「十月大歌舞伎 第二部」

「双蝶々曲輪日記 角力場」。八月、九月に引き続き四部制、座席販売も一席おきを維持。勘九郎さんが白鸚さんと共演される第二部を拝見しました。コンスタントにかかる演目だし、勘九郎さんは中村座で同役をおやりになったことがあるけど、私が拝見するのは初です!

勘九郎さんは与五郎と放駒長吉の二役で、ちがったタイプのかわいさを堪能できるし、また今回は濡髪の白鸚さんという、どーん!とでかい存在感にあたっていく役どころなので、兄なのになぜか弟みを出させると輝く勘九郎さんの良さを満喫できたなあと。声もいい調子。いつだって勘九郎さんの声の調子を気にしている私だ。

以下は演目とは直接関係ありませんが、興行側としてもいったんバッタリ倒れた後の興行リハビリ期間という意味合いがこの3か月というもの続いているんだと思うし、座席販売だけでなく演目の組み方も役者の組み合わせも文字通り試行錯誤なんだろう、ということは勿論理解しています。が、しかしそれにしても入ってなかった。客が。興行側も倒れたが観客も少なからず倒れているので、「習慣としての観劇」を続けていた層を取り戻すことの道のりの遠さを感じます。今のスタイルでは、幕見を一等席で見ているような感覚がどこかにあって、良いだろうと思うものを見に行ってやっぱりよかった、という安心感はあるが、ワンダー(驚異)がない。客足をもう一度惹きつけるには、こういう時でなければ絶対に見られない顔合わせ、演目、それぐらいのカンフル剤が必要かもしれないなと思いました。

「シカゴ7裁判」

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アーロン・ソーキン監督・脚本!もともとはソーキンは脚本で参加しスピルバーグが監督する予定だった作品が、もろもろの理由で頓挫しスピルバーグは監督を降板。10年以上の歳月を経てNetflixオリジナルとしてソーキンが監督も兼任してようやく実現。1968年の民主党党大会における暴動事件の責任を問われ、共謀罪で連邦裁判にかけられた8人(その後7人に)の裁判の行方を描く映画です。

Netflixでは10月16日から配信開始ですが、それに先立って1週間限定で劇場公開されるということで、これは!ソーキンのファンとしては!行くしかないでしょー!と初日に見てきました。映画としても面白いし、面白いだけじゃなく喉元に重いものを押し込められたような苦さがあるし、役者たちのアンサンブルは素晴らしいし、ソーキンのソーキンたるゆえんである、あの凄まじいスピードで繰り出される台詞の応酬は堪能できるし…とにかく、「映画館で見てよかった…!」と歓喜と興奮で打ち震えました。あまりにも観た甲斐のありすぎる1本でした。これからご覧になる方はできるだけこの先の感想を読まずに劇場、または配信でこの裁判の行き着く先を確認してください!

起訴される被告たちそれぞれの立ち位置、検事、その裏にいる政治家、加えてキング牧師が暗殺され、続いてロバート・ケネディも暗殺され、くじによって当たった「誕生日」のものがベトナム戦争に徴兵される、そういったその時代の背景をも、凄まじいスピードとリズムで畳みかけてくる冒頭が本当にすごい。あのセリフとセリフが繋がってどんどん次の場面に展開していく、あの目まぐるしさ。

検事のひとりはこれはあきらかに「無理筋」の起訴であることを自覚しているのだけど、時の司法長官の前任者への遺恨と、「無責任な若者世代」へのなんの根拠もない反発がこの裁判を支えてしまっているので、本当は起こっていない脅迫が作りだされ、証言は認められず、ブラックパンサー党に属する被告は代理人すらいないままに裁判が継続される。このグロテスクさ。法の執行者が政治に飲み込まれ、偏向した思想のままに強権をふるうことのこわさ。司法長官ミッチェルが共謀罪の適用を強行するように指示するときに言う言葉、「彼らはものを欲しがるただの駄々っ子だ。30代を刑務所で過ごさせたい。」そう言ったミッチェル自身はその後刑務所で過ごすことになるが、それはまた別のお話。

