「ヒッキー・ソトニデテミターノ」

2012年にパルコプロデュースで初演。今回はハイバイ公演として、初演で登美男を演じた吹越満さんに代わり、岩井さん自身が登美男を演じる。

自分でこういうのホンット厚顔無恥とはこのことかって感じなんだけど、初演を見た後で書いたこの芝居の感想がすごく気に入ってて(自分で言うな)、よく書けてるな…と思っていて(自分で言うな)、たまに読み返したりしているのですが(自分で…もういい)、それはとりもなおさずそれだけこの芝居が私をおおきく揺さぶったからだろうと思う。ちょうどPCが壊れて修理に出しているときで、でも一刻も早く感想を書きたくて会社の帰りにネットカフェに寄って一気に書いた。そのときの、「熱い塊をのみこんだ後のような気持ち」を残しておきたくて。

今回、古舘さんの急病により急遽松井周さんが代役に立たれるということで、初演の古舘さんがすばらしかったので残念な気持ちもありつつ、松井さんの出演も楽しみにしていたんだけど、まず前説で岩井さんがいつものごとく出てこられて、「僕らレベルになると2日もあればかんぺきに台詞を入れられますが、今回はあえて松井さんに台本を持ちながら演じてもらいます」でまずどっとウケる観客。しかし、しかしです。実際に松井さんは台本を持ったまま演じていたのですが、これがめちゃくちゃ刺激的だったのです。まず和夫は「世界」に対して完ぺきな対応をしたい、それができるまでは家から出られないと思い、毎日出張おねえさんと「外に出たとき」のシュミレーションを繰り返している。その「想定される台本を何度も返す」行為がまさに「台本を持った立ち稽古」そのもので、その説得力がその後ずっと台本を持つ和夫に「意味」すら与えているような。

でもって、よく演劇の感想で「あんなに台詞を覚えられてすごいですね」っていうのを目にすることがあるんですけど、すごさは「台詞を覚える」ことではない、というのがこの松井さんの芝居を見ているとよくわかる。いやホント、いちど「みんな台本持ったまま芝居をする」って演劇を見てみたいと思うぐらいです。

初演では和夫の母親だったのが父親に代わっていたんですけど、あの「最後の方は人生らしくなっていたと思います」って台詞、聞きようによっては「外に出るまで」を「人生ではない」と言っているようにも思え、初演の時にすごくつらい台詞として記憶に残っているのですが、今回の再演で父親が重ねて言う、あんな表情をするなんて知らなかった…という述懐があることで、印象としてはかなり違ったものに感じました。

和夫や登美男たちと私たちに違うところがあるとすれば、世界のイレギュラーに対処する方法を正確に知らなくても、きのこたちの冒険を食べられるし、恥ずかしさで死んだりしないし、そんなに傷つかずに鈍感に生きていけるということを知っているってだけのような気がする。毎日外に出て、会社に行って、「シャカイジン」をやっていても、世界のイレギュラーに対処する方法を知っているわけじゃない。この扉を出て、まっすぐ、玄関から外へ出る、窓から落ちるのではなく、外に出る、それが繰り返せなくなるのは、和夫だけではないかもしれない、わたしかもしれないし、あなたかもしれないのだ。

でも、だからこそいつも「そんなの、これから知ればいいことでしょうが!だろ?」って言葉を世界のイレギュラーに対して言い放っていきたい。あのシーンがほんとうに好きだ。先、行ってまっせー!

登美男を吹越さんが演じた初演と比べ、岩井さんがやることでぐっと重さが増したというか、「地続き感」が強くなった感じがありました。もちろん初演もリアルではあったんだけど、それにも増して自分たちのこととして突きつけられるような何かがあった気がします。それにしても、急遽の代役をああいう形で成立させる岩井さんの演出家としての冴え、決断力にほとほと唸りました。公演中止となってもおかしくないところを、ひとつのアイデアで作品としてより魅力を発揮しちゃうなんて、数少ない遠征チャンスに賭けている地方民としては感謝しかない。よいものをみさせていただいた!という気持ちでいっぱいです。