「夏祭浪花鑑」

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文楽!夏休み文楽特別公演ということで三部制、第三部18時開演の公演が「夏祭浪花鑑」ときたら、これほど絶好の文楽デビューチャンスないっしょ!というわけでチケット取っていってきました*1。いや実は文楽好きの方からしたら「おまえその距離に住んでてなんで今まで行ってない!?」ってなるぐらい、国立文楽劇場の近くに住んでいる私…そんなもんよね…。

チケット取るにあたって参考にさせていただいたブログがこちら。
yomota258.hatenablog.com
座席からの見え方とか、雰囲気とか、このページ以外にも人形遣いの皆さまの紹介とか、過去にご覧になった「夏祭」の感想とか(団七サイコパス説、むちゃくちゃ笑った)、とにかく読み応えありまくり!これほど手ほどきとして優れたサイトはなかなかないのでは。

さすがに歌舞伎であれだけの回数見てるので、イヤホンガイドなくても大丈夫だろうと思って借りませんでした。セットも基本的に歌舞伎と同じ、見慣れたもので、人形がやるのでもちろん大きさは違うんだけど、うおお、同じやん、という妙な感動がありましたね。

歌舞伎では見せ場になっているようなところがなかったりして、おお、ここはある、ここはない、と違いを楽しみながら見ました。お辰の「こちの人の好くのはここじゃない、ここでござんす」はなかった!そうなのかあ。文楽では歌舞伎ではほぼかからない四段目(道具屋)と五段目もちゃんとかかるからか、三婦内での三婦の台詞が剣呑ですごい(磯之丞の殺人の隠ぺいを前提に話しているため)。鳥居前での展開もむちゃスピーディーで、逆に歌舞伎では役者さんを見せようとしていろんなおかずを多くしてるんだなというのもわかって面白かった。

始まる前にとざいとーざい、の東西声があって太夫と三味線の紹介があるのがすごく雰囲気があって高まったなー。そして三婦内で出てらした太夫で出てきた瞬間思わず素で二度見するほどの男前がいらして、そしていうまでもなく声がバリ良しなので、いやなんという…至福…とちょっとうっとりしちゃいました。しかし太夫の語りはすごい!あの声音の使い分けもさりながら、声の響きの良さ、わかりやすさに聞きほれる感じ。

圧巻だったのはなんといっても長町裏で、義平次と団七の掛け合い、団七が耐えて耐えて耐えて、その苦悩が人形から浮かび上がってくるところ、その堪忍のすえの「コリャコレ男の生面を」に湛えられる憤怒。いやー見応えありました。ついに手をかけてしまう団七に思わず涙がこぼれ、しかし私はどうして、この悪辣な義理の親父にいたぶられてついに堪忍袋の緒を切ってしまう殺人の話がこんなに好きなんだろう…と自問自答してしまうほど、のめり込んで見ました。

たぶんその理由のひとつには、この殺人が華やかな真夏の祭りの裏で行われていて、あの祭りの鉦の音があの場に常にあること、その対比からくるドラマ性、そういうものがほんと、「刺さる」ってやつなんだろうな~。義平次を沼に沈めるときとか、人形ならではの勢いのよさ(マジで投げ込む)も面白かったし、祭りに紛れて立ち去る団七が赤い手ぬぐいを頭に巻くのも、ポイントオブノーリターンの徴のようでいい演出だなーと思ったり。長町裏はなんか、人形遣いと人形というよりは一体のものとしてのめり込んで見てしまいましたね。また劇場のある場所がほんと、すぐ近くに高津宮があって、この作品をかける劇場としてこれ以上の場所はないって感じですものね。

歌舞伎ではなかなかお目にかかれない演目とかを文楽で見てみるというのも面白いのかもなー。いい初体験でした!

「プロミシング・ヤング・ウーマン」

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本作が監督デビュー作、エメラルド・フェネル監督・脚本。第93回アカデミー賞脚本賞受賞。主演はキャリー・マリガン

すごく精緻な脚本で、ぐいぐい引っ張られながら見ました。おすすめです。展開を知っていても面白く見られる作品だと思いますが、いちおう公式的にはバレ回避で見てもらうのを推奨しているようなので、これからご覧になる予定の方におかれましては、以下具体的な作品の展開に触れていますのでご注意くださいませ。