それにしてもホフマン判事の醜悪なことよ。演じている役者さんには敬意しかない。あまりといえばあまりな、まさに「法の濫用」に「どうしろっていうのよー!」と客席から叫びそうになるほどだった(彼がかつての司法長官に対してのみ及び腰なのがまた、一層腹立たしい)。しかし、これは「事実に基づいた物語」なのだ。つまりこの時どれだけたくさんの人間が「どうしろっていうんだ!」と叫びたかったのだろうかとおもう。起訴された8人のうちひとりはブラックパンサー党に属し、しかし彼はたった4時間しかシカゴには滞在していなかった。共謀?バカな。そもそも共謀するほどの連帯が彼らの中にはない。民主党左派はイッピーを毛嫌いし、イッピーは左派を遠ざけ、パンサー党は彼らとは抗っているものが違うと考えている。その4時間しか滞在していなかったボビー・シールに対してこの法廷がやったこと、それがいま、まさに、現在進行形で続いているということを考えずにあのシーンを見ることはできないだろう。呼吸ができるか?とクンスラーが確認するのは、まさにその証左だろう。この作品が紆余曲折を経て2020年の、大統領選挙を目前に控えたいま世に出たことには、意味があるように思えてならない。そういう引力をもった作品だと思う。

冒頭で一気に前提を見せ、裁判の進行と「なにがあったのか」という過去の事実を交差して見せていく構成はまさにソーキン自家薬籠中のものといってよく、「ザ・ホワイトハウス」でもよく使われた手法ですよね。配信が開始されたら吹替えでもぜひ見たいと思っていて、それはソーキンの台詞量は往々にして字幕だと追いつかないことがあるので、あの応酬を見るには吹替えの方が適しているかもと思ったり。

キャストがもう、めくってもめくってもすごい人しか出てこないみたいな感じで、しかも中盤にあなたが!?というような人も出てきて本当どこ見ていいのやら。目がもう一組ほしい。サーシャ・バロン・コーエンとエディ・レッドメインのやりとり、マーク・ライランスの穏やかな中にも頑として固い信念のある立ち居振る舞い、ジョセフ・ゴードン・レヴィットもよかったし、クンスラーと組んで弁護にあたったワイングラスを演じたベン・シェンクマンとかすごく印象に残った。「私が2人目です」の啖呵、そうだ!!!と思わず立ち上がりかけた。いやもう正直書ききれない。すばらしいアンサンブルでした。この綺羅星のごとき役者陣が弾丸のようにソーキンの台詞を叩きつける、それだけで私にとっては至福の2時間だったといってもいいぐらいです。

ソーキンは、ときには事実を積み重ねることがどんな台詞よりもドラマを作る、ということを熟知していて、それがこの映画においてもいかんなく発揮されていると思いました。事実には力がある。名前には力がある。我々は何のために戦うのか。グロテスクな法廷にあっても、その力を絶対に最後まで信じ切ること。すばらしい映画体験でした。
世界中が見ている!

「十二人の怒れる男」

レジナルド・ローズの脚本、シドニー・ルメット監督の手による同名の映画があまりにも有名なこの作品。法廷もの、密室劇の白眉中の白眉といっても過言ではない。私の父がこの作品が大好きで、私も夢中になって見た思い出があります。「合理的な疑い」というこの一点を焦点に、黒が白に反転していく、しかも2時間の間徹頭徹尾、台詞、台詞、台詞の応酬!私の裁判ものや法廷もの好きの原点といってもいいぐらい。

