以前阿弖流為の時にも似たようなことをしていたんですけど、カッコいいしかホントに言わないのかっていうと看板に偽りありかもしれない。かっこいいかかわいいかどっちかです。たぶん(読んで下さっている方の知ったことか!というツッコミが見えた気がしました今)。
- 初日、花道を耳男が駆けてきて、冒頭の台詞になったとき、あー速い!(勘九郎さんの台詞がではなく、芝居の速度が)野田さんこの速度で仕上げたのかー!と思いました。耳男は特にまくしたてる台詞が多いので(何しろ野田さんがやってた役ですからして…)、勘九郎さんも初日はその暴れ馬のようなセリフを御することに必死、という感じがありましたけど、それがまー中日や楽付近になったら完全に台詞を乗りこなしていて自分の「間」をしっかり掴んでいるのがさすがでした
- 勘九郎さんに限らず、台詞や型が身体に入ってからの歌舞伎役者の強さね!「気持ちがつながらない」みたいな言い訳一切無用、その瞬間瞬間の役の表現を見せてくれるし、しかもそれがどんどん深度を増すっていう。そしてそれが板の上にいる人全員にいきわたっている気持ちよさ!
- もしかしてこれは名人への近道か、の時のちょっと悪そうな顔とそのあとの「いやさまいちどその響き、俺を呼んじゃあくれめえか」がめっちゃそこだけ絵に描いたようにキマってるのさすがです
- ミロクを彫っているときの蛇を噛んで引き裂き、のところもだんだんこってり仕様に仕上がっててよかった。あそこで血を吸え、とにらみつける顔がほんとまがまがしくてかっこよくてずーっと見てられる。飲み干せない血を化け物にぶっかけるだけのこと!の時一旦掛けて逆手でも一回ぶっかける仕草をすんのたまんないですよねー(細かい)
- っていうか一幕の耳男は全編二の腕サービスタイムなので拝むしかない
- 水をかぶる場面でのチョーサヤはやってくれる日とやってくれない日があったんだよな〜〜、あれ初日のときすわっ!ってなったよね私の心が。勘九郎さんの団七…
- ついったでも書いたけど、鑿を振るう時に持ち手がほんとにズレない!どんな握力!?マナコの槌とオオアマの鼓(ここの染さまシレっと鼓出してきてしかもかっこいい、ずっちー案件)で重なっていくところ、鑿をあの速度で打つのけっこう大変だと思うのよ。それをまあこともなげに…って私こんなに耳男の左手ばっか見てていいのかい!と時々我に返るんだけど、かっこいいので結局見てしまうっていうね
- 24日に観たときかな、「できた!」の最後の一叩きで槌の持ち手と頭が分解したんですけど、なんかできた瞬間に分解するってのが劇的でもあり、そしてそのあとその分解した小道具をさささっと拾ってパッと捌けたのもよかったのよなー
- ヒメの前でミロクにかかった薄衣を取るところ、あそこが好き、あの低い姿勢がいい、と姉に言ったら「本当におまえは昔から低い姿勢の人が好きだね」と言われたんだけど否定できない…阿弖流為の時も同じこと言ってたし…
- 二幕の冒頭、「お供え物と女優には手を出しません」は最初からある台詞ですけど、勘九郎さんもそこは!あてはまるから!絶対残ると思ってました!(ゲス顔)
- 皆に名人と言われて夢のようです!の流れ、2回目のヘドバンが(ちょっと見えにくいけど)長髪に映えてて好きです。っていうかあの「ゆめのよーでーす!」が可愛いのでなんかこの先すごい連呼しそうな気がする。私が。
- 開眼式のところのオオアマとのやりとり、もうね…全編好き。なんであの人あんなにかわいそかわいいのが似合うのでしょう。また耳男を見下す染さまのオオアマが高貴オーラ全開でかっこいいし、あの「信じられないことを言われている」ときの勘九郎さんの顔!顔!顔が!ちょう好み!(うんうん落ち着こうか)
- マナコとの比喩の自転車のあとがあんなに大運動会になったのはいつからなんでしょうか(笑)楽日付近はもう見るたびにエスカレートしていた…勘九郎さんあなた大先輩に容赦なさすぎ!めっちゃイキイキしてたけど!!
- ヒメさまお手を、の時にさあ、一度差し出した手をひっこめて、袖でぬぐってもう一度差し出すじゃん。あそこの耳男と夜長姫ほんとうに胸がつまる。一度ヒメの手を引くんだけど、夜長姫が引き留めて自分が耳男の手を引くの、最高でしたよね
- 夜長姫の最後の台詞のあと、「私のお父さん」のオペラが流れるんだけど、個人的にはここの耳男の慟哭が好きなので、原曲じゃなくてもよかったんじゃないかなあという気はしている。とはいえ、ヒメを見てると…で言葉を失くす耳男が、本当に言葉を失くしているのが勘九郎さんの背中から伝わってきて、その背中が全部を語っているといわれればそうなんだけども
- まいった、まいったなあ、の台詞のトーンも、初日はまだ探ってるような感じがあったけど、24日に観たときかなあ、個人的にズガーン!と殴られたぐらい切なさがあって、そのあとはもういつ見てもその切なさを感じられたので、どこかで自分の中の正解を見つけられたんだろうなあ
- ラストの桜の森の満開の下、ひとりで鬼の面を抱いている姿が暗闇に溶けていくような、あの姿が忘れられません。
さて、かっこいいしか言ってないと言いながらおセンチメートル満開なことを書きますけど、私はある時から極力、勘九郎さんのことを勘三郎さんに似てる、と言ったり書いたりするのを控えようと思っているところがあって、いやひとさまがそうおっしゃってるのは全然気にならない(だって実際、似てるし、そう言いながら私も言っちゃってる時ある)のだけど、あくまで自分の問題として、似てる、って言うたびに、自分が勘三郎さんの姿を求めて勘九郎さんを見ているような気がしてしまって、いたたまれなくなるような感じがするというか…。似ていると言われることは、勘九郎さんにとっては嬉しいことなのか、どうなのか、それはわからないけれど、でもなんとなくその言葉を重く感じてしまう自分がいました。
この桜は筋書で野田さんも書いているとおり、勘三郎さんとやることが決まっていた芝居で、だから私も長い間桜が歌舞伎座でかかったら!って考えるとき、耳男として脳内で動いているのは勘三郎さんでした。でも、こうして今年実際に歌舞伎座で舞台を見ることができて、私はもうこの先、耳男の役を思うときに勘九郎さんのことを考えるだろうって思ったんです。それはさびしいような気もするけれど、でもやっぱりうれしいことです。七之助さんの夜長姫は私の記憶に打ち克ち、そして勘九郎さんの耳男は私の妄想に打ち克ってくれたんだなって思います。
見ている間、何度も、勘九郎さんかっこいい、私の好きなひとはこんなにもかっこいいって思って、そうか私、自分が思っているよりも勘九郎さんのことが好きなんだなって、何言ってんだ自分のことやろがいって話ですけど、でもなんかしみじみと、そう思ったんですよね。このひとを好きでいることが誇らしいなあと思いましたし、私が大事に思う舞台で、私の好きな役者が輝いてくれたことに、感謝しかありません。本当に稽古期間を含め千穐楽までおつかれさまでした、ありがとう、ありがとう、ありがとう!!!