「雨とベンツと国道と私」

モダンスイマーズの新作。今年で結成25周年とのこと。2年半前に上演した「だからビリーは東京で」と地続きにある物語で、あのときと同じように「コロナ禍」に絡めとられた人たちの物語でもある。

今月末(30日)まで上演しており、かつチケット代が3000円という信じられないような価格。ぜひ観に行ってほしい。3000円て、私が演劇を観始めたころ(30年前)の小劇場価格である。このクオリティの芝居がこの値段で?信じられない。

コロナに罹患したことをきっかけに体の不調が続き、味覚がもとに戻らない五味栞は、かつてシナリオスクールで一緒になったことのある才谷敦子の誘いにより、自主映画の製作の現場に手伝いとして参加する。才谷はコロナで夫を失い、その思い出を映画という形で昇華しようとしていた。しかし、その現場にいる穏やかな映画監督は五味栞のよく知る人物であり、その人物のパワハラをきっかけに、五味栞はあるものを喪ったのだった。

今回の作品は創作現場におけるハラスメントを真正面から描いており、だからこそ観客はいろんな角度からこの作品を見ることになるのだが、まずすごいなと思ったのは、どの登場人物もしっかり多面体で描かれているということ。誰もがとある場面では誰かを傷つけ、そしてまた別の誰かに傷つけられている。そういう意味でとてもフェアな脚本だなと思った。

「六甲」と名前を変える前の坂根の言動は、一点の曇りもなくパワハラそのものであり、一切の弁解が入る余地がない。同時に、その坂根は「どこまでも許されないのか」「どうすれば許されるのか」という視点がある。主人公の怒りはもっともであるが、では亡き夫との記憶の縁に、それを映画という形で残そうとしている才谷の想いは蔑ろにされてもいいのかという視点もあるだろう。一方で、その才谷は過去の行状を知っていながら坂根を起用したのであり、にもかかわらず務めて冷静にふるまおうとする「六甲」に「本気じゃないんじゃないですか?」「もっと厳しく言ってもらわないと」と無邪気に煽るようなことをしている。

主人公は「初恋」の宮本圭との夢にすがるあまり、顔に負傷した宮本を訪ね、自分の夢を傷心の宮本と分かち合おうとし、「ごめんと思っているならこんなとこに来ない」と切り捨てられてしまう。その宮本は坂根をパワハラで告発するが、「仲良しのオナニーごっこでできた作品じゃ意味がない」という坂根の檄に同調するようなそぶりを見せる。坂根に日々こき使われる撮影監督はパワハラの被害者であるが、同時に宮本圭が自分に気があると思い込み、その一方的な勘違いは宮本圭にとって迷惑でしかない。

劇中で坂根が、創作現場における恫喝について、芸術と向き合うときのハラスメントについて語るシーンがある。本作品では映画の現場だが、これは演劇でも全く同じだろう。監督(演出家)と役者という権力勾配。「芸術のため」という大義名分。大義名分の前の一種の集団陶酔と慣習。ハラスメントの生まれやすい現場はこちらでございます!という感じだ。だがしかし、芸術には正解がないから、目に見える到達点がないから、「どこに到達するか」の意識が作品の質を決めるという考えは決して間違いではないから、だからこそ意識の低い役者やスタッフを誰かが高みに連れて行かなければならない、そう思うことは間違いなのか?
間違いではないだろう。
でもその考えを錦の御旗のように振りかざしているうちは、創作現場のハラスメントはなくならない。

「六甲」と名を変えた坂根のモノローグで、ダメな現場にいるダメな役者を、暴言と暴力以外で導く術が自分にない、と語るとおり、つまるところそうした術を探していくことが、この問題に立ち向かう第一歩なんだろうと思う。そして同時に、物事を単純化してわかったような気にならないことも。ラストシーン、ただ走る、ということができない役者に向かって放つ五味栞の檄は果たしてハラスメントなのか、それとも役者を導くための術なのか。「映画において走るっていうのは物凄いパワーを生むんだ」っていう主人公の台詞は、確かに役者を導く術のひとつであるように私には思えた。

「だからビリーは東京で」の主人公が、あの劇団のあとも芝居を続けていることがさりげなく組み込まれていてよかった。目を見張るような素晴らしい役者でなくて、もがきにもがいているのもリアル。最初に書いたが、3000円というチケット代はマジで破格中の破格であり、この価格を維持してこのクオリティのものを見せる劇団の底力に心から拍手を送りたい。素晴らしかったです。最後のシーンは、そんなはずないのにベンツから撮影された、雨の国道を疾走する若者の姿がスクリーンに映っているような、そんな気持ちになりました。