今回は演出にリンゼイ・ポズナーを迎えて、シアターコクーンでは11年ぶりの上演とのこと。四方囲みの舞台、長方形の机と椅子のセット、美術も基本的に映画版を踏襲しているし、あの飛び出しナイフをめぐる場面の見せ方(8番、3番、5番にナイフを扱う場面があるが、そのどれもがこの作品のエポックなシーン)も映画版にならっているので、演出的に目新しい、と思う場面は特になかったんですが、そのぶん12人の役者の仕事師ぶりを集中して堪能できました。

この作品では場面場面でリレーのようにバトンを繋いでいく役割のキャストと、マラソンのようにずっとエンジンを回し続ける役割とがあって、後者の筆頭はもちろん8番なんだけど、もうひとりが3番なんですよね。この3番に山崎一さんをもってきているのがもう、大正解つーかさすがの慧眼つーか。彼は最後の最後まで8番に対峙する役割で、かつかなり露悪的ではあるけど、10番ほどわかりやすく観客のヘイトを溜めず、とはいえ最後まで逆張りし続ける説得力もなきゃいけない。山崎さん、絶妙のラインで芝居を牽引しており、本当唸るしかないという感じでした。

10番の吉見さんは終盤、あまりにも悪辣なヘイトをぶちまけ、レイシストとしての顔を隠そうともしないところがあり、これまた難しい役どころだけど、声がね、ほんと、仕事する。むちゃくちゃ声がいい。ここぞという場面の9番青山達三さんと並んでマジで声がいい仕事しすぎでした。あと知性派4番の石丸さんもよかったー眼鏡ーーありがとうございますーーーこの人も声がめっちゃ仕事してたね。正面席後方で見ていたので、よけい声のインパクトのある方に引っ張られた感はあったな。

11番の三上さん、5番の小路さん、6番の梶原さんなんかは確実に出るべきところでしっかり出て、きっちり印象付けていくというベテランの腕の見せ所という感じ。11番の役はもとはユダヤ系の移民という設定なので、そのあたりが他の陪審員とのやりとりにどう出てるのかを見るのも面白いところ。私は5番が飛び出しナイフの持ち方を指摘するところがほんとに大好きで、この場面を今か今かと待ってしまう。

7番の永山絢斗くんと12番の溝端淳平くん、この座組にあってはかなり若手という印象になるけど、うおーもうちょっとがんばれー感があったのは否めず。いやまあ、周りが変態的にすごいのばっかりなんであそこで抜きんでるのはなかなか難しいよね。

この映画を家族で見ていたときに、母が(8番をやっている)ヘンリー・フォンダの役回りがカッコよすぎて鼻白む、と言っていたんですけど、そうなのよね!これ、8番かっこよすぎんですよ!(三谷さんの『12人の優しい日本人』はそこんとこむちゃくちゃうまく処理してるといえる)でもって8番のやってることって言うまでもなく陪審員の仕事ってより弁護士の仕事なんだよね!でもいい!なぜか!堤真一がかっこいいから!!白ジャケットの祭先輩、もうそれだけで祭りだから!!カッコいい人がカッコいい役をやる、これ即ち正義です。あの声とスタイルで「話し合いましょう」「合理的な疑いの余地はないと言えるんですか?」それを2時間浴びっぱなし。いやもう、さあ、殺せえ!ってなる。なります。最初の第一声で思わず「ほぅ…?」と心の碇ゲンドウが登場したことをここに告白しておきます。12人のスーツの着こなしも個性爆発で、目も耳も満足な観劇でした。

「いきしたい」五反田団

五反田団の新作。コロナ禍のことではなく、個人的なことを書きたい、という作・演出の前田司郎さんの弁。ツイッターでフォロワーさんが激賛されていたのを見て、あわてて追加発売になったチケットを買いました。追加販売に救われたパターンですね。

舞台上で引越し荷物の片づけをしている男女。どこにでもある普通のやりとり…と思いきや、そこに男の死体が引きずられてくる。「どうすんだよ」「捨てないと」「どこへ?」「どこか…遠くにだろ」。男女の会話は続くが、転がっていく先は見えない。

