「異人たち」


山田太一の小説「異人たちとの夏」を原作を、アンドリュー・ヘイの脚本・監督によってイギリスで映画化。アメリカでは昨年暮れに公開されていて、むちゃくちゃ好きそうな題材や…!と思い日本公開を待ち望んでおりました。原題が「All of Us Strangers」なの、すごくイイ。

話の骨格としては原作や大林宣彦監督による映画と変わらず、脚本家である男がある時幼いころに住んでいた街を訪ねると、そこに12歳のときに死んだはずの両親が暮らしており、彼らのもとに足繁く通うようになる。同時に、同じタワーマンションに住んでいる男性とふとしたことをきっかけに交流を深め…というあらすじ。

主人公であるアダムをアンドリュー・スコットが演じており、彼はゲイで、その暮らしぶりからも日々を淡々と孤独に暮らしている様子がうかがえます。昔住んでいた家の写真を見つけ、ふとそこを訪れてみようと思うアダム。子供のころ暮らした街を歩き、雑木林をくぐって草原を出ると…そこには父親がいて、彼を手招きする。この「なにかをくぐって」向こう側にいく、というものの持つ意味ってわりと世界共通のイメージなんだなあ。

12歳の時に事故で死んだはずの両親は、過去の両親ではなく、アダムを大人として迎え入れ、抱擁し、受けいれるわけですが、母親とはアダムがゲイであるというカミングアウトについて話し、父親とはつらかった子供時代のわだかまりについて語り、そして楽しかった思い出の象徴であるクリスマスの飾りつけをやり直し、両親の間にはさまって川の字で眠りにつく…。私は父と子の「取り戻せない後悔」みたいなやつに超よわいので、父親がアダムに「部屋で泣いていたお前を助けなくて悪かった」って言ったところ(つまりそれはアダムが父にそれを言って欲しかったと思ってるってことですからー!)でやばいぐらい泣いたし、そのあとの母親とベッドの中で向かい合って話すところ…あそこマジで、アンドリュー・スコットクレア・フォイがこのシーンを泣かずにやってるってだけで凄まじいと思ってしまうぐらいあれだった。泣きすぎて頭痛かったもん。

異人たちとの夏」の展開を知っているので、ハリーはそういうことなんだろうな、と思いながら見ていたんですけども、思った以上に容赦ない展開にも関わらず、「向こう側」の父と母によって過去の傷と向かい合ったアダムが今度はハリーを受け入れて終わるエンディング、何とも言えない気持ちになりましたね。

父親役がジェイミー・ベルだったんですけど、アンスコさんより全然年下でもちゃんと親子の間柄に見えてくる二人の演技力の確かさよ。大好き。ペットショップボーイズのAlways on my mindが流れるシーンもむちゃくちゃよかったなあ。そうそう、かなり濃厚なベッドシーンがあるのでR15指定になっております!

「鴨川ホルモー、ワンスモア」

万城目学さんのベストセラー「鴨川ホルモー」とスピンオフの「ホルモー六景」をヨーロッパ企画上田誠さん脚本・演出で舞台化。このメンツ、むちゃくちゃ京都!京都要素の濃さ!せっかくなら関西公演は京都であってほしかったぐらい!

原作未読ですが、実にコンパクトに、かつそれぞれのキャラを立たせた群像劇になっていて、さすが上田誠さんだなあとまず感心。「オニ」を使って戦う「ホルモー」という競技に青春を費やす若者たち…って、そもそも「ホルモー」が何かイメージつかむのが難しい(これは原作読んでても同じかも、何しろ実在しない競技だから)けど、演劇って意外とこういう「ないものをあるように見せる」ものと相性いいよね。

やっていることは陰陽師の末端の末端のようなことながら、それでも大学生、恋に落ちるし敗れるし、引きこもってすねちゃうし、大人になったらなんであんなことが恥ずかしかったんだ?って思うことが死ぬほど恥ずかしい、そんな青春も同時にそこにあるっていうのがキャストのフレッシュさもあいまって実によく舞台に現れていたなと思います。最初はぜんぜん意味が通らなかった冒頭の土手での彼らの会話が、ラストにもう一度繰り返され、「ホルモーってなんなのか…少しはお分かりいただけたのではないかと思う」と締めるところ、おしゃれすぎて唸っちゃったよ。

