「朝日のような夕日をつれて2014」

私が「第三舞台」に入れあげていた(いる)ことはもう今更重ねて言うようなことでもないですし、第三舞台に入れあげていた以上、「朝日のような夕日をつれて」という演目自体にもひとかたならぬ思い入れがあることももはや「それ もう 聞いた」というような話ですが、最初に言っておくと、私が思い入れた「朝日」というとき、それは大抵の場合91年版のことを指します。思い入れすぎて、ビデオを見すぎて、今でも台詞を諳んじているほどです。

紀伊國屋の50周年に朝日をやるらしい、と聞いたのは少し前でした。誰が、というよりも私が最初に思ったのは「朝日として成立している舞台が観られるんだろうか?」ということでした。何を生意気なことを。でもしょうがない。私の中には朝日91が押しても引いても動かない巨石のように居座っているのです。理想の極北がいまだに頭上高くあるのです。伝説の舞台の再演、そう煽られても、その煽りに素直に乗れない私がいました。もちろん観に行く。楽しみににもしている。しかし、過度な期待はすまい。そう思っていました。そう思っていた、過去形で綴れることがこんなに嬉しいなんて。

朝日のような夕日をつれて2014」の最大の功績は、91年の朝日を過去のものにしたことじゃないかと思います。いいわるい、すごいすごくないではなく、91年の朝日はもう、古い。2014版がようやく、朝日のアップデートを完了させてくれたような気がします。

パンフレットの中で玉置さんが、大高さんに「『今、やる』っていうことでしかない」と言われたことを話されているんですが、まったくその通りだと思いました。朝日ってこんなに「時代と寝る」脚本だったんだなって思いましたし、それは私にとって新鮮な見方でした。1年後、3年後、10年後、そのときにどう見られるかなんてことはこの戯曲にとってほとんどなんの意味もなく、今を見て、見続けて、時代と寝て、寝て、寝続けて、だからこそ立ち上がる「ぼくはひとり」なのだなと。

それにしても、オープニングからほんとうにしびれるほどかっこよかった。過去を踏襲しつつもそれだけではなく、すべてにおいてうまくアップデートされた印象が強い。そしてどれだけ芝居がよく出来てても、役者がうまくても、かっこよくない朝日はそれだけで私にとってはダメですが、それを表層と、ミーハーと言うなら言え、かっこよさだけが伝えられることだってあるんだよ、舞台の上には。そしてこの舞台にはそれがあった。モニターではなくマーケッターと変わっていたり、そのマーケッターと研究員との会話の「ユーザーが何を欲しがっているのか」というやりとりで「みんな小さな蛸壺をみつけてそれで満足している、今こうしている間にも無数の蛸壺が生まれ続けている」なんて、思わず「ぎゃっ!」と飛び上がりそうな台詞だけど、そういうパンチラインがまったく顧みられることなく、大量の時事ネタと共に機関銃のように浴びせられる。さっきのあれは、とか考えている余裕はない。

LEDのモニタをすんごいカッコイイことにも、すんごいしょうもないことにも均等にフル活用してましたね。台詞の一部を出したのは(しかし出し方からしても読んでもらうためというよりは、言葉の洪水の視覚化という感じでしたが)朝日に限らず鴻上さんの舞台で体験してなかったのでちょっとびっくり。

キャストが発表になった時に、並び順=役だろうなとは思っていて、ということは大高小須田のあとに名前のある藤井隆さんがゴドー1なんだろうなと。言うまでもなく、朝日における華であり、難役でもある。私はね、鴻上さんが藤井隆をゴド1に選んだ理由のひとつに、「踊れる」っていうのが少なからずあるんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。客席からの登場、そのあとはダンス、台詞、台詞、台詞、そして台詞。変わり身の早さとドライさ、それと真逆の情熱が求められるこの役に、彼はすごくよく応えていたとおもう。極端なことをいえば、何を言っているか理解する、しないよりも、あのスピード感を保ったままゴドーとして突っ走りきることができるかどうかのほうが重要な気がするのだ。この役に彼は抜群のリズム感と反射神経で挑んでいて、その姿にほんとうに胸が熱くなった。これからやっているうちにもっとつかむものがあるといいなと思うし、テクニカルな(みよこの手紙の群唱とか)部分で覚束ないところがあったとしても、それをクリアできていくんじゃないかと期待したい。

伊礼さんのゴドー2、こんな正々堂々とかっこいいゴド2は歴代初じゃないでしょうか。やってるご本人の水を得た魚ぶりがすごかった。やれる、やれる、という感覚が沸いてでてきているような。玉置さんの少年はまさしく期待通りで、今回はこのゴド2と少年、そしてゴド1、ウラヤマエスカワのふたりの三角形のパワーバランスがよかったのも大きかった気がする。個人的には少年はもっと遊びの幅をふやしてもいいと思うし、玉置さんほどの実力者ならもっともっと進化させていくんじゃないかと思います。

大高さんと小須田さん、誰もが「あのハードな朝日を、大丈夫か」という目線あったと思うんだけど、あれだよ、97の時よりパワフルな気がしたよ!昔は私も「これは若くないと出来ない戯曲じゃないか」とか思ってたけど、んなこたーなかった。ぐいぐい引っ張る引っ張る。遊ぶ遊ぶ。2人の安心感ハンパない。そして大高さんの、この戯曲への愛がハンパない。この戯曲、この劇場、ほんっとうに心底愛しているんだなってのが伝わってきて、全然普通のシーンで泣きそうになったわ。今回の公演はもちろん、紀伊國屋ホールの50周年記念ということではあるけれど、第三舞台を作って支えて最後までつとめあげた、鴻上さんと大高さんへのごほうびなのかなーなんて思ったりしたよ。

上演予定時間2時間だけど、多分初日けっこう巻いたんじゃないかと思う(カーテンコールあって、アンケート書いて、ゆっくり外に出て9時5分だったので)。客前でやると速くなるって鴻上さん仰ってましたもんね。もっと引きつけて、もっとためてもいい、と思うシーンもあったので、そういうところはこれから客席の空気を吸って変わっていくのかなあ。

最初に「台詞を諳んじられる」と書いたのは「それぐらい好き」という比喩ではなく、本当にがっつり覚えている、ということなんだけど、たとえば冒頭の台詞、ゴド1とゴド2の「休憩時間」の短いセンテンスのやりとり、そしてみよこの手紙、そういうものがもう、身体にしみついてしまっているのです。覚えている、という気すらなく、反射のように出てくる。でも、これからは、あの冒頭を思い出すとき今回の演出を思い出すし、少年の「見よ、このパズル」の台詞のあとにEDGE OF THE CENTURYが頭の中で流れることもない。やっと朝日91は私のなかで過去のものになった。それがどんなにうれしいことか。そう思わせてくれたことに、ただただ感謝したい。