1時間の3人芝居、濃密で、演劇の仕事、演劇にしかできない仕事をいっぱいに頬張ったような後味。すばらしかったです。観に行ってよかった。冒頭の男女のシーンで、確かに男が出ていくようなセリフがある(女が「実家に戻るの?」と聞く)のだけど、そこからどんどん話が転がり、かつまったく思った方向に進まないのに、ちゃんとぜんぶが繋がっている(のがわかる)のが、本当に巧み。加えて、あの会話のすばらしさ!女はかつて夫と死別したことがわかるのだけど、舞台上にいるのは死んだ夫の概念というテイの男と男女の3人で、「死んでるのにいるじゃん」「それも織り込み済みでつきあってたんでしょう」というこの台詞ひとつとっても、舞台上にある「ありえないこと」を具体的に指すおかしさもあれば、かつての夫の死をまだ心に抱えたままの女への「まだ(心に)いるじゃん」「(そういう過去も)織り込み済みで…」という、ドラマとして完全に成立する台詞にも読める。サブテキストとも違う、言葉の多重録音つーか、台詞はひとつなのに意味はいかようにも見えてくるというか、そういう面白さがちりばめられている作劇にちょっと震えちゃいましたね。

女が暗闇に誘われていくシーン、あれこそあの空間でないと感じとれない、繊細さに満ちた場面だったなあとおもう。まさに闇に溶けていく、溶暗という言葉がぴったりなあのトーンを落としていく照明。完全な暗転ではないから、より闇が真の闇に見える。そこから誘う声。そこへ引っ張る手。ああいう瞬間はきっと、どんなひとにもあるんだろう。その瞬間に闇のほうを見てしまう人もいれば、闇に気がつかない人もいるというだけで。でもそんなときに、その闇を照らしてくれるものと、人間はかならずどこかで出会っている。その日食べたカレーが美味しかったとか、そんなこと。この女にとっては、それは光るパンツだった。

息したい。遺棄死体。行きたい、逝きたい、生きたい、遺棄して、息したい。抜けた歯の思い出を海の底に返しながら、女は思い出の帰る縁の灯りを隠す。もう戻ってこないように。

最近続いた悲しいニュースのいくつかを思い出し、あのかすかに揺れながら現れるパンツの灯りを思い出し、こういう灯りをどうにかして消さずに、心の中に持っていられたら、みんなが持っていられたら、と、柄にもなくそんなことを思った。

開演前に前田さんからご挨拶があり、感染症対策として行っていることについて説明があったのがすごくよかった。60席販売されていた(当初の45席を制限緩和で増席)とのことだけど、楽屋の入り口とか、シャッターを半開きにするとか、換気扇とかを駆使して空気の流れを起こしていること、舞台ツラから最前列まで2mの距離があること、役者は基本的にツラで芝居はせず、ツラから1.8mぐらいの距離で芝居をすること等々。脚本は800円で販売していたが、お金のやりとりを最小限にするため200円のお釣りをあらかじめマステで止めて脚本と一緒に渡すなど、まさに「ぬかりなくやります」の言葉通りであった。換気のために音と光が気になったりするかなと思ったけど、まったく支障がなかった。あの闇の冷え冷えとした感触はまさにあの劇空間ならではで、そういう感触に首元まで浸かれたのも観劇の文字通り醍醐味でした。戯曲がとにかく素晴らしいので、ぜひ再演を検討していただいて、もっとたくさんの人がこの舞台を経験できるといいなと思います!