夜ごとバーに出かけては、泥酔したフリをして、「お持ち帰り男」たちに逆襲するキャシー。彼女はかつて医学部に通う将来を嘱望された女性だったが、今はコーヒーショップで働き、友人も恋人もおらず、その日ぐらし、といった毎日を続けている。30歳になって実家から出ていく素振りのない彼女を両親も持て余している。そんなある日、キャシーの働くコーヒーショップでかつての医学部の同級生に偶然再会する。

キャシーの復讐は一貫して「応分」というか、目には目を、歯には歯を、で「目には目と歯を」にはならない。そこが彼女の理性というか、あるべきだ、とおもう世界への執着が現れている気がする。私はてっきりお持ち帰り男たちを殺すかちょん切るかぐらいすんのかしらと思っていたので、慌てさせ恥をかかせて仕舞いにするというキャシーのスタンスに最初はちょっと驚いた(赤い徴は流血沙汰かとも思うが、殺してないのは間違いない。殺してたら多分警察の手の方が早い)。しかし、泥酔して意識がはっきりしていないと思ってお持ち帰りした女がド素面で自分の行為を観察していたとわかったときって、男性ってあんなに取り乱すものなんですか。でもそこんとこでリアルじゃないってツッコミが入らないところを見るとぜんぜん「あるある」なんでしょうね。ぜったいに反撃されないと思っているからああいうことができる、ちょっとでも相手の人間性を重視してたらそんなことはできない、つまるところモノとしか見ていなかったものが飛び上がって人間になって「オイこら何やってんだよ」と言われたぐらいの衝撃なのかもしれない、あのお持ち帰り男たちにとっては。

「前途有望な若者(プロミシング・ヤング・マン)」がたった一度の過ちで人生を棒に振るなんて…という擁護はじっさい、誰のなんの心も動かさない、ということを2時間かけて叩き込まれる映画でもありますね。

あまりにも途中までライアンが恋人として「こうあってほしい」というふるまいしかしないので、これで終わるわけがねーよなと思っていたし、アル・モンローがニーナにしたことをキャシーが話したときに「仲間たちの面前で」と言っていたので、そういうことなんだろうなと思いながら見ていました。キャシーの「復讐の応分」さはアルやジョーやウォーカー、マディソンに対してもしっかり発動していて、もっとも許されざる者にもっとも苛烈な復讐を成し遂げているところ、本当にクレバーな女性なんだなと思わせます。よく「こんなことをしても死者は喜ばない」的な慣用句で復讐をいさめるパターンがあるけど、しかし自分の世界を破壊したものがのうのうと生きていることを看過したまま命を永らえることなんてできない、と思うひとがあったとして、それを止めることができるのは他者ではないよな、という気がします。

話がそれるかもしれないけど、「ザ・ホワイトハウス」のあるエピソードで、自分の娘がレイプされ殺されたら、という話のなかである人物が言う「私は『自分の娘がレイプされて殺されたら』、と言ったんですよ。あなたはとても正気ではいられない。だからこの場合、あなたに犯人を裁く権利がないのは、いいことなんです」という台詞を思い出しました。

印象に残ったのは、キャシーが復讐のターゲットのひとりに選んだジョーダンを赦す場面。あれは、ひとえにジョーダンがニーナの名前を憶えていたからなんじゃないかと思う。映画全体に「名」に対するこだわりは貫かれていて、お持ち帰り男たちを罰するキャシーがつけていたノートにはその数と同時に男の名前が記されていたし、アル・モンローに対しても「おまえにこそニーナの名前が付きまとうべき」と言い放っている。名はもっとも強烈な呪。

しかし、ジョーというキャラクターは、絶妙に「こういう人間を友達にもったらアカン」という行動しかしていないのがすごい。おまえが動画を撮らなければ、あそこで隠ぺいを教唆しなければ…しかし、時すでに遅し。

この映画を見て、自分はモンローやジョーのような人間ではない、と思うことは簡単かもしれないけど、マディソンでもライアンでもない、自分はあんな人間であるわけがない、と心底信じられる人がいたら、たぶんそういう人こそ危ないんじゃないですか。マディソンもライアンも、きっと自分たちのことをそう信じていただろうから。

「ブラック・ウィドウ」

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お待たせしました、お待たせしすぎたかもしれません、の定型句に乗っ取れば文字通り「お待たされすぎた」し、「本当に劇場で見られる日がくるのか気が気じゃなかった」本作。最終的にディズニープラスプレミアとの(ほぼ)同時公開という形にはなりましたが、日本でも1日だけ公開日を早め劇場公開に踏み切ってくださる映画館もあり、ありがたいことでござんす。ディズニーに対してあまりどうこう思わないようにしていますが、劇場公開を蔑ろにしないでほしいし、少なくともわたしは劇場公開っていうエンジンがないと配信を熱心に追いかけるタイプじゃないので本当頼みます。というわけで、アベンジャーズシリーズを支えたブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフの単独作、ようやくの公開。監督はケイト・ショートランド

