「プレイヤー」

感想を書こうとして、タイトルに思わず「メッセージ」と書いてしまったではないか。いや、でも中盤そう思いませんでした!?(誰に聞いている)あの、人間は時間の流れとともに生きているけれども…あたりの話、ワーーーこれ見たーーーーと不思議にぞくっとしました。以下ラストの展開に触れているので未見の方はお気をつけください。

再生装置としてのプレイヤーと、演じるものとしてのプレイヤー、言葉の意味が二重に掛けられていて、死者のことばを語るアクセスポイントとしての役割と、劇中劇としてその役を演じる役者の姿、だんだんとその境界線があいまいになっていく。最初は明確に「今どっちにいる」ことがわかるんだけれども、そのうち「今どっちだ?」と手触りが不確かになっていくあたりの見せ方が面白かったです。こういうのは演劇だからできるやり方だよなーと思う。

時枝たちの思想は「狂っている」のか?狂信的では確かにある。しかし彼らは「確たる証拠」をもとに世界を移行しているだけなのだという。前川さんはいつもながら、あり得る線とあり得ない線の絶妙なところをついてきます。しかし私はこういう時に、有馬のように「それが真実かどうかは関係ない」という考えよりも、時枝たちの矛盾を突いてやりたいという気持ちがどうしても出てきてしまう。時枝が有馬の名前を聞いたときに見せたあの反応、おそらく彼は自分の未来を聞き、自分が「アリマ」という人物に殺されると知っていたのだろう。だが実際には、時枝は神崎の名前を呼ぶことでその未来を達成したのだ。予言が実現したのではなく、予言を現実に引き寄せただけだ。

途中で、稽古場でのセリフとしてこの次のシーンまったく意味わかんないんだよね、と言われて犬の着ぐるみが出てくる一連のシーンがあるが、そこで「まだ携帯の電源が切れていない」というシーンがある。携帯の電源を切ることで完全にこちらの世界にいける…って何を思い出しますか。私は自分が今座っている、すなわち芝居の客席を思い出しました。プレイヤー(役者)が作者のプレイヤー(再生装置)になるために必要なもの、共犯者、それが観客であるとでもいうような。

前川さんの芝居はわりと芝居の手触りとして乾いているというか、ウェットにならないところがあるんだけど、そこに藤原竜也くんみたいなタイプが入るのがすごく新鮮でしたね。最後の台詞も、かなりニュアンスが変わって聞こえてきそうという気がしました。成海さんはちょっと声がつまる感じなのが個人的に苦手かなー。イキウメファンとしては安井さんの芝居もっと見たい!という気もありつつ。コクーンよりもトラムぐらいの、しかも四方囲みとかで見てみたくなる演出でしたね。しかし、それだとあまり客観視できなさすぎてこわそうな気もします!