今週の清盛

第42回「鹿ヶ谷の隠謀」または「鬼は都にありけるぞや」。
鹿ヶ谷、といえば出てくるのは歌舞伎好きには「俊寛」ですよね。そしてその芝居の中の名台詞のひとつがこれです。

「鬼界ヶ島に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや。」

前回で一転、今まで牽制はしあってもお互い呉越同舟でいきましょうや、という雰囲気だった後白河と清盛がいよいよそれぞれの駒をふるい落としにかかってきたわけですが、この鹿ヶ谷はその火花の最初の一閃となるわけです。

多田蔵人を仲間に引き入れ、後白河を頭目とした鹿ヶ谷での密談。これが、その後のシーンで源頼政が言う「酒の席で思いつかれた企てごときで倒れるほど平家はもろくない」というのを否定できない、どこか幼稚さを感じさせるものでした。有名な「瓶子が倒れましたぞ」「瓶子の首をこうしてやる」のシーンがそれに拍車をかけるような。

福原から清盛を引っ張り出し、御所を再訪する機会を与え…と後白河が用意した筋立てをうすうす感じる清盛。ここで信西の寝所が襲撃されたあの場面、算木がカタカタと揺れ出すあのシーンがフラッシュバックするのがすごく効果的でした。

ことが露見し、引き出された西光を見下ろす清盛はそれでもまだどこか余裕がありました。しかし、あのシーンで左手を軽く動かしただけで西光を痛めつけさせる(そしてそれを平然として見下ろしている)清盛は、やはりかつての実の父を、白河法皇を思い起こさせる構図だったなあと思います。

それがあの西光の、お前の国造りは志ではない、ただの復讐だ、と口走った瞬間から清盛の目に火が灯る。清盛が激昂したのはなぜなのか。西光に痛いところを突かれたからなのか。あの叔父を斬った日から覚悟を決めた、その自分の志に泥を塗られたからなのか。自分の目指しているはずのものを見失いそうになっていたからなのか。それとも、あの日髭切丸を頼朝に突きつけながら亡き義朝に語ったように、醜きことに塗れようと必ずこの世の頂きに立つ、その想いを、誰にもわかってもらえない孤独からなのか。

西光が去っていったあとに残された算木を、清盛が真っ二つに折ってしまったとき、彼の中のどこか芯のようなものも一緒に折れてしまったような気がしました。

力のある者が、力のない者に対してその威力を見せつける。それは決して美しくない。だが力を持つと言うことはそういうことだ。美しくないものを引き受ける覚悟を決めることだ。清盛はすでに力を持ち、同時に、美しくないものをその身に引き受けている。それは醜悪とも言えるし、孤独とも言えるものだということを見せつけられた回でした。

しかし、あとはただ仆されるのを待つ巨人、というふうにはやっぱりなって欲しくないと思う自分もおりまして、そのためにも雨の中完全なる青春ドラマを繰り広げた源氏方にはがんばってもらいたいと期待を寄せておりますよ!政子と頼朝の構図が、あの日の清盛と頼朝に重なる演出好きだったなー。ほんのちょっと前の話なのに、もうあんなに顔が違うんだな、きよたん、なんてことをしみじみと感じたり。それにしても頼朝たんは「連れてってくれ」とか言ってる場合じゃねーでげすからー!自分で!行けよ!

次週はなんといってもマイラブ重盛たんが苦悩に苦悩のすえ胃に穴をあける回、いやちがった、いやちがわない、いやもうどっちでもいいけどぎゃーーーやめてわたしの重盛たんになにするのおおおおおお!!!という気持ちとそんな可哀想な重盛たんが好きいいいいいい!!!という気持ちに引き裂かれております。ザ・二律背反。楽しみすぎてゲロ出そう(きたないな!)きよたんが失う「駒」ってどう考えても重盛たんなわけでね…。しかし、大河ドラマをこんなに熱心に見るのも新選組!以来ならこんなに思い入れるのも新選組!以来ですが、あの時もとことん思い入れた勘太郎くん(当時)演じる藤堂平助が退場したのは10月の最終週であった…私は10月末から11月の頭にかけて大河ドラマから去っていくひとに思い入れる運命なのか…(無理矢理なリンク乙)。私の運命はともかく、次週「忠と孝のはざまで」、震えて待て!