「マティアス&マキシム」

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グザヴィエ・ドラン監督・脚本・主演。ドランの地元であるカナダのケベックを舞台にした作品。幼馴染のマティアスとマキシムは、友人宅のパーティーで、家主の妹の自主映画に強引に出演させられ、そこでキスシーンを演じることになる。

映画を見ているとき、たまらなく苦しくなる感覚があって、自分でもこの苦しさはなんなんだ、どこからきてるんだとむちゃくちゃ戸惑ったんですけど、それはたぶんこの映画がものすごく真摯に、精緻に、青年期にむきだしの他者と向き合っていくという意味での「恋」を描いていて、そして自分はそういったことからくるっと回れ右して生きてきたからなんではないかと思った。なんで回れ右してきたのかというと、しんどいからだ。もちろんそうやってきたことがだめだとか、後悔してるとかそういう話ではない。どんな人生でも現在地点に辿り着いているだけで満点だ。けれど、わたしがかつてそのしんどさから回れ右したことは事実で、この映画はそのしんどさから目をそらしていないということなのだ。自分で自分の行動をコントロールできなくなる、ありたい自分がわからなくなる、自分をさらけだすこわさ、それを否定されるかもしれないことのおそれ。人生における甘美で苦いあの飴を、わたしは欲しいと思わずにここまできたのか、欲しくないふりをしていたのか、そこに目を向けさせる力がこの映画にはあった。

パーティで大人気ないふるまいをして飛び出したマットが、道路の真ん中で立ち尽くすシーンがまさに象徴的で、あそこで「戻れ」とおもう私と、「行ってしまえ」と思う私がいた。戻れと思う自分はこの物語に足を突っ込んでいて、もう半分の私は物語に突っ込み切れずに逃げるマットを見て安心したかったのかもしれない。

予告編で見たシーンや台詞が一部本編ではなかったような気もしたけど、自信ない。マットのスピーチのとことか苦しさで気が遠くなりかけたし(そこまでか)。むちゃくちゃ揺さぶられたんだなー、と1日経ってしみじみ思う。揺さぶられたからいい、揺さぶられなかったらダメ、みたいな尺ではエンタメをはかっていないけれど、しかし「揺さぶられた」という事実は事実である。

スパッと音がするような幕切れで、そこがとてもよかった。あの一瞬でじゅうぶんだし、あの一瞬が彼らがこれからどう変わっても、どこかで彼ら自身を支えるのじゃないかと思う。そうあったらいいなと思う。マットとマックスを取り囲む友人たちのふるまいもすてきでした。様々な「母親」が描かれるなかで、父親の不在感ハンパねーなというのも思いました。マットがあの部屋で、マックスの手の甲にキスをする一瞬の官能は、本当に私を揺さぶりました。良い映画だったと思います。

「TENET テネット」

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クリストファー・ノーラン監督新作!というだけで「待ってました!」感が映画館に満ち溢れる、それだけで相当すごいことですよね。新型コロナウイルス感染症の影響をもろに受けてしまい、公開が延期になったりしながらも全米ならびに世界各地で劇場公開に踏み切ってくださってありがとうございます。エキスポのレーザーIMAXシアターで見てきましたよっと。以下ネタバレしているようなしてないようなですが、もう見に行くと決めている方はご覧になってからお読みになったほうが吉です!

ネタバレ見ないようにしよう…と自分が見るまでTLを薄目で眺めるようにしていたんですが、それでも飛び込んでくるのが「難解」「初見殺し」の文字。いやーこれぜんぜんついてけなかったらどうしよ…と戦々恐々としておりました。そして実際、冒頭から完全に振り落とされた。なぜって、これ物語のセオリーともいうべき因果関係の説明をほぼほぼすっ飛ばしているので「こいつは」「なぜ」「こんなことを?」という要素を画面で起こってることから拾い上げていくしかない。しかもめちゃ断片的。トドメがあのエントロピーの説明で、あの場面のとき「いやなるほどさっぱりわからん」の顔をしていたと思いますわたし。というか、この映画においてそういうセオリー通りのキャラクターの因果が明確に台詞で説明されたキャラクターってたぶんキャットしかいなくて、それなのにそのキャットがいちばん人物として記号的(書き割りつーか)に見えてくるのがおもしろいというか、不思議というか。

