野田版桜の森の満開の下、無事大千穐楽!


終わってしまいましたね。終わってしまいました。待っていた時間は長くても始まったら終わってしまうんですね。とはいえ、千穐楽を見届けて、なんだか今はすがすがしい気分です。「ヒメの笑顔におされることもなく、この仕事、まっすぐ素直に戦えている」という耳男の心境でしょうか。違いますか。違いますね。

初日のあと、中日あたりにもう一度拝見して、終盤も見に来る予定だったので、筋書はお写真が入ってから買おうと控えていました。24日の観劇の際ちょうどお写真が入るとのことだったので、そこで初めて野田さんが筋書に寄せた文章を読みました。んもーーー!!秀樹!(呼び捨てすな)もしこれおセンチメートル満開時期の初日に読んでいたらそのままトイレに駆け込んで嗚咽待ったなし案件じゃんかよ!この文章まで七五で書いていることを、勘三郎さんが「相変わらずバカだねお前は」そう喜んでくれれば…とかほんと…うおーん(泣いている)。しかし、その最後に、本気でものを創る者らの心に棲むと言われている鬼の話です、とあって、野田さんが作品についてこういうことをストレートに書いたことに驚きました。その日の観劇のことはちょっと忘れられません。なんというか、頭に物語がぐんぐん入っていくような、今まで解けなかった問題がすらすらと解けていくような、そんな快感がありました。芝居もすばらしく、自分も集中して舞台を見ることができて、観劇の愉悦を凝縮したような2時間でした。「オニの息吹がかかるところがないと、この世はダメな気がする」という私の大好きなマナコの台詞、オニの息吹って、そうした向こう岸から届く芸術(芸能)のことなのかもしれないなあと思いましたし、見届けてやるという俗物のマナコは私(たち)だよなあとも思いました。でも、桜の木の下にはひとりで行かなくてはいけないのだ。そうして舞台の上というのは、われわれがどれだけ見届けても、ひとりで桜の木の下へ行かなければならない者たちの場所なんだよなあと思いました。

千穐楽、あの「殺し」の場、はらはらと散っていた桜の花びらが渦を巻き(というか、あのはらはらとした風情から桜吹雪へ、そしてまたはらはらと散る桜の加減が絶妙すぎて、そういう細部に至るまで磨き抜かれた裏方さんの力量を見せつけられる思い)、そこで対峙する夜長姫と耳男のふたりが、その姿勢、手の動き、すべてが絵のように美しく、自分が長い間、本当に長い間夢に見ていたものがそこにある、ということにひたすら感動しましたし、なんというか、いろんなものが洗い流されたような気持ちになりました。なんだかとってもすがすがしい気持ちです今は(冒頭に戻った)。