シビルウォーのあと、インフィニティ・ウォーの前、というタイムラインに起きた、ナターシャの「個人的な」「ケリをつけなきゃいけない案件」を描いています。過去にケリをつけたと思ったものが亡霊のように浮かび上がってくる。彼女の子ども時代、「家族」、そして今の「居場所」。まさにナターシャ・ロマノフの、ある意味ごくパーソナルな映画。

シビルウォーで追われる身となったナターシャが、インフィニティ・ウォー冒頭でキャップたちと共闘しているというその部分を非常にうまく繋げる、繋げるというのは動機的な意味合いですが、そこに「なるほどね」と腑に落ちる展開を用意していて、MCUはそのあたり、おさおさ怠りないな…と感嘆しました。あれだけクールで、何にも頼らずに生きていける力があっても、彼女にとってSHIELDやアベンジャーズは「自分を再生させる、得難い場所」であったわけで、それをシビルウォーで分解されたことがどのようなダメージで、そこからどう立ち上がったか、という。ある意味ブラック・ウィドウのリ・オリジンふうに見せているのがうまい。

この映画を見た万人がそういっているのではないかと思いますが、エレーナを演じたフローレンス・ピューは文字通り破格の素晴らしさ。今までのMCUになかったオフビートなテンポ、「スーパーヒーロー着地」を揶揄してみせるトーン、かと思えば誰よりもエモーショナル…。ポストクレジットシーンで、このあとのエレーナのMCUでの登場が期待できる種をしっかり蒔いていくのもさすが、MCU仕事ができるぜ、という感じでした。

個人的に胸がスカッとしたのは、アレクセイに「生理か?」とからかわれたときのナターシャとエレーナの返しの鋭さ!私はエイジオブウルトロンの、ナットとブルース・バナーのどう考えてもねじ込まれたロマンス演出が本当に受けつけなかったし、ナットが子宮を摘出されていることを告白するときのトーンもほんとにやだなあと思っていたので、あのシーンはよくぞ言ってくれた!!と思いました。子どもを持つ可能性を奪われたことはもちろん悲劇だろうが、同時にもっとすごい現実とウィドウたちは戦っているわけで、あの「赤ちゃん…産めない(ぴえん)」みたいなトーンって本当「男性から見た物語」だなって感じだったので。

あといわゆるヴィラン、悪役がマジでクソofクソだったので、いやこんなに胸糞悪いやついます!?ってぐらい胸糞でしたね。そしてそれはこの映画で、そうした糞に人間性と少女時代を奪われ続けている世界があることへの一種のアンチテーゼでもあったろうと思います。まあ個人的にはあれだけでかい空中要塞、気づかれないとかあります…?とかも思いましたけど。ドレイコフがアベンジャーズに手を出すことはしない(ぶっ叩かれるから)というのも、弱いものだけに強く出る例のやつ~~って感じで胸糞に拍車をかけてました。その相手に舌先の駆け引きでほしい情報をどんどんとっていくナットの凄腕ぶりよ~~!!そして生き残るための執着とスキルよ~~!!このあたりが存分に味わえたのもよかったところでした。

「家族」への回帰みたいなところに物語が集約していくところはあまりぐっとこなかった部分があり、あとタスクマスターの正体にもいまいち食いつけませんでしたが、しかしここまでこのMCUを支えてきたナターシャ・ロマノフ、スカーレット・ヨハンソンを送るのには相応しい、これからの女性を描く、女性たちによる作品だと思いましたし、大きな花束のような拍手をもって彼女を見送りたい気持ちになりました。ほんとうにおつかれさま!