そんなこんなで完全に振り落とされてたんですけど、不思議なことにあの「回転ドア」が出てきてから自分の中では俄然物語が飲み込みやすくなり、わかったわかった!わかんないけどわかった!という感覚になったのがむちゃくちゃ快感でした。順目と逆目の反転装置なんだな、と自分の中で言語化できたのがよかったのかもしれない。木目を時間とすると、順目に削れば時間の経過どおり、反転して逆目に削ればその逆で、ぜんぶが反転している。けれどどちらも1倍速でしか進まない。高速道路のシーンはすべての車が一方向に動くので、目で見てわかる順行と逆行という感じ。この間見た「幸せへのまわり道」で「理は言葉にできる。言葉にできることには対処できる」って台詞があって、むちゃくちゃ良い台詞だな!!!って思わずメモったんですけど、言語化するってこういう効果もあるんやなと全然関係ないことを考えました。とはいえ全然わかんないことの方が多いけどね!音は普通に聴けるの?ってのも思ったし、あれは?これは?って考え始めると「わかんないですー!」ってなるんだけどね!

あとはストーリーの理屈はどうあれ、瞬間瞬間ですごい絵面がドコドコ降ってくるので、もうそれを見ているだけでもかなりの物語的快感が得られるというのも大きかった。スタルスク12での「時間の前後での挟み撃ち作戦」とか、いやまじちょっと何言ってるかわかりません、なんだけどそれでも酔えるカタルシスがあります。でもここは逆順が入り乱れているので、この人物の動きは順?逆?と考える間もない、つー感じだったので、そういう意味でももう一回見たい。いや、これまさに物語の順行逆行よろしく、もういちどなぞることで補完できる情報がめっちゃあるんじゃないかって気がする。

主人公に名前が与えられず、劇中で主人公は俺だろ、の台詞が繰り返しあることも含めて、むちゃくちゃ大胆な作劇だし、いやほんとどういう頭でこんなこと思いつくんでしょう…という、最後は監督(と脚本家)への感嘆符のような気持でエンドロールを眺めておりました。ちなみにこのラテン語の回文のことは見終わった後に知ったんですけど、「ハー!」とまさにため息しかでないやつ。
ja.wikipedia.org


それにしても主人公(protagonist)とニールの関係の描き方はなんつーか、どエモいというか、いやもうエモとかを超えた何か…という感じがして、五体投地の気持ちになりましたね。ラストでさらに逆行し、あの鉄の扉の前に戻っていく、ニールにとってはこれが最終地点、ということもですが、どれだけの長い期間の逆行を耐えて彼がこの「最後の作戦」に至ったのか、ということを考えると気が遠くなる思いです。見た人の中ではニールはマックス(キャットの息子)なのではという仮説もあるそうですが、だとするとマックスが育って逆行に送り出せるようになるまで相当かかるし、相当かかるってことはその分逆行しないといけないし、それはちょっと辛すぎねえかー!という気持ちになってしまうのでその説をあまりとりたくないわたし。というか映画で描かれていないことはいないことなので(起きたことは起きたこと)、あとは見た人が好きに解釈すりゃあいいんじゃねえかな!

主演のジョン・デヴィッド・ワシントンもニールのロバート・パティンソンもむちゃくちゃかっこよくて、スパイ映画ならではのアクロバティックな作戦(逆バンジー!)があったりタイムリミットすれすれの脱出作戦があったり、まあ正直このふたりのバディぶりを見るだけでもじゅうぶんにお釣りがきますという感じ。ロバート・パティンソンバットマンすごく楽しみになったってたぶん世界中で言ってると思いますけど私も言います。それからケネス・ブラナーやっぱりむちゃくちゃ芝居がうまい。なんて憎らしい。

いやしかし、まさに映画館で見る甲斐のある作品でした。満足!