芝居の感想は初日のあとに書きましたので、それぞれの役者さんについて(全員ではないけれど)いくつかメモ書きを。

  • 染五郎さんオオアマ。なんという完成度、まさにオオアマファイナルアンサー出ました!な気持ちでした。あんなに人を上から見下すのが似合う人っていますでしょうか(全力の褒め)。耳男の「これからはこの耳から永久に俺を名人と呼ぶ声が聞こえてくるのでしょ?」のあとの「あ?」が大好き。大好きです。そのあとの「耳男、お前こそがオニだな」「耳男お前がオニになれ」の台詞のトーン!あの視線!俺がファーストエンペラー!って台詞がこんなにしっくりくる人いない!最高かよ!!!(興奮)
  • オオアマはセリフにもある通り、前半は野心を隠し、後半はその野心を顕す役ですが、この二面性も染さまにぴったりハマったよな〜と思う。まさか出でイルカ背負ってたひとが最後ああなるとはっていうね。笑いどころは逃したくない染さまらしく、壁ドンしたりセ・巻物にゴム仕込んだり(あれ初日見事にクリーンヒットした染さまに勘九郎さんも猿弥さんも半笑いでしたよね)、早寝姫を追っかけるときにわざわざこれ見よがしのターン決めたり(そしてそれにマナコが続いたり)、いろいろサービス満点でした
  • そういえば初日はオオアマの冠のツクリがもろく、ヘンナコとの絡みの場面でぽっきりいきそうだったのが懐かしい。すぐに補修されてましたけども。
  • ヘンナコとの絡みと言えば、王冠を拾いに行って足に当てるのは初日はやってなかったような。あの足に当てた後、この足が!この足が!みたいにじたばたするとこ大好きです
  • 襲名前のこのタイミングで染さまにオオアマをやっていただけて、本当にありがたいしここで実現してよかったって心底おもいますし、ほんともう染さまに足を向けて寝られない
  • 猿弥さんマナコ。いやもうね、千穐楽のあの大仏に上って「展覧会の絵」がかかる場面、その前日は「どっちが親指だー!」っていう、あの場面でこれ心の臓が強い人でなきゃできないよ!ってギャグをかましてきていたのもすごかったけど、まさかの鬼ごっこスタイルから入るっていう、もう今日終わる芝居なのにまだカチコんでくるその精神に完敗、いや乾杯です
  • マナコは本当にカッコイイ役だけど、それだけじゃなくてキュートさをふんだんに振りまいてくれた魅力的なマナコだったなー。自分でギャグをかましてからの「落ち着け」とか、手のひら返してみせる場面のロボ振りとか、こういう細部に情報ねじ込んでくるタイプの役者さんめっちゃSUKI…ってなりました。
  • 勘九郎さんの耳男ともどんどん息が合っていって、幼馴染であったよな〜、あったあった!の間とか、比喩の自転車の場面とか、そのあとの去るマナコを執拗に(千秋楽の執拗さたるや、もう許してあげて!と思ったし、マナコももう、ごめんなさい!と言っていた)追いかける耳男の場面も楽しかったです。
  • オニオニたち、亀蔵さん赤名人の七五へのこだわり具合と絶妙の間、すばらしかったですね。そして巳之助くんのハンニャ!毎回毎回出ている場面で色んなことしてるのでついつい目で追っちゃうし、ホントに初日から完成度が高かった!そして喉が強い!豪族となってから声のトーンが変わるけど同じ舞台で違う声色いったりきたりしていてもビクともしない。一幕ラストの殺陣もめちゃくちゃ絵になる動きが多くてほんと目に耳に楽しい役に仕上げていてすごいな!
  • 梅枝くんの早寝姫もすごく好き。「いささか気が引けます」からの「いささかも気が引けません!」とか、巻物覗き込みながらのオオアマとのやりとりとかとてもよかった。
  • エナコ(ヘンナコ)の芝のぶさん、野田さんぜったい芝のぶさん好きだよな〜私もだよ〜。感想とか検索していると「なんで女性が出てるんだ…?」と思ったひとが少なくないのでほんとすごい。私エナコの「聞かせるがいい念仏を」の芝居が大好きなのよね…あと「あたし、みっちゅだよ!」のとこも好き。エナコが耳男の左の耳を切り取ったあと、あの小太刀をすっとかざしてみせるところもすごくよかったです
  • そして七之助さん夜長姫。以前ブログにも書いたけれど、遊眠社での上演時にこの役をやった毬谷さんが本当に強烈で、私も台詞を覚えるほどビデオやDVDを繰り返し見ていて、七之助さんに夜長姫をやってもらいたい、この人の夜長姫が見てみたい、という気持ちと、脳内に残る毬谷さんの声にひきずられたらどうしようという気持ちがあったのだけど、初日に第一声を聴いたとき、ああ大丈夫だ…!って思ったのをすごく覚えています。本当にすばらしかった。この役を演じてくれたことに感謝したい。
  • 後半になればなるほど凄まじさが増していて、だんだんオニとヒメの境界線が見ているこっちにも曖昧になってくるような、同じ場面でも、ヒメにも見え、オニにも見えるような佇まいがあって、これは女形だからこそできる造形だよなと思ったし、それを演じている七之助さんそのものさえなんだかその役の向こうに溶けていくような感覚が何度もありました。
  • 一幕ラストの耳男のミロクを見ながらオニオニと話す場面とか、声はオニなのに姿はヒメっていう、でもそれが自然に思える、ヒメさま誰と話をしているので、と耳男の気持ちになてしまう
  • ところで七之助さんはなんであんなに「ボッ」という火を灯す音が似合うんでしょうかw耳男の小屋に火をかける場面、芋を焼いていたかと思ったら楽前には火祭りの踊りみたいなのに進化していて笑いました
  • 艮の時刻と方向のダイヤルを合わせる儀式、っていうのが毬谷さんがブログで「残っててうれしい」と書かれてたやつかなー。あれ私も大好きです。「願いをかけているんです」「呪いともいう」最高
  • いちばん好きなのは、転がるように永遠を下り続けていくのですよ、というあの場面の、私はおまえと…もとい、お前はわたしと一緒でなきゃ、生きていけないのよという台詞、だからお前が転がるなら、私も転がっていくよって…あの場面の耳男と夜長姫の約束は、たとえようもなく切なくて美しい
  • 最後の鬼面となってからの夜長姫には、もう尽くせる言葉も尽きるという感じだ。見終わった後、観客の魂まで一緒に連れて行ってしまう夜長姫…