「ゴジラvsコング」

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アダム・ウィンガード監督。レジェンダリーのモンスターバースの第4作です。
いやー、大味だった(のっけから)
わかってます、もちろんわかってる!大味を楽しみに行ったんだろってことは!もちろんそうなんですけど、しかしこちらの予想を超えて大味だった。そもそもそれほど巨大怪獣に入れあげてるわけでもないのに、なぜかこのモンスターバースの過去3作品ぜんぶ映画館まで見に行っていて、なぜかというと「とにかく派手なやつ見てスカッとしたい!」という己の欲求が高まった時にちょうどやってる、みたいなことだったわけで、そして今回も例にもれず「なんか!派手で!破壊の限りを尽くすやつ!」というのを求める内なる声に従って見に行ったわけですね。

もちろん破壊の限りを尽くしていて、そこはとてもよかった。しかしそれはそれとして、なんだろう、素直にウホホイ喜べない自分がいました。たぶんどこかで振り落とされちゃったんだな、物語の波に。海上でのバトル、なんで沈まん…とか、なんか対人間のときのコングさんのサイズ感と対ゴジラ先輩のときのコングさんのサイズ感がちがうんよ…とか、その頭蓋骨のなかでやる必要が…?とかまあいろいろあったんですけど、たぶん一番乗っていけなかったポイントは、なんか妙にモンスターに「人間味」があるように描かれてるのがnot for meだったんかなーと思います。少女とコング、しかも「無垢な」少女とコング、もういいッス。腹いっぱいでやんす。HOME、とか言わせないでやっておくれやす。地球の真ん中の空洞!とかちょうロマンあるのに、そこで想像を超えてくるような何かが出なかったのもムムムとなったところでした。なにあの手形。なにあの斧を置いたら発動します的なアレ。そういうのじゃねえんだ…こっちの理屈一切通用しない最強の面子のガチの殴り合いが見たかったんだ…という感じ。

公開直後にネタバレに気をつけて!という注意喚起が回ってきてて、おかげさまでめでたく劇場で「これか~~~!!」となることができたのはよかった。まあ最終的に共闘すんだろなと思ってたし、するとしたら共通の敵は何?と思ってたので、なるほどお前がいたわねと。しかし小栗君はマジで白目をむいて(not比喩)終わってしまったな…。アレクサンダー・スカルスガルド兄やんが出てくると「途中で死なんかな…」と心配してしまう病(バトルシップ病ともいう)、本作は元気にイッちゃっててよかったです。

「東京ゴッドファーザーズ」

今敏監督によるアニメ映画を舞台化。原作の物語の骨組みがしっかりしているので、何よりまず物語として面白い。でもって、映像作品におけるスピード感を殺さずに演出している藤田俊太郎さんの手腕もすばらしい。非常に楽しめました。

クリスマスの夜、ホームレスのギンちゃんとハナちゃん、そして家出少女のミユキは、クリスマスプレゼント探しを当て込んだゴミ漁りのさなか、ひとりの赤ん坊を拾う。生みの親の顔も知らない寄る辺ない育ちのハナちゃんはその赤ん坊に清子と名付け、自分の手で育てたがるが、ホームレスの身の上ではいかんともしがたい。すったもんだの末、赤ん坊と一緒に捨てられていたコインロッカーのキーを足掛かりに、捨てた親を探そうとするが…。

原作アニメの、そのさらに元となるのが「三人の名付親」というアメリカ映画だそうで、この舞台でも冒頭が聖誕劇から始まるように、ギンちゃんハナちゃんミユキの三人は東方の三博士になぞらえられているわけです。そして「清子」に何らかの神の思し召しを見る。その構図が根元にあるので、そこからかなり破天荒な方向に(銃撃事件とか)物語が転がっても破綻しない。少ない手がかりから生みの親を探すというミステリ的な面白さと、行く先々で出会う人、ものごとから受けた影響が最終盤にちゃんとつながってくる。

脚本も細かいところで現在にアップデートしていて、コロナ禍であることを示す台詞やマスク姿、ホームレスを取り巻く過酷な環境、今の世の中が「弱者にとってより生き辛い」世界になっていることを感じさせます。

いやしかし、松岡昌宏!すばらしかったね。今までわりと出演舞台を拝見していると思うのだが、こんなに達者だったっけ…!?と目を開かれた思いであった。等身大の気のいい兄貴分、みたいな役よりも、本人を彷彿とさせない、振り幅のある役の方が活きるのではないか。声の通りがよく、芝居が大きく、座長として素晴らしい牽引ぶり。わけても、劇中でドラァグクイーンとして「ろくでなし」を歌う場面があるが、その光り輝きようといったらなかった。歌のうまさはもちろん、そのうまさが「役としてのうまさ」になってるのがすごいよ。本当に恐れ入りました。マキタスポーツさんのギンちゃんも実にはまっていてよかった。ミユキ役の夏子さん、春海四方さんや大石継太さんらも見事なアンサンブル。

緊急事態宣言継続中で、大阪府は土日の有観客開催については見合わせるよう要請が出されているんだけど、本作は上演劇場が兵庫県だったので首の皮一枚でつながった感じ。同じ週末で土日の上演を中止せざるを得なかったカンパニーもある中、なんだか劇中さながらに小さな奇跡を感じそうになりますね。