「幸せへのまわり道」

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アメリカで放送されていた子供向け長寿番組「Mister Rogers' Neighborhood」の司会者フレッド・ロジャースと、彼を実際に取材したジャーナリストを描いた映画。原作はまさにその記者の書いた記事という、「実話を基にした物語」。監督はマリエル・ヘラー。

原作が「記者から見たフレッド・ロジャース」なので、フレッドを演じるトム・ハンクスが主演というよりは、記者であるロイド・ヴォーゲル自身に焦点があたっています。ロイドは優秀な記者で(冒頭で彼が表彰されるシーンがある)、美しい妻があり、子どもも生まれたばかり。しかしロイドは父親との間に深刻な確執を抱えている。

何かの感情に振り回されそうになったとき、なぜそうなっているかを考える、考えている間はその感情から自由だから、というとある演出家の言葉を私も信条としているわけですが、そういった「なにかに(怒りに)振り回されそうになること」と人間はどうやって向き合うのか、というある意味終わりのない問いを丹念に描いていて、すごくよかったです。本当、これは「男は黙って」みたいなタイプの男性にこそ見て欲しい。特にすごいと思ったのが、ロイドがピッツバーグまでフレッドを追いかけてきて、彼と食事をするシーン。一緒にやってみてくれ、とフレッドは言う(フレッドは絶対に指図をしない。提案する。そして必ず『やってみてくれてありがとう』という)。1分間だけ、何も言わず自分を愛しいつくしんでくれたひとのことを考えてくれ、と。レストランの喧騒が次第に遠ざかり(ここで、まるでレストランの客もそれにならうかのように見えるのむちゃくちゃうまい演出)、映画としてはかなり長い間、おそらく実際に1分間ちかく、無音のままフレッドとロイドの表情だけをカメラがとらえる。このシーンが素晴らしいのは、この沈黙が観客である我々にも投げかけられているということだ。演劇ではたまに使われる手法で、私は「縦方向のボール」とこれを呼んでいるのだが、観客が一緒に体感することで劇中の登場人物に一瞬同化する。あの時間に、観客自身が自分にとっての「自分を愛しいつくしんでくれたひと」のことを思い出さないでいるほうが難しい。だからこそ、あのシーンでロイドが何に解放されたかが、観客には手に取るようにわかる。

そのあとの奥さんとのシーンもよかった。自分の感情と向き合うって本当にしんどい作業だ。そのしんどい作業をいちばん大事な人の前でできるって、本当に勇気がある。奥さんがちゃんとそれを受け止めてくれるのもいい。ラストは大団円に向かっていくんだけど、ヴォーゲル家の団欒に招かれたフレッドが言う台詞がすごくよかった。あまりによすぎて、むちゃくちゃ心を打たれたので、映画館を出てスマホの電源を入れてまずその台詞をメモしてしまった。「われわれは死について話す時気詰まりを感じる。だが死は人間の理だ。理は言葉にできる。言葉にできるものには対処できる」。すごい、こんなに勇気をもらえることばは久しぶりだ。言葉はとくに凶器で、無力なものに感じるが、だが人間は「言葉にできるものには対処できる」のだ。そのことを忘れないでいたい。

かつてあったテレビ番組のフォーマットを使い、ミニチュアのセットやちょっとミュージカル仕立てのような場面があるのも面白かった。トム・ハンクス演じるフレッド・ロジャースは、不思議な間合いの人物で、ずけずけ、というのともまた違う速度でひとの心を掴んでしまう。決して聖人というわけではなく、それが番組収録後の最後のシーンに現れていたりするのも、つまるところ彼の妻が言うように「プラクティス」の結果なのだろう。地下鉄で移動するフレッドに、乗り合わせた乗客が番組のテーマソングを歌いかけ、大合唱になるシーンもすばらしかったです。とても良い映画だったので、ぜひ足を運んでみてください。