「諜報員」パラドックス定数

パラドックス定数新作。今回の題材はリヒャルト・ゾルゲ。太平洋戦争前夜の日本において、ソ連の諜報員として活動していたゾルゲと、彼に「かかわった」者らの物語。

ゾルゲそのものを描くのではなく、あの時代にゾルゲの諜報活動に心を寄せたであろう人を描くのが野木さんらしさかな。強制連行された個室のなかで、そのうち一人は官憲側だということを早々に明かされるというスリルもあるが、でもそこに眼目があるわけではない感じ。政府の職人、病院勤務者、新聞記者という三者三様の立場から「大日本帝国」への苦さの混じった思いが語られるが、個人的に新聞記者である芝山の、国際連盟脱退にまつわる悔恨が沁みたな。あの有名な「我が代表堂々退場す」…。このプロパガンダに自分は賛同してしまったこと、それがこの後の日米開戦に続く道になっていることを痛感している男…。

それぞれの信条から「主義者」と呼ばれるゾルゲたちにシンパシーを感じている3人と、権力中枢にあってその中で立身出世を夢想する男3人、どっちかというと後者に関する描写のほうが野木さんの筆が冴えているように思え、人は好きではないものを描くときのほうが解像度があがるのかもしれないなんて思ったりしました。

パラドックス定数の役者の皆さんは植村さん筆頭に皆様良い声爆弾の方ばかりですけど、今回は神農さんまで加わってマジで春のいい声祭り会場はここですかすぎた。あと次回作が青年座に書き下ろした「ズベズダ」で、あら野木さん演出で再演か、と思ってたんだけど、最後の挨拶で野木さん、「三部作六時間」つった…!?う、うそでしょ!?「またソ連かと思われそうですが」って、ちょっと笑っちゃいましたけど、いやしかし見たい気持ちはあるけどハードルあがるなー!

「名古屋平成中村座 同朋高校公演 夜の部」

続いて夜の部は「義経千本桜 川連法眼館」を勘九郎さんの狐忠信で。いや勘九郎さんの狐忠信久しぶりな気がする!あと四の切自体もなんだか久しぶりな気がする。一時期東でも西でも今日も四の切明日も四の切みたいな時あったよね(言い過ぎです)。

2017年に名古屋平成中村座が上演されてますけど、思えば今回のプログラムはその時とかなり近いんですよね。で、その年の四の切は扇雀さんが狐忠信をやられたんですけど、その時の感想に「できれば勘九郎さんで(狐忠信を)見たかった、扇雀さんには静御前で場を支えていただきたかった」て書いてて、今回まんまとそれが叶うという。本当にありがとうございます扇雀さん。

久しぶりの勘九郎さんの狐忠信、相変わらずの体幹お化けながら、いっそう貫禄がついてきて、以前の初々しさ、いじらしさが勝っていた印象からちょっと脱けたところがあるなあと思いました。あと佐藤忠信のとき無駄にかっこいい。なんなんだあのかっこよさ。そういえば、勘九郎さんと狐でいうと私は「雨乞狐」がむたくた好きなんですけど、あれもうやらないんですかね…(遠い目)。

最後は鶴松さんと七之助さんで「二人藤娘」。体育館だし照明どうかなとおもったけど、きれいに決まりました。これも短いながらも七之助さんと鶴松さん、それぞれのタイプの違う「美」のよさもあって楽しく見られた演目でした。

学校の校舎という、人生の最初期にむちゃくちゃ通うけどその後まったく足を踏み入れない施設に入って、あ~そうだった学校ってこうだった、みたいな感慨もあったりして不思議な感情が呼び覚まされる公演だったな。あとなんといってもお手伝いしてくださる高校生がみな、かわゆうてかわゆうて、一生懸命な子はもちろんちょっと照れちゃってる子もついつい仲間内で喋っちゃう子もみなマジでかわいさしかなかった。もはやおばあの心境よ!

