「悪魔の唄」 阿佐ヶ谷スパイダース

  • シアタードラマシティ  9列27番
  • 作・演出  長塚圭史

山奥の一軒家に妻を連れてやってきた山本という男。借りた家には赤の他人がなぜか入り込んでいて、自分の浮気が原因で気が触れた妻は空想上の恋人となんとか連絡を取ろうとする。電話借りたさに妻が隣人と名乗る牧田に協力すると、なんと掘り返してしまったのはゾンビだった。タイムカプセルに入っていたかのような、彼らの「日本国」への思い入れに振り回される山本。彼らは爆撃機アメリカへ飛ばし、せめて復讐をしようというのだが・・・
21世紀、「今」の非日常な世界に、60年前の日常が入り込んできます。「大日本帝国」「皇国日本」「アジアの解放」そんな単語が、不倫だ浮気だ妄想だという世界と混ざり合う。身体の腐った人間と、身体をなくした人間と、心を見失った人間と。「人間らしい」のは、果たして誰なんでしょうね?

たかだか60年前のことなのに、スパッとフタをしたまま手触りも匂いもしない「歴史標本」にしてしまった太平洋戦争を、こうして舞台の上で形として見せるというのはそれだけでなかなか強烈です。取り上げている題材からしても、好き嫌いは別れそう。「君が代」の扱い方とか、台詞の端々、もうちょっと踏み込むと主張が匂いすぎるぞ、というところでスレスレかわしているあたりはうまい。
ただちょっと消化不良な感じも否めず。「悪魔の唄」というのは非常に秀逸なタイトルで、見終わったあと「おおお!」と思わず感嘆してしまいましたが(チラシのコピーも含め)、あの時代に一方的にふたをしてしまうことへの違和感、それを「悪」だったと片づけることへの居心地の悪さを出す一方、信じ込ませ、力で麻痺させ、すべてを決めつけて命を捨てていくという空恐ろしさは描き切れていなかったような気がしてしまいます。最後の突撃の前に鏡石が立花に「気合いを入れてもらえますか」というシーンがありますが、「死」への恐怖という、人間なら誰でもが持っている根源的な感情を、手近にある肉体を痛めつけて麻痺させることへの違和感。そういった違和感も個人的にはもう少し突っ込んで欲しかったなと。こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、国のために命を捨てていった彼らの純粋さが際だつような描き方だなあと思ってしまったり。そのあたりのバランスがちょっと気になりました。

というのも、ゾンビ三人組含め牧田夫妻、山本夫妻、それぞれの個人的な想いがうますぎると言ってもいいぐらいうまく掬われているからで、そうするとやはりどうしてもパーソナルな目線で見ることに集中してしまうんですね。愛されるものの為に戦った、兄弟へのコンプレックス、それを直球でぶつけてきた(独白で聞かせるとはなんだか意外で)のも驚きましたが、見ている心情としてはどうしても彼らに肩入れしてしまいがちです。出来れば最後、そうやって肩入れした観客をもう一回うっちゃって欲しかったんだがなあ、なんて。

立花と牧田夫妻+平山の人間模様は芝居のひとつの柱なんだけど、こちらはもう文句のない出来。こういうのを描かせると長塚さんは本当にうまい。平山と立花、サヤのシーンはなんとも美しくて、涙がこぼれそうになりました。ある意味、ここが自分的にはクライマックスでそのあとちょっと集中力を欠いてしまったかも(汗)立花の役は実はよくわかんなかったんだよなあ。彼が「爆撃」にこだわる心情がいまいち読めず。サヤを愛してない、ってのはわかるんだけどだとすると「それぐらいしかない」という想いが彼を爆撃機に駆り立てていたのかしら。それとも素直に劇中の言葉を信用するべきなのかしら。愛子は哀しい女だったなあ。何がキツイって、愛子の頭に銃口が突きつけられているときは嘘でも「イエス」と言えなかった男が、自分の頭に銃口が突きつけられた途端「イエス」というところ。うわーもう、山本ダメダメじゃん!その他にも謎かけなのか設計ミスなのかわからない「?」もはしばしにあったりして、そのあたりも気になるっちゃ気になる。

私のお目当てである吉田鋼太郎さん、硬軟自在とはまさにこのことか、な素晴らしいダメっぷりに感動。力を抜いても入れてもうまい。さすがです。あと今回は山内圭哉がかなりもっていっておりましたなあ。中山&伊達の阿佐スパコンビとの相性も良くて面白かった。中山祐一郎さんはもう、なんか何を見ても愛しく思える病気になってきたかもしれない。ダメ格好いい、ダメかわいいところがなんともツボ。あといい男ウォッチャーとしては池田鉄洋のマジ男前演技と、長塚圭史のエセ爽やかぶりを並んで見れた挙げ句、二人のうさんくささ×二乗な演技にたまらずにやにや。

最後の窓の向こうに映し出されるものを怖いと見るのか哀しいと見るのか。最後の爆音が「愛国心」という名の爆撃機なのだとしたら、そこにはホラーではない「怖さ」があるような気がしてしょうがありません。