「海をゆく者」

  • PARCO劇場 I列12番
  • 作 コナー・マクファーソン 演出 栗山民也

2009年日本初演、2014年再演。過去二演から吉田鋼太郎さんの演じた役が高橋克実さんにバトンタッチした以外は同じキャスト、同じ演出家での再々演。これはなかなかないケースでは。パルコ劇場の周年記念というタイミングも奏功したのかな。

初演再演ともに拝見しており、その二度とも心から満喫しましたが、今回は今回でまたなんと言いましょうか、あまりにも、あまりにも仕上がりきっており、その精密緻密な演技合戦に3時間ずっと「こんなにうまい芝居を集中的に浴びてしまっていいのか!?何らかの法に触れるのでは!?」と錯乱しそうになるほど極上の時間でした。いま日本で見られるかなり極北の「うまい芝居」だと思うので、年明けからの地方公演に行ける人はぜひ足を運んでもらいたいという気持ち。

第一幕はそれぞれキャストの出ハケもあり、物語のはじまりなので場が動くところがありますが、二幕はかなりの長い時間、ポーカーに興じる5人の会話だけで進行していくわけで、このポーカーの場面での5人の芝居がねえ、んもう、うめえなんてもんじゃねえのよ。紙幣がテーブルの下に落ちたり、カードが落ちたりといったアクシデントも、「本当にいまここで5人がポーカーをやっている」としか思えない流麗さで処理される一方、決めるべきときに決めるべき人がガーン!と押し出してくるその外連味。

あまりのうまさに戯曲がどうなっているか知りたすぎて、思わず「悲劇喜劇」を買ってしまったし、もうパンフを買うのも長いことやめているのに今回は買ってしまったものね…古希目前のおじさん俳優たちの威力マジでおそろしいよ…。

私は以前この芝居を見たときに、この舞台のロックハートについてこう書いている。

悪魔であるというかれは、もうほとんどダメになりかけていたシャーキーの元に現れ、その人生を欲しいと迫り、それによってシャーキーにとっての自分の人生のいとおしさを甦らせる存在であっただろうとおもうのだ。そのいとおしさをシャーキーはずっと持っているわけではないだろう。いつかそんなことをも忘れてしまうだろう。ただそれでも、あの瞬間に感じた人生へのいとおしさがウソだというわけではない。

三演目となる今回も、やっぱり同じことを思ったわけだが、実はこの「その人生を欲しいと迫り」というのは第三舞台の「ビー・ヒア・ナウ」に出てくる台詞なんですね。でもって、そういう存在のことを「他人の人生を生き生きとさせるのに必要で、それでいてなんの実体も持つことができない」と評されているんだけど、そう考えるとラストのロックハートの「私が欲しいのはただひとつ、皆さんにあって私にないものだ」って台詞の哀しさがいっそう浮かび上がってくるように思えるんです。

吉田鋼太郎さんから高橋克実さんに替わったリチャード、克実さんがやると最後のシャーキーへの言葉と贈り物が不器用ながらも弟への情愛を深く感じさせてとてもよかった。大谷さんのニッキーの陽気さ、平田さんシャーキーはもちろん言うことなし、浅野さんアイヴァンの芝居の緻密さよ!そして小日向ロックハート…これ戯曲で読むとロックハートはニッキーより大柄で裕福なビジネスマンとト書きで描写されているから、そういう意味では小日向さんよりも恰幅のよい風体が想定されているようなんですが、いやもうまずロックハートを初演時に小日向さんにキャスティングしたプロデューサーが偉すぎると私は声を大にして言いたい。あまりにもはまり役じゃないですか!?仕草の優美さ、声の良さ、冷徹さを匂わせる佇まい、「ひとならざるもの」をあんなにも魅力的に出現させるの本当の本当にすごすぎる。好きしかない。あの「私がシャーキーをやっつけてやる」「絶対だろうな?」「絶対に絶対。」ってもう、永遠に聴いてたいもんね。

読み甲斐のある脚本、王道の演出、なによりキャスト5人の手練手管の見事さにより、愉悦としか言いようのない3時間でした。素晴らしかった。これぞまさしく、最高傑作の呼び声にふさわしい一本!