「アメリカン・ユートピア」

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素晴らしかった!多くの人がすでにそう語っていると思うけれど、気にせずに私も重ねて言いたい。本当に素晴らしかったです。私はね、これを、演劇クラスタにこそ観てほしいのだよ。デヴィッド・バーンにもトーキング・ヘッズにも明るくなくても大丈夫、だって私がそうだから!これが好きなひと、絶対もっといっぱいいると思うんだよ~~!!完成されたひとつのショーとして、今この世界にコミットするひとつの方法として、そう、これこそが「ばかばかしさの真っただ中で犬死にしないための方法序説*1なんじゃないかと私は思うのだ。とにかく、ぐりぐりの二重丸でおすすめしたい。緊急事態宣言もあってなかなか映画館に足を運べない状況が続いているけれど、もしお近くで見られる機会がありそうなら、ぜひ足を運んでみていただきたい。

デヴィッド・バーンが2018年にツアーで回り、2019年にブロードウェイで上演したショーを、スパイク・リーが監督。冒頭からバーンが人間の脳の模型を持って語り始める。脳のこの部分は記憶を司る、この部分は…。脳のニューロンのネットワークは、成長するにつれ死滅していく。それはつまり、子どもの頃の方がかしこく、今の我々は愚かだということ?

この映画が最高なのは、観客に提示されるものがきわめて重層的であることで、好きな楽曲、好きなアーティストのパフォーマンスをピュアに楽しむのもよし、スタイリッシュなステージングに目を瞠るのもよし、その構成とバーンの語りからメッセージを受け取るのもよし、自分の今いる世界と照らし合わせてみるもよし…どんな見方もできるし、どんな見方も拒否していない。そこが掛け値なしにすばらしい。

ステージの上に本当に必要なものだけを残したらどうなるのか、という問いへの答えがこのステージになっているというMCがあり、バンドメンバーがそれぞれ楽器を持ち、12人のミュージシャンが縦横無尽にフォーメーションを変えながらステージを作っていくわけですけど、最初はバーンとダンサーだけで、だんだんステージに人が増えていく見せ方もふくめ、むちゃくちゃ劇的なんですよね。劇的で、なにしろむたくたにカッコイイ!!

そうそう、あの複雑なフォーメーションで、床にバミりのあとがない(これは観劇クラスタの癖というか、どうしても床を見ちゃう)のが何のマジックなのよー!って感じでしたが、映画の最後で幕内のメンバーが映る時に、ジャケットの肩のところに紫のピンみたいなものが見えて、もしかして床のバミりはないけど対人の距離感はそれで図れるようになってたりするのかな~とか思いました。再見できたら確かめてみたいな。それにしても、あの楽器をつけたまま演奏し、動き回る彼らのハードさよ!最後のカーテンコールで、背中に滲んだ汗が羽のようになっているのが美しかった。

トーキング・ヘッズもまったく通ってない私ですが、しかし楽曲の良さに何度も身体が揺れました。むちゃくちゃキャッチーだし、なによりパフォーマンスが最高なのでぐいぐい引き込まれる。なかでも「Lazy」や「I Zimbra」のたまらないカッコよさったらなかった!!!あとバーンがギターを持つとなぜか異様に興奮してしまった。「I Should Watch TV」の演出も好きだったなー。

上演された2019年を象徴するというか、MCでバーンは何度も選挙の話にふれて、20%の投票率って客席のこれくらいの人だけってことだよ!とか、投票した人の平均年齢は57歳、若い方はご愁傷様、と言ったり、このショーでかれがしようとしてることはなんなのか、というのが常に一貫して示されていたとおもう。

それは最終盤の「Hell You Talmbout」からフィナーレへ続く構成でもっとも色濃く表現されていて、ジャネール・モネイの曲をカバーしたというこの曲のときには、歌の中で叫ばれる「彼ら」「彼女ら」の写真とそれを掲げる家族のショットが差し挟まれる。ここはスパイク・リーならではとも言える表現だけど、曲を紹介したときにバーンが言った言葉もすごく胸に残った。「この曲をカバーしてもいいかと彼女に聞いたんだ。白人の男が歌ってもいいかって。彼女は快諾してくれた。全人類に向けた曲だから、って」。大坂なおみさんがマスクにひとりひとりの名前を書いていたことを思い出させる。名前というものの持つパワーを。