京大立命館京産大龍谷大とくれば関西人なら「あれ同志社は?」となるところですがちゃんと同志社の役割も振られてて納得だったなー。あの各キャンパスあるあるみたいなネタは絶対関西の方がウケてたんじゃないかと。

拝見したのが意図せず大千穐楽で、カーテンコールに全キャストの一言挨拶があったんですが、こうしてみるとかなり幅広い年齢層のキャストだったんだな~と思ったし、にも関わらずちゃんと皆舞台のうえでは「京都なら存在していてもおかしくない不思議大学生」に見えていたんだなと改めて思いました。かもめんたる岩崎う大さん、連続して上田誠作品でお見掛けしていますが、独特の声とトーンがあって役者としてすげえ武器だなと見るたび感心しております。

「シカゴ」

マシュー・モリソンがビリー・フリン役で来日という広告がtwitterで出てて、おお~ちょっと興味そそられるな、シカゴなら字幕追わなくてもわかるし見てみよっかな、とチケット確保。字幕見なくても大丈夫なのは私がロブ・マーシャルが監督した映画版「シカゴ」を偏愛しているからです。大好きなんだあの映画…つーかもう22年前ってマジかよ…。

来日キャストでの「シカゴ」は過去に一度観たことがあって、その時も映画版は前半の方が盛り上がるナンバーが多いけど、舞台は第二幕に比重が置かれているし楽曲の印象も結構変わるなと思ったんですよね。今回も、ビリーのRazzle Dazzleのクライマックス感がすごい。むちゃくちゃ皮肉めいた内容なのにあの煌びやかさ、圧倒的フィナーレ感。

ClassやNowadaysもそうだけど、このミュージカルは全体をシニカルなトーンが覆っていて、そこが私のツボなんですよね。そこにボブ・フォッシーのあのセクシーな振付が加わるって、もう私の好きなものしか乗ってない丼もかくやですよ。思えば、あの裁判での無罪判決から一気に聴衆がロキシーへの興味を失うところとか、「野田版研辰の討たれ」をちょっと彷彿とさせる部分がありますね。でもって、この聴衆の耳目を集める、ということに汲々とするという病そのものが、現在でもまだ、というかより一層激化しているのが皮肉といえば皮肉すぎる。

派手なナンバーではないけれど、エイモスのMister Cellophaneとかむちゃくちゃ好きなんだよなあ。あとはなんといってもCell Block Tangoっすよね!ほんとこの楽曲、歌詞も振付も何もかも最高。

しかし改めて見てみると、ミュージカルにしてはキャストも最小限、セットもミニマムでダンスに使う椅子だけが主な小道具って、むちゃくちゃコストパフォーマンスが良いし、ツアーに回るのにもってこいの作品なんだな~と。それでもちゃんとゴージャスさは失われていないのが作品の底力って感じですね。

「リア王」

段田さんがタイトルロールを演じるということで、段田さんのリア王ならちょっと見てみたいかな~と思い足を運んできました。例によってあまりキャストを把握しないまま観て「あれっこの人も出てるの!?この人も!?めちゃ豪華じゃん!」と客席で気がつくパターン。いやほんとに豪華なキャストだったな。

いわゆるクラシックな衣装やセットではなく、ほとんど素舞台に簡素なセット、衣装も現代的、ただし脚本はそのまま。こうした演出ならではの効果があったかというとちと微妙なところではあったかも。衣装を現代的にすることによって「今」とのリンクがもう少し見えてくると違った味わいがあったかもだが。

ゴネリルとリーガンが江口のりこ田畑智子とハマりすぎたキャスティングで、父王を追い出すあたりの悪辣さはドンピシャではまってましたね。リア王を見るたびにこれいちばんしどころのある役ってエドマンドじゃないかと思うんですが、今回エドマンドを玉置玲央さんがやっていて、二枚舌のエドマンドを生き生きと出現させていてとてもよかったです。