はー本当に夢のようだったな。夢のようでした、ってお前は何回言ってるんだよ。すいません。でもそうなんだから仕方ない。上演が決まってから初日、いや千秋楽まで、自分の思い入れをつららつらつらと書かずにおれない病にあったわけですけど、そうすることによってまだこの物語に触れていないひとの「体験」を阻害したところがあったかもしれないです(エモバレ?とかいう意味でも)。それは本当に申し訳ない。それによってなんだか距離をおいてしまったひとがいたとしたら、もっと申し訳なかったと思う。でも、どうだろう、とにかく、すごいから、見て!と言いたくなった私の気持ちも、こうして芝居が終わった後は、共感してくださるかたもいるのじゃないかとおもいます。そうだったらいいな。長年芝居を観ていても、自分が夢見た公演が実現して、なおかつそれが自分の想像を超えていくという体験は、めったにできるものじゃありません。私にとってはそういう八月でしたし、このブログを読んで下さっている方にも、そういう八月だったらいいなと心から思います。

さて、オイお前耳男のことを書いてないじゃないか、というツッコミがありやなしや、大丈夫です例によってこの先は勘九郎さんカッコイイしか言ってないエントリ・リターンズです!

それはそれとしてこの先勘九郎さんカッコイイしか言ってない・リターンズ

以前阿弖流為の時にも似たようなことをしていたんですけど、カッコいいしかホントに言わないのかっていうと看板に偽りありかもしれない。かっこいいかかわいいかどっちかです。たぶん(読んで下さっている方の知ったことか!というツッコミが見えた気がしました今)。

  • 初日、花道を耳男が駆けてきて、冒頭の台詞になったとき、あー速い!(勘九郎さんの台詞がではなく、芝居の速度が)野田さんこの速度で仕上げたのかー!と思いました。耳男は特にまくしたてる台詞が多いので(何しろ野田さんがやってた役ですからして…)、勘九郎さんも初日はその暴れ馬のようなセリフを御することに必死、という感じがありましたけど、それがまー中日や楽付近になったら完全に台詞を乗りこなしていて自分の「間」をしっかり掴んでいるのがさすがでした
  • 勘九郎さんに限らず、台詞や型が身体に入ってからの歌舞伎役者の強さね!「気持ちがつながらない」みたいな言い訳一切無用、その瞬間瞬間の役の表現を見せてくれるし、しかもそれがどんどん深度を増すっていう。そしてそれが板の上にいる人全員にいきわたっている気持ちよさ!
  • もしかしてこれは名人への近道か、の時のちょっと悪そうな顔とそのあとの「いやさまいちどその響き、俺を呼んじゃあくれめえか」がめっちゃそこだけ絵に描いたようにキマってるのさすがです
  • ミロクを彫っているときの蛇を噛んで引き裂き、のところもだんだんこってり仕様に仕上がっててよかった。あそこで血を吸え、とにらみつける顔がほんとまがまがしくてかっこよくてずーっと見てられる。飲み干せない血を化け物にぶっかけるだけのこと!の時一旦掛けて逆手でも一回ぶっかける仕草をすんのたまんないですよねー(細かい)
  • っていうか一幕の耳男は全編二の腕サービスタイムなので拝むしかない
  • 水をかぶる場面でのチョーサヤはやってくれる日とやってくれない日があったんだよな〜〜、あれ初日のときすわっ!ってなったよね私の心が。勘九郎さんの団七…
  • ついったでも書いたけど、鑿を振るう時に持ち手がほんとにズレない!どんな握力!?マナコの槌とオオアマの鼓(ここの染さまシレっと鼓出してきてしかもかっこいい、ずっちー案件)で重なっていくところ、鑿をあの速度で打つのけっこう大変だと思うのよ。それをまあこともなげに…って私こんなに耳男の左手ばっか見てていいのかい!と時々我に返るんだけど、かっこいいので結局見てしまうっていうね
  • 24日に観たときかな、「できた!」の最後の一叩きで槌の持ち手と頭が分解したんですけど、なんかできた瞬間に分解するってのが劇的でもあり、そしてそのあとその分解した小道具をさささっと拾ってパッと捌けたのもよかったのよなー
  • ヒメの前でミロクにかかった薄衣を取るところ、あそこが好き、あの低い姿勢がいい、と姉に言ったら「本当におまえは昔から低い姿勢の人が好きだね」と言われたんだけど否定できない…阿弖流為の時も同じこと言ってたし…
  • 二幕の冒頭、「お供え物と女優には手を出しません」は最初からある台詞ですけど、勘九郎さんもそこは!あてはまるから!絶対残ると思ってました!(ゲス顔)
  • 皆に名人と言われて夢のようです!の流れ、2回目のヘドバンが(ちょっと見えにくいけど)長髪に映えてて好きです。っていうかあの「ゆめのよーでーす!」が可愛いのでなんかこの先すごい連呼しそうな気がする。私が。
  • 開眼式のところのオオアマとのやりとり、もうね…全編好き。なんであの人あんなにかわいそかわいいのが似合うのでしょう。また耳男を見下す染さまのオオアマが高貴オーラ全開でかっこいいし、あの「信じられないことを言われている」ときの勘九郎さんの顔!顔!顔が!ちょう好み!(うんうん落ち着こうか)
  • マナコとの比喩の自転車のあとがあんなに大運動会になったのはいつからなんでしょうか(笑)楽日付近はもう見るたびにエスカレートしていた…勘九郎さんあなた大先輩に容赦なさすぎ!めっちゃイキイキしてたけど!!
  • ヒメさまお手を、の時にさあ、一度差し出した手をひっこめて、袖でぬぐってもう一度差し出すじゃん。あそこの耳男と夜長姫ほんとうに胸がつまる。一度ヒメの手を引くんだけど、夜長姫が引き留めて自分が耳男の手を引くの、最高でしたよね
  • 夜長姫の最後の台詞のあと、「私のお父さん」のオペラが流れるんだけど、個人的にはここの耳男の慟哭が好きなので、原曲じゃなくてもよかったんじゃないかなあという気はしている。とはいえ、ヒメを見てると…で言葉を失くす耳男が、本当に言葉を失くしているのが勘九郎さんの背中から伝わってきて、その背中が全部を語っているといわれればそうなんだけども
  • まいった、まいったなあ、の台詞のトーンも、初日はまだ探ってるような感じがあったけど、24日に観たときかなあ、個人的にズガーン!と殴られたぐらい切なさがあって、そのあとはもういつ見てもその切なさを感じられたので、どこかで自分の中の正解を見つけられたんだろうなあ
  • ラストの桜の森の満開の下、ひとりで鬼の面を抱いている姿が暗闇に溶けていくような、あの姿が忘れられません。