「名古屋平成中村座 同朋高校公演 昼の部」

今年は勘三郎さんの13回忌追善を1年かけてゆかりの地を回られるようで、3月は平成18年以来となる名古屋の同朋高校体育館を「平成中村座」として上演。私はその時の公演は拝見していないのでここにお邪魔するのは初めて。同校の生徒や教員、父兄の方々がボランティアでスタッフを務められており、なかなかアットホーム感のある公演に。2月+高校の体育館=極寒では!?と怯えてましたが会場内はいい感じに暖かく、名物の仮設トイレはないものの校舎内のトイレをてきぱき案内してもらえてひどい混雑も発生せず、前方座布団席で腰とケツは死にかけましたが観劇環境としては総じてよかったなと。

さて昼の部は「弁天娘女男白波」を七之助さんの弁天小僧で。過去に何度か拝見しておりますが、今回最前列しかも目の前のお席だったので思う存分七之助さんの見あらわしを堪能させていただきました。前半の美しさからの落差が効いてるから観客のウケもすごくよかったなあ。知らざぁ言ってきかせやしょう、の台詞の待ってました感もいい雰囲気でした。稲瀬川勢揃いはビジュアル的にも見てて楽しいやつよね。勘九郎さんの鳶頭、隅から隅までかっこよくて眼福。あと喜多村緑郎さんの日本駄右衛門もよかった!

「身替座禅」。勘九郎さんの右京、扇雀さんの玉の井で。弁天小僧もそうだけど、歌舞伎になじみのないお客様でも親しみやすい演目が選ばれてて、それはちゃんと奏功しているなと思いました。会場がちゃんと楽しんでいる空気になっていたものなあ。奥方の造形が、以前見た時より実に依っているというか、お客さんが奥方の心情に軸足を置いて見られるような雰囲気に仕上がっていたのが印象的でした。

「アーガイル」


マシュー・ヴォーンがスパイ映画を!しかもヘンリー・カヴィルが出る!って言われるとキングスマン(と同時期に公開された「コードネームUNCLE」)を思い浮かべるしそりゃ見に行っちゃうやつでしょー!

人気作家がその小説のリアリティゆえに秘密結社から狙われて…というと、ついつい「ロストシティ」が脳裏をよぎりますが、やはりマシュー・ヴォーンというか、いや脚本はジェイソン・フォックスだけど、捻りの効いた展開で飽きさせないのがさすがでしたね。トンデモおもろバイオレンスシーンのセンスも含めて好きですわ~。

書いている小説が現実世界とリンクしている…という魅力的な、しかし「実際それって都合よすぎでは」というクエスチョンがつく設定にひとつのトリッキーな解を見せて、それをまあまあ観客に飲み込ませるんだからやっぱマシュー・ヴォーンのマシュー・ヴォーンぢからはすごいとしか言いようがない。「アーガイル」が誰かというところも、まったく予想できないところから飛んできたオチだったので本当、素直に楽しめちゃいました。

宣伝ビジュアルにもあるとおり、猫があの宇宙服ぽいキャリーケースに入れられたまま結構なアクションシーンが続くので、ひいい、ねこ、無事であれ~~!と祈るような気持ちになりましたが、それ以外は発煙筒ダンス銃撃戦もオイルスケーターもさすがのビジュアル力で参りましたという感じ。あと完全にウィンターソルジャーのネタやないか…という展開まであって思わず笑っちゃったよ。

ブライス・ダラス・ハワードはご自身でも「マンダロリアン」とかでキレのいいアクションのある映像を監督されていて、前半のほわほわキャラからの落差もあり後半のアクションの連打実に見ごたえありました。相棒のサム・ロックウェルはいつもながらに最高。大好き。マザファッカおじさんことサミュエル・L・ジャクソンや「キングスマン」でのアサシン役が印象的だったソフィア・ブテラまで出てきてなんか壮大な同窓会ぽさあった。と思ったらポストクレジットシーンでキングスマン匂わせがきたのでおいおいおーい!ってなったけど。それはそうとカヴィルさんは角刈りもおもろいし筋トレオタク君長髪もおもろい。個人的にはカヴィルさんとジョン・シナのバディものをもうちょっと見てみたかったぜ!

「テラヤマキャバレー」

  • 梅田芸術劇場メインホール 1階20列39番
  • 脚本 池田亮 演出 デヴィッド・ルヴォー

香取慎吾さんを主演に迎え、デヴィッド・ルヴォーの演出、「ゆうめい」の池田亮の脚本で寺山修司を描くという作品。顔ぶれがまず異種格闘技もかくやという感じで興味を惹かれたのと、まあ演出が演出だし、そんなへんなものにならんやろ!成河くん出てるし!と思って足を運びました(成河くんへの無限の信頼)。

生涯を終えようとしていた寺山修司のもとへ、「死」と名乗る者が現れる。死ぬのはまだ早いと、自身の戯曲「手紙」のリハーサルを続けようとする寺山だが、死は彼にこれは逃れられない運命だという。そして死が寺山に与えたものは、日が昇るまでの時間と、過去や未来へと自由に飛べるマッチ3本だった。そして「死」は寺山に言う。その代わり、私を感動させてくれ、と。

