点。カナコさんの元夫の川原さんという設定、さとみさんの夫が獄中という設定、いずれも余すところなく活きてるし、このふたりがモナのために奔走するさまがリアルであればあるほど終盤の悲劇が映える、という作劇のうまさよ!劇団女性陣の底力を見た思いです。

そのままでは飲み込みにくいシェイクスピアをアレンジしてお届け、みたいな公演って本当に枚挙にいとまがないですが、いや結局原作の偉大さよ、となる公演も多いところ、前回上演を踏まえて確実に磨きをかけた面白いものに仕上げてくるの、さすがだなと思いましたし、とはいえこの長尺をほぼ台詞の力で引っ張れる元を書いた沙翁、やっぱ偉大だぜとも改めて実感したりして。いやーシェイクスピアの懐の深さ底知れないぜ!

「マリー・キュリー」

  • シアタードラマシティ 11列43番
  • 脚本 チョン・セウン 作曲 チェ・ジョンユン 演出 鈴木裕美

韓国で初演されたミュージカルで、鈴木裕美さんの演出により本邦初演。完全に口コミで観に行ったやつです。どんなオタクでも多かれ少なかれ口コミには弱いものですが、観劇オタクの場合は口コミがチケットの売れ行きに直結しますよね(チケットを買わないことが機会損失に直結するから)。評判を聞いて楽日に向かってチケットが売れていく、ってある意味理想の形のひとつだなあと。

誰もが知る「マリー・キュリー」という実在の人物のストーリーがもとになってはいるんですが、based on true storyというよりは、ifもの、ある種の二次創作的な色合いが濃い作品ではあります。マリーの人生において、どこかの時点で強固な絆で結ばれた友人がいたとしたら、かつ、その友人が「ラジウム・ガールズ」であったとしたら、という発想がベースにあり、だとしたら、マリー・キュリーは何に悩み、何に支えられることになっただろうか…?という発想を描いています。

個人的には、そうした脚色の温度も含めて、マリー・キュリーがいかに生きたか、というよりも、彼女を歴史上の人物でなく、今日的な人間として描き、我々が今まさに直面している問題と向き合う姿を描くのだ、という姿勢が作品に現れていた気がします。女性であるということでぶつかる様々な障壁、偉大な発見へ至る労苦、その発見につきまとう影。それらを、実際には彼女の死後に結審したラジウムにまつわる労働災害裁判と絡めていく。そのキーとなるのがアンヌという同郷の友人で、偉大な発見が偉大な功績を遺すものとなるだろうという未来への希望と、その発見で自分の魂ともいうべき友人を喪うことになるかもしれないという場面を創出する、その発想がすごい。

一幕の、いかに彼女はマリー・キュリーとなったか、という物語は、ある意味偉人伝のひとつにすぎないわけですが、マリーがアンヌと対峙し、「喪うことがこわくて過ちを認められなかった」と告白し、それをアンヌが「今のあなたはほんとうにバカみたい」と返す場面は、その後のふたりの歌も含めてこの舞台においてもっともエモーショナルな場面でした。この後に続くピエールを亡くしたマリーの姿とあわせて、二幕に立て続けに観客をエモの涙に沈めてくるやつ、これは…確かに…口コミで伸びるのもわかる!口コミしか勝たん!と自分自身もマスクを涙で濡らしながら胸打たれるしかないやつでした。トドメにあの元素の周期表持ってくるのずっちーな!まだ泣かすんかい!

マリーたちの研究に多額の出資をし、この作品においてはラジウム工場の社長でもあるルーベンという登場人物がいることで、どこか「悪魔との契約」というか、メフィストぽいというか、不穏さがつきまとう展開になったのもうまいアレンジだな~と思いました。

愛希れいかさんのマリー、清水くるみさんのアンヌが終始素晴らしく、特に「あなたは私の星」は心に残りました。あと、ルーベンのお付きの人でむちゃくちゃダンスがうまい、うまいっつーかレベチな人がいて、思わず目を奪われちゃいました。ダンスのうまさっていかに動けるか、じゃなくていかに止まれるか、なんだな…と全然明後日の方向で感心してしまいました。

「たぶんこれ銀河鉄道の夜」

ヨーロッパ企画上田誠さんの脚本・演出によるオールナイトニッポン55周年記念と銘打たれた公演。見に行こうと思ったのはね、フフフ、99%タイトルです。タイトルがいい。よすぎる。これ絶対見たいやつと思わせる。あと、銀河鉄道の夜モチーフの演劇って個人的にはずれがない印象っていうのもあった。

勤務先の美容院で上司に怒られ、かつての友人と距離ができ、仕事帰りに買ってきたほか弁はおかずを間違えられていて、それを親になじられ…弁当を交換しに街に出かけたナオは、街で開催されているフェスの賑やかさを後目に裏山に登る。そして思う、これって銀河鉄道の夜だ。

銀河ステーション、銀河ステーション、の声と共にいつの間にか銀河をゆく列車に乗っているナオ。でも乗っているのはナオだけじゃなく、ナオにとってのカンパネルラであるレナだけでもなく、あっちで炎上、こっちで謝罪、そんな風に人間としての「何か」が死に瀕した人たちが続々と現れ、車内は満席。そして皆口々に話す、これって、これって、たぶんこれ銀河鉄道の夜ですよね!?

リリカルな宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を地の文にして、今を生きるわたしたちの挫折や落とし穴がそれに重なっていく脚本が面白く、さすが上田誠さんだな~と思うことしきり。銀河鉄道の夜に乗り込んだ各人が「ゲーム」によって自分のエゴをむき出しにし脱落していく展開も、3人目あたりで違うパターンに持っていくのうまいですよね。ああいうの、各エピの面白さとはべつに「同じ展開が人数分続く」と気がついた段階で客って飽きちゃう。それを絶妙にズラして客の集中を切らさない構成力、さすがでした。

個人的に小説の文をラップで歌っていくのがちょっときびしかったかもしれない。というか、わりと音楽劇であるある展開な気もするけど、ラップって普通に歌うより難しいと思うのよ。でもって「それっぽくやった」ときのいたたまれなさも歌の比じゃないと思うのよ。宮沢賢治の小説の言葉はさすがにキラキラしてて美しいけど、なんかもうちょっとやりようがあったのではという感じ。

しかし、銀河鉄道の夜の芯であるところの、ジョバンニとカンパネルラが、ナオとレナが、「ずっと一緒に行こうねえ」と語ったふたりが、その運命が分かたれるあの瞬間、振り返ってもう誰もいない座席を見るナオ(ジョバンニ)という展開はもうそこだけでこっちの心を揺さぶってくるからたまらない。これだけの時間を経ても、この作品をモチーフにしたい、この構図を借りて語りたいことがある、と思わせるのも頷けるし、だからこそ銀鉄モチーフの作品が数多く生まれるんだろうなと。今作では、レナが実は自分はザネリではないかと述懐するところ、そしてそれを受け止めるナオの場面がとてもよく、だからこそいっそうラストでレナの運命を受け止めるナオの姿にぐっと胸に迫るものがあったと思います。

一見穏やかなのにとつぜん武闘派な発言をしたりして、その実正体は作者の宮沢賢治でした、な役を演じたかもめんたるのう大さんがとてもよかったなー。声の良さ、脚本の面白さを100%活かす間合いの数々、正体不明な佇まいも含めてすごく印象に残りました。宮沢賢治ギャグ、手叩いて笑っちゃった。若いキャストをしっかり支えるヨーロッパ企画の面々も実に頼もしかったです。