あと個人的に今回の舞台の白眉は段田さんと浅野さんという元遊眠社コンビが、リアとグロスターとして共演していること。あの「人は皆泣きながらこの世に生まれてくる、阿呆ばかりの世界に引き出されたのが悲しくてな」という名場面中の名場面、リアが盲目となったグロスターの肩を抱き、傘をさしかけて語り掛けるあの場面が見られただけでもう満点だよー!となりました。

ところで、このところ立て続けにSkyシアターMBSにお邪魔しておりますが、今回は前方段差なしフラットなE列でしかもほぼど真ん中という席でした。結論から言うと、舞台ツラでの芝居はむちゃくちゃ迫力をもって楽しめるが、フラットな舞台で椅子に座るとか屈むとかされると角度によっては完全に前の座席の頭とかぶり視界から消えるという感じ。途中「ゴネリルどこー!声はすれども姿は見えず」みたいなところもあったり。高さのあるセットであれば気にならないと思いますが、この劇場で舞台全体を楽しみたいと思ったら中盤からやや後方のほうが吉かもしれません。

「アイアンクロー」


ネットで見かけた感想で「ザック・エフロンの演技がすばらしい」との評を見て、おっじゃあ見てみたいなと思って足を運んできました。プロレスはまったく未知の世界でモデルとなったフォン・エリック一家のこともガチでミリしら状態。監督はショーン・ダーキン

必殺技「アイアン・クロー」の開祖であり、プロレスでの世界チャンピオンをかつて夢見た父と、その息子たち。何をするにも「男子たるもの」という言葉が前置きされそうな家庭において、それでも家族と兄弟を愛していたケビンであったが、その思いとは裏腹に一家は想像を絶する過酷な運命に翻弄されることになる。

トキシック・マスキュリニティという言葉はこの時代、まだ一般的でなかっただろうし、たとえ一般的であったとしても、その言葉を一家の長である父は受け入れなかっただろうと思わせる、家父長制ど真ん中の父親の圧がすごすぎる。かなり冒頭の、朝食を食べながら4兄弟について「期待値の順」を意気揚々と話すさまにのっけからうへえ、となってしまった。映画は次男(実質長男)のケビンの視点から描かれるんだけど、苦しいのは彼はこの家族を愛してたってことなんですよね。父も母も愛してたし、兄弟を愛してた。たとえ兄弟同士で競わせるような親であっても、期待にそぐわなければ切り捨てるような親であっても、そして真のSOSを見逃して、「兄弟同士で解決しろ」と問題に向き合おうとしない親であっても。

あの父親はあれが愛だと思っていたのかなあ。思っていたんだろうなあ。足を切断する怪我を負い、それでもなおリングにカムバックした息子にさえ、「もう休んでいい」とは言わず、昏睡状態から戻ってきた息子にさえ、「いつ戻るか」しか言わせなかったとしても、それが男親の愛情たるものと信じてたんだろうな。子供と自分は違う人間で、違う人生があり、父の夢のために生きているわけではないということを、真にはわかっていなかったんだろうな。

見ていて思ったのは、ケビンが恋人のパムと初めてのセックスに及ぶ場面。積極的なパムにケビンは「経験があるのか?」と聞き、パムは思わず気色ばむが(そりゃそう)、そこでケビンが素直に自分は初めてだと告白する。あそこが彼の命のターニングポイントだったんじゃないか。あそこで経験がある振りをするでなく、パムをさげすむポーズをとるでなく、ただ自分が「強い男」の土俵から降りられるひとを見つけたことが、ケビンが生き延びられた理由のように思えてならない。

それにしても、兄弟のすべてを不慮の死で亡くしてしまうとは、想像を絶する。なんとなく一家に悲劇が襲い掛かる展開を予想していても、それにしたってあまりにもあまりすぎた。ケリーの亡骸を運び入れて、そこでケビンが思い描く、「むこう」岸での兄弟の再会はあまりにも痛切。アランのバンドのライヴをめぐるエピソードとか、兄弟たちは決して力弱い弟を馬鹿にしたり切り捨てたりせず、弟として愛を注いでいたことがわかるだけに辛い。でも、だからこそ、ラストシーンの子供たちとの会話に、失ってしまったものはもう戻ってこないけれど、それでもつながる何かがあると示してもらえたようで、たまんなかったですね。思えば、ケビンの「泣き顔」はあのラストシーンだけなのだ。男は涙を見せるななんてほんとクソだ。でもケビンはちゃんと息子に「いいじゃない、みんな泣いてるよ」って言ってもらえる。そういう家族を作ってきたから。呪縛を解くのは自分自身にしかできないことなんだってことをしみじみ考えちゃいますね。

