「夜中に犬に起こった奇妙な事件」

原作は2003年に発表された『The Curious Incident of the Dog in the Night-time』。2012年にウエストエンドで舞台化、そして今回その作品を「舞台を日本に置き換えて」鈴木裕美さんと蓬莱竜太さんが手がけています。

アスペルガー症候群の少年、幸人は父親と二人暮らし。近所で飼っているいぬにいつもあいさつする彼は、ある日その犬が殺されているのを見つける。知らない人がこわくて、いつもと違うことがこわくて、けれど幸人はその殺された犬のミロのため、犬をころした犯人を見つけようとする。

以下畳みませんが、物語の展開に触れていますので観るまでは一切なんの情報もしりたくない、という方はご注意。

世田谷パブリックシアターは高さがあるので、ふつうにプロセニアムに舞台を組むとどうしても上のスカスカ感が気になってしまうところがあるんですが、その高さを活かしつつミニマムに見せる奥村泰彦さんの美術がまずすばらしい。幸人が書いた「犬をめぐる冒険」をクラスで上演するという構造を活かし、教室を模したセットの机や椅子、黒板がさまざまなものに姿を変えてみせるところもうまいですよねえ。役者陣はその入れ子構造を支えるため、常に舞台のうえでスタンバイする。演出の鈴木裕美さんはキャスティングに際しプロデューサーに「演劇を愛しているひとでなければもたないとおもいます」と言ったそうですが、いやあ、裕美さん、かっこいい。

「舞台を日本に置き換える」ことの意味は、ラストシーンで私の胸にすとんと落ちました。いや、これは置き換えなければならないとさえ思った。この物語を身近に感じるために、というよりは、彼が為したことの小ささと大きさを身をもって実感することが何よりも大事だと思ったからです。

個人的なことですが、静岡で3年間暮らしたことのある私には、あの住所のリアルさ、駅に辿り着く道のリアルさ、新幹線の車窓の風景(あれは本当に静岡→東京間の風景です。ちょうど東静岡駅のSPACがちらっと見えるあたりで切り替わる)のリアルさに身に覚えがありすぎて、だからこそ東京にたどりついた彼の混乱と、西葛西までの道のりの「平坦じゃなさ」にも身を寄せて感じてしまったところはあったのかなと思います。

あの東京駅での混乱のなかで、映子先生だけじゃなくて、彼の心のなかの父親が励ますシーンにどうしようもなくぐっときてしまった。

彼に「がまんができなくなった」、いや、「がまんできない自分にがまんできなくなった」母親と、「がまんしている自分にがまんできなくなった」父親の、どちらを許すのか、または許さないのか、それともそういう問題ではないのか、彼らはベージュを介して、これからどういう対話をしていくのか。

検定試験の結果を知った後、幸人は映子先生に語りかける。数学の試験を受けて、物理学の試験を受けて、大学に行って、部屋を借りて、科学者になる。ぼくにはそういうことができる。先生は答える。そうね。僕にはできる。だってぼくは、ひとりで東京に行けたんだから。ぼくにはできた。ぼくはゆうきがあった。
それってぼくには、なんでもできるってことじゃない?
科学者になるという夢は夢だから肯定できても、映子先生は幸人のその言葉を即座に肯定することができない。それは「静岡から東京に行く」ということの小ささを彼女が知っているからだ。彼女ははっと胸を衝かれたような表情をしている。

けれど私はやはり一拍おいて「その通りだ」と答えたいとおもう。彼にとって静岡から東京に行くということは世界を変えることだった。そして彼はそれができた。彼にはとても、勇気があった。

「演劇を愛しているひと」が集まったキャスティング、アンサンブルとして数多くのタスクをこなしつつ、主演の森田剛くんを支える姿はまるでこの座組がこの物語そのもののようにも見えてよかったです。入江さんの、優しいけれど優しさゆえに追いつめられた佇まいについつい感情移入してしまうっていうね…。淡々とした、どこか奇妙に明るさと暗さの混在した台詞回しで3時間もの舞台をもたせる森田くんはさすが。あの宇宙を語るシーンの台詞と動き(そして舞台美術と映像)は個人的に白眉だったなあ。ああいうのほんとうまい、彼。何かから逃れるようにおもちゃの線路を繋げていくシーンは、彼のせっぱつまった感情がいっさいの言葉はなくても全身からあふれてくるようでとても印象深いです。

そして、その余韻からのあのカーテンコール。あっはっはっは。これは見た人のお楽しみですかね。しかし私は思った、いやあ裕美さん、ファン心理をわかってらっしゃる!脱帽!