「ブエノスアイレス午前零時」

原作未読。いやー、思った以上によかったです。小説の舞台化で演出が映画監督、というとこでちょっと構えてしまったところがあったんだけど、完全な杞憂でした。お恥ずかしい。

うらさびれた旅館ではたらく挫折したひとりの青年と、その青年を過去の自分の知り合いだと思い込む老女マリア。舞台はその旅館の玄関ホールと、ブエノスアイレス、ボカの港街にある娼館が目まぐるしく交錯し、やがて、その青年の中にかつてのブエノスアイレスでの物語が流れ込んでいく。

まず、行定さんの演出が非常に王道で、かつ観客をちゃんと信頼したものだったのがすごくよかった。ブエノスアイレスの娼館と日本のうらさびれた温泉旅館の玄関ホールという真逆の舞台を、入れ子になった舞台の出ハケだけで切り換えていて、しかも中劇場ならではの奥行きを活かした転換でみせていたこと、加えてその世界が転換するときに、わかりやすいきっかけなしに自由に行き来させるところ、そうやってもちゃんと観客はついてくる、というのがわかってらっしゃるんだなあと。そのふたつの場面以外は、セットを奥にさげてほぼ素舞台でみせてしまうところもいい。あの中劇場の空間で素舞台というのはなかなかに勇気のいることだよなーと思うし、それが美しい場面として成立しているんだからさすがです。

もともと、舞台上でふたつの世界が交錯しながら物語が進んでいく、という構成がものすごく自分の好みだということもあって、カザマとニコラス、2人の世界が微妙に錯綜するところとかぞくぞくしたなー。終盤、ミツコとカザマがあのホールを抜けて外へ、別の世界へ行こうとする、そのふたりと温泉宿のダンスホールでのダンスが入り乱れるシーンは絵的にもすばらしいんだけど、中でもホセとの格闘が一瞬タンゴに紛れ込む演出とか見事としか言いようがない。

キャストもまったく隙がなくて、ここぞ!というところにきちんと適役が配置されている安心感。若き日のミツコ役の滝本美織さん、マリア役の原田美枝子さんはもちろんのこと、独裁者だが温かみもあるボスを橋本じゅんさんが、虎視眈々と上を狙うナンバー2を千葉哲也さんが演じていてまさに盤石の体勢。千葉哲也さんのクールなナンバー2最高だったな!あの声!「こっち」の世界でのカザマの兄としての佇まいもいい。娼館でドスの効いた女主人、温泉旅館では女将をやっていた松永玲子さんのキレ味もすばらしかった。殆どのキャストがそれぞれの世界でそれぞれの役をやるので、俳優陣の魅力をまんべんなく堪能できる感じでした。

冒頭で、カザマは(旅館で行われるパーティのために)ダンスを覚えるようにと言われるシーンがあるんですが、それを演じているのは森田剛で、それを見に来ている観客はもちろん、かれがすばらしい踊り手だということをわかっているわけです。だからこそあのラスト、かつて叶えられなかった恋人同士のタンゴを踊る、そのシーンへの観客の期待感というのはいやがおうにも高まっていく。そして、彼がついにマリアの手を取り、最初のステップのためにすっと膝を深く曲げるその瞬間、あのカタルシス。その最初のアクションひとつで劇場を自分ものにするような。これこそスターキャスティングの醍醐味というやつではないでしょうか。

「自分はいるけどいないようにしている」青年の、若さゆえの孤独と行き場のなさ、そういう青年像を浮かび上がらせるという点で森田剛はまったくもってすばらしかったです。