「サド公爵夫人」

当日券で拝見。面白かった。不勉強で申し訳ないが、三島由紀夫の「サド公爵夫人」を読んでもいないし、舞台で見るのももちろん初めて。なんで見に行ったのかといえば、それはもう「篠井vs加納」を見たかったからにきまっている。

台詞台詞台詞、間をおいてまた台詞、というような舞台であることだけは見に行った方の感想などで頭に入れつつ、個人的に音楽を聴いているよりも言葉の洪水を聞いているほうが心地いいひとなので、それはまったく問題なかった。しかし、役者が皆あれだけ苦労するのだから、相当な難物なんだろうなあ!とも思いました。聴いていたらそれほど難しい台詞回しでもないんだけど、多分言葉の繋がりが独特なんでしょうね。何度か危ういところもありつつ、それでもまあ気になるほどではなかった。

この芝居の眼目たるところはやはり二幕にあると思うけれど、確かにレネがモントルイユ夫人に対し、価値観の逆転、といったようなものを語るところは圧倒的であるし、すべてにラベルを貼り貼ったことで満足している、うさぎとライオンが血を流して愛し合う夜を知らない、等々と言い放つところはある種の痛快ささえあるのだけど、しかしなんというかな、この場面でのレネは個人的には薄っぺらいなあと思ってしまったのだった。いや篠井さんがどうこうではなく、このレネという役がね。転向者がいつも一番熱心な信奉者である、とでもいうような了見の狭さがそこにあったというのかな。サンフォン夫人のような「自らの求むる所」という潔さがない。モントルイユ夫人は確かに俗物ではあるが(三幕の俗物ぶりは痛快ですらある)、それは彼女なりの「自ら求むる所」であろうと思えるのだけど。

と、思いながら第三幕を見て、最後思わず「こうきたかーーー!」と声に出しそうになってしまった。いやーすごい。あっはっは。みんなの見ていた「アルフォンソ」とは誰だったのだ。レネも、モントルイユも、観客も皆、頭に自分だけのアルフォンソを思い描いている。そしてそれは、最後にシャルロットが告げた姿とは、劇中に何度も語られたアルフォンソの姿とはかけ離れていたはずなのだ。なんかもう、三島由紀夫の高笑いが聞こえたような気すらした。

ゴドーを待ちながら、ももちろんそうだが、私はこういう「不在」を中心にすえた芝居が、結構好きです。いまだに、私のベストナイロンが「すべての犬は天国に行く」であるのも、あれが不在をめぐる物語であるからと思う。いやそれにしても、面白かった。

加納さんと篠井さんがガチンコでやりあう二幕がやっぱり圧倒的で、二人の硬軟自在の演技術を堪能。加納さんがレネとアルフォンソの秘密を語っていくところ、すばらしかったなー。対する篠井さんもその圧力を受け止めて、存分に跳ね返していて見ごたえありました。レネの、三幕最後の長台詞、あれがいちばん難物だったのかな。なんか、そこだけ「言葉はわかるけど、落ちてこない」という感じがありましたが、しかしそれはそれとしても、所作、立居振る舞い、衣装の着こなしいずれも流石でございました。あと、個人的には天宮さんのサンフォン夫人も好きでした。っていうか、あの役がいちばん好きだわ、うふふ。