さて、かっこいいしか言ってないと言いながらおセンチメートル満開なことを書きますけど、私はある時から極力、勘九郎さんのことを勘三郎さんに似てる、と言ったり書いたりするのを控えようと思っているところがあって、いやひとさまがそうおっしゃってるのは全然気にならない(だって実際、似てるし、そう言いながら私も言っちゃってる時ある)のだけど、あくまで自分の問題として、似てる、って言うたびに、自分が勘三郎さんの姿を求めて勘九郎さんを見ているような気がしてしまって、いたたまれなくなるような感じがするというか…。似ていると言われることは、勘九郎さんにとっては嬉しいことなのか、どうなのか、それはわからないけれど、でもなんとなくその言葉を重く感じてしまう自分がいました。

この桜は筋書で野田さんも書いているとおり、勘三郎さんとやることが決まっていた芝居で、だから私も長い間桜が歌舞伎座でかかったら!って考えるとき、耳男として脳内で動いているのは勘三郎さんでした。でも、こうして今年実際に歌舞伎座で舞台を見ることができて、私はもうこの先、耳男の役を思うときに勘九郎さんのことを考えるだろうって思ったんです。それはさびしいような気もするけれど、でもやっぱりうれしいことです。七之助さんの夜長姫は私の記憶に打ち克ち、そして勘九郎さんの耳男は私の妄想に打ち克ってくれたんだなって思います。

見ている間、何度も、勘九郎さんかっこいい、私の好きなひとはこんなにもかっこいいって思って、そうか私、自分が思っているよりも勘九郎さんのことが好きなんだなって、何言ってんだ自分のことやろがいって話ですけど、でもなんかしみじみと、そう思ったんですよね。このひとを好きでいることが誇らしいなあと思いましたし、私が大事に思う舞台で、私の好きな役者が輝いてくれたことに、感謝しかありません。本当に稽古期間を含め千穐楽までおつかれさまでした、ありがとう、ありがとう、ありがとう!!!