そしてショーは「One Fine Day」に続く。ニューロンのネットワークは幼いころに喪ってしまったかもしれない。でも我々はまだ途上にあって、自分を改革することができる。つながることができる。アカペラで歌われる楽曲はまるで讃美歌のように響く。そして「Road to Nowhere」。もはやここで私は涙が止まらず、ずっとしゃくりあげるように泣いてしまっていた。劇場を練り歩くバンド、行進のリズム…多幸感という言葉だけでは足りない、胸が熱いものでいっぱいになってコップが溢れそうになるあの感じ。

降りた幕の中で、メンバーがハイファイブしながら讃えあう。ステージドアから自転車で出てくるバーンに思わず笑笑った。そしてショーの中でも触れられた、「Everybody's Coming to My House」。デトロイトの高校生たちによる歌だ。劇中でバーンはこの楽曲について「よく聞いてもらえればわかるけれど、この登場人物はどこかでみんなを遠ざけている。早く帰ってほしいという気持ちが伝わる。けれどデトロイトの高校生たちが歌った曲を聴くと、本当に心から歓迎しているように聞こえるんだ。…ぼくもそっちがよかった。でも、ま、こんな人間だからね」。

これは今現在69歳のデヴィッド・バーンが、自分を変えて、繋がっていこうとする物語でもあって、少なくともそう読み取ることをバーンはゆるしていて、そのことにこんなにも心が揺さぶられるのが自分でも不思議でした。今までの人生を彼の音楽と分かち合った経験もないのに。でも、そんな距離をなくしてくれるのが音楽のちからなのかもしれないですね。

冒頭でバーンが「わざわざ劇場に来てくれてありがとう」というのは、本国の上演時期からしてもコロナとはまったく関係がないのだけど、今の日本でその言葉を聞くと、まさに時宜を得た歓迎の言葉になっていて、なんだか不思議でした。本当に映画館に足を運んでよかったです。そして、舞台のうえで表現されるものに、それが音楽であれ、演劇であれ、ほかの何かであれ、魂のかけらを捧げたことがあるひとには、この107分、21曲のショーに触れてみてほしいと思う。バーンは言う、「ステージの上から一番大切なもの以外排除したら何が残る?残るのは、我々と皆さんだけ。」どうか劇場で、映画館で、その密な時間を体験してほしいと心から思います。

*1:庄司薫さんの著作に出てくる言葉

「ジェントルメン」

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ガイ・リッチー監督新作!マシュー・マコノヒーチャーリー・ハナムコリン・ファレルヒュー・グラントヘンリー・ゴールディング…と、あっどうもありがとうございます!な色気と娑婆っ気あふれるメンズの切った張った物語です。つまるところガイ・リッチーが大好きで大得意なやつです。

学生時代からその商才をアンダーな方向で開花させ、大麻ビジネスで名を成したミッキー・ピアソンは、その巨大ビジネスをそっくり売り渡し、裏社会からの引退を目論む。ミッキーに恨みを持つもの、恨まれるといやなので先手を打つもの、自分が最も強いオスだと誇示したいもの、それらの欲望をかすめ取ろうとするもの…という具合に各人の思惑と欲望が入り乱れるわけですが、映画の構成がそれらを追いかけてすべてを知っている(ふうを装う)記者フレッチャーと、ミッキーの右腕レイモンドとの会話を軸に進んでいくんですよね。全面にガイ・リッチーのサインが入りすぎてておもしろかった。

自分がだれよりも賢いつもりなやつほど見事に裏をかかれていく中で、レイになんか、夢が詰まりすぎてるけども!みたいな気持ちに何度かなりました。チャリハナさんのひげを蓄えたお顔好きだわあ。ヒュー・グラント演じるくせ者記者フレッチャーとのやりとり、なべて良かった。フレッチャーのペースに乗せられているようで…なところ、おいしい。おいしいですね。何気に登場人物の中で最強なのでは感のあるコリン・ファレルもよかったですね。コーチ何者なんだよコーチ。マシュー・マコノヒーのミッキー・ピアソン、獅子のごとく獰猛で油断なく、レイモンドとの並びがこの…うん…SUKI…ってならざるを得ない。なんかくやしいけど!

筋立てとか、えっ、そっちに転がる?とか、ちょっと強引だなあ、と思うところがあっても最終的に「楽しく見てしまったぜ…」って頭をかきながら映画館を出てきてしまう感じ、結局のところガイ・リッチーの手のひらで踊らされたってことかな!きらいじゃないぜ!むしろ好きだぜ!