ザック・エフロンすばらしかったね。各演技賞にノミネートされてないのが意外なくらい。キャストみんなよかったなあ、お母さん役の人、どこかで見た…と気になってたんだけど、とあるシーンで「ERのアビー・ロックハートじゃん!」と思い出してスッキリ。いやー精神的にキツイ部分もあれど、良い映画でした!

「メディア/イアソン」

世田谷パブリックシアターのプロデュース公演。東京公演をご覧になった方の評判がなかなかよかったので足を運んでみました。上演時間2時間だというし!(短い芝居だいすき)

ギリシア悲劇の「メディア」の上演というよりも、ギリシア神話で描かれる「アルゴー船の冒険」にはじまるイアソンとメディアの出会い、爆発的に燃え上がる愛情と、その裏返しのメディアの激情のさま、そして有名なイアソンの裏切りからの悲劇までを実にコンパクトにまとめていたと思います。私は幼少期に山室静氏の「ギリシア神話」の本を文字通り舐めるように読んでいたので、メディアの物語よりイアソンの金羊毛を求めた冒険の顛末のほうが馴染み深いぐらいなので、こうした再構成は大歓迎。

その幼少期の記憶で一番印象に残っているのが、コルキスからの脱出の際、メディアが追っ手から逃れるために船に乗っていた弟を殺害し、その亡骸を切り刻んで海にばら撒き、追手がそれをかき集める間に脱出した…というエピソード。今回の芝居でも取り上げられてましたね。強烈過ぎだし、そんなものを幼少期に読むなという感じですが、このときにイアソンはメディアのあまりにも苛烈な性格にすでに引いてるんですよ。そんなこんながあってのコリントスでのイアソンの裏切りにつながるわけで、メディアの悲劇は単に糟糠の妻を捨てたみたいな話じゃないんですよね。今回の上演だとその二人の燃え上がり方の早さと、それゆえのしっぺ返しという因果応報がうまく掬い取られて面白かったです。

タイトルロールのイアソンを井上芳雄さん、メディアを南沢奈央さんが演じていますが、総キャストがなんと5人のみというコンパクトな座組なのも、よかった。全員がくるくるとよく動き、多様な場面をしっかり成立させていて、スピード感のある脚本とマッチしていたと思います。あとねー、舞台美術がめちゃくちゃよかった!!!スタッフ調べたら伊藤雅子さんという方だった。船や風景が影絵のように浮かび上がるだけでなく、組み合わせでどんどん表情を変えていくのもよかったなーー。ギリシア悲劇というと重厚!みたいな雰囲気に偏りがちだけど、脚本も演出もどこか童話の世界というか紙芝居のような軽やかさがあって、それはこの美術の残す印象が大きく作用していたと思います。

「骨と軽蔑」

ケラさんの過去作品を他の演出家が手がけるKERACROSSのシリーズ最終作はケラさん自らが新作書下ろしを演出するという、KERACROSSのコンセプトとひとつも合ってないのが面白い。いや観客としてはいい作品いい座組が観られればシリーズのコンセプトなんてうっちゃってもらってぜんぜんかまいません。

しかも今回はキャストが全員女性、かつ花も実もある実力者揃踏みという豪華さ!とくにケラさんはオールフィメールの舞台での実績がありすぎますからね。フローズン・ビーチは言わずもがな、「すべての犬は天国へ行く」は個人的にケラさんベストワークスですもん。

物書きの姉マーゴ、その妹ドミーとマーゴに入れ込む読者のナッツ、マーゴたちの母グルカと病床にある夫の私設秘書ソフィー、一家の使用人ネネとマーゴの担当編集者ミロンガ。物語の前半は、いなくなったマーゴの婚約者をめぐる姉