いやーこれ思った以上によかったです。個人的にアングラ演劇ぜんぜん明るくないし、そりゃもちろん寺山修司の作品も主に蜷川さんを通して何作か拝見してはいるものの、決して得意分野じゃない自覚があるだけに、観る前に不安がなかったといったら嘘になりますし、実際一幕は「なるほどこいつは手強い」と思いながら観ていた部分もありました。ところが二幕、特に終盤のドラマとしての高ぶりがすさまじく、私のツボにドカドカ蹴りを入れられまくりました。

僕に墓はいらない、僕の言葉が墓だと語った寺山が、現在の歌舞伎町で「ことば」が崩壊した世界に触れるところもいいし、リハーサルの中で「手紙」の出演者ひとりひとりに「質問」という「ことば」を返していくところもよかったですが、なんといっても寺山自身が自分の母への思いを語る「身毒丸」オマージュのシーンが白眉すぎた。それまでのクールな佇まいから、完全に激情で飲み込む芝居の熱もすごいし、あのあたりの「死」とのやりとり、「想像」を「おまえが唯一むこうに持っていけないものだよ」というところとか胸に刺さったなあ。その激情のあと、この芝居の中ではぼくも役者だ、と言ってのける表情とかもねえ、もう最高だった。

最後にこの世界に残ることもできると言いかける死に対してそれを拒み、「火曜日に生まれ、水曜日に死んでいく」というところ無性に好きだったな。成河さん期待通りの存在感だったし、「蚊」の伊礼彼方さんもすさまじくよかった!セクシーで猥雑で魅力爆発してたよ。凪七瑠海さんの宝塚の文法を活かしたキャラクターが「死」の役柄によくはまっていたし、いろんな魅力のあるカンパニーだったなと思います。劇中で野田さんがいじられてたのはルヴォーならではで笑っちゃった。

主演の香取くん、そこかしこで見せるスターとしての振る舞いの圧倒的正解ぶりもさることながら、前述した母への思いを語るシーンの良さが物凄く印象的。ああいう激情に観客を巻き込むって、実はめちゃくちゃ難しいことなんですよね。下手を打つとただただ怒鳴ってる、叫んでるって受け止められかねない。でもあのシーンの彼、本当にあの一瞬はあの感情に生きてるなってことが伝わる芝居で、よかった。「劇は出会いだ」って台詞そのままに、いろんな意味でいい出会いになった観劇だったなと思います!

「ネクスト・ゴール・ウィンズ」


アメリカ領サモアのサッカー代表の実話を元に映画化。監督はタイカ・ワイティティ。系譜としてはみんな大好きクール・ランニング系とでもいいましょうか、弱小国が奮起して「ナンバーワンになれなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という着地をみせるスポーツコメディもの。何を隠そう私はこの手の映画が大好き。というかスポーツにおけるジャイアントキリングを好きじゃないなんて人いるだろうか!?いやいるか(弱気)。

2002年のワールドカップ予選でオーストラリアと対戦し、0-31の史上最大の大敗を喫してしまうアメリカ領サモア。ただの1ゴールも挙げられない代表に業を煮やした協会は、短気ですぐに爆発してしまうオランダ人コーチ、トーマス・ロンゲンを監督に招聘する。押し付けられた仕事にうんざりするロンゲン、彼のやり方に全く賛同できないチーム。不協和音しか聞こえない中で果たして彼らは「1ゴール」「1勝」を手にすることができるのか!

サッカーにおける0-31の得点の異常さは、かつて日本ラグビーオールブラックスに145-17で敗れたことを凌ぐといってもいいかもしれない。何しろサッカーは1点を争うスポーツなのだ。Wikiで調べてみるとトーマス・ロンゲンはかの名門アヤックスに所属していたこともあるらしく、彼がこのアメリカ領サモアでの仕事に辟易としているのもむべなるかなと思える。

しかしながらこの映画の面白いところは、選手たちがロンゲンのやり方を信じついていく…というだけではなくて、同時に「変えられないところは変えられない」と泰然としているところ。これはサッカーで、ただのゲーム。勝っても負けても明日は来る。でもできれば勝ってみたい。点を取りたい。ロンゲンが徐々に彼らと目指す未来を見つけていく様子は、ある意味もっとも変化したのはロンゲン自身なんだってことが表れててとてもよかったです。

トンガ代表との対戦で、かつての同僚たちと気まずい再会をし、それゆえに試合の成り行きに苛立ちを隠せないところとか、あるあるな展開なんですが、ハーフタイムにとうとうロンゲンが自分の傷を語り、彼らに「思うように楽しんで来い」というところ、あるある、王道ではありつつも泣いちゃう私だ。スポーツによって得られる興奮、スポーツにおいて物語を見出し、それに肩入れしてしまうことは、ちょっと紙一重なところだと思うんだけど、でもあのスポーツによって得られる熱狂というのはほかのどれともちょっと違うものがあるんですよね。

トランスジェンダーの選手について、「第三の性」を「ファファフィネ」ということ、それが自然なあるべきものとして受け入れられているのを見ると、自分たちが「自然」とか「あるべき」とか言っているものは誰かが作った「自然」に過ぎないんだなあと思わされますね。

これも実話の映画化あるあるですが、エンドロールに実際の映像が流れるの、マイケル・ファスベンダーけっこう本人の風格あるなと思いました。あとね、私は最近よく欧州のサッカーの試合を見ているのですが、この先の、そのまた先の、そのまた先の先の先にあの世界があるんだなあと思うと、サッカーという競技の裾野のすさまじさを思い知らされる気がしました。

「落下の解剖学」


今年度アカデミー賞作品賞をはじめとする主要賞にノミネートされている本作。個人的に作品賞受賞作とは相性が良い時悪い時あるんだけど、脚本賞ってやっぱり一定の面白さが担保されているような気がする(ジャンルの好みは別として)。監督はジュスティーヌ・トリエ。

人里離れたフランスの山荘で暮らす家族。視力を失った息子が介助犬と散歩から帰ってくると、父親が血を流して雪の中で死んでいた。彼の死は自殺か、他殺か、それとも事故か。法廷における供述でつまびらかにされる「家庭の事情」と「真実」の行き着く先はどこなのか。

宣伝にあるような「唯一の目撃者は盲目の息子だけ」という、サスペンス・ミステリーでよくある展開から想像するストーリーとはちと外れていて、どちらかというと法廷劇というか、「法廷で暴かれること」と「真実」の間には実は無限の距離があり、法廷という場所は必ずしも真実を追求しているところではないという部分が浮き彫りになるようなストーリーだったなと思います。この映画が最後まで「本当には何があったのか」を提示しないのも、ミステリーではなく「法廷」「裁判」というもので人間が何を失うのか、ということに焦点を当てているからなのかなと。

この映画はフランス製作で、劇中の設定そのままに、ドイツ人の妻とフランス人の夫がフランスで生活しており、英語とフランス語が飛び交う中で暮らしている…というのをキャスティングにも反映しているわけですが、この言語というのも大きな役割を果たしているんですよね。母語ではない言語でのやりとりに不自由していないサンドラが、裁判で英語で話す許可を得てから語るその言葉の自由さが際立っていて、再現される夫婦げんかのなかで、母国で暮らす夫と、何もかもから切り離されて家族という縁しかこの国にないサンドラでは、それは見えている景色は全然違うだろうなと思わされました。

たまさか録音が残っていた夫婦喧嘩、過去の過ち、軋轢、夫の死の真相というものの着地点(真実とは限らない)を見つけるために日常の一部分がクローズアップされるけれど、夫婦とは、家族とはそういうものじゃない、と訴えるサンドラの言葉が印象的。あと、最後の証言の前に同じ家で過ごすことを息子に拒絶されたあとの車のシーンね…。あそこのサンドラ・ヒュラーの演技圧巻すぎた。「夫を殺してない」と主張するたびに「そこは問題じゃない」という、かつての恋人?恋人未満?な弁護士とサンドラが安易に焼け木杭には火が付くみたいな展開にならないのもよかった。

ところで、いぬがあまりにも名演技過ぎて、パルムドッグ賞そりゃ獲りますわってなったし、だからこそおまえさあ…という気持ちが抜けない。泣いたってゆるしません(いぬは無事です)。

そもそも頭を殴ったのだとしたら凶器は?とか、こんな疑われやすい状況で計画的殺人を起こすか?とか、理詰めというより裁判の進行が感情面に寄りすぎていたような気はするけれど、たとえ無実を勝ち取っても、裁判によって晒された事実の断片、晒されたことにより失われた何かがこの結果で戻ってくることはない、という重さも含めて、見てよかったと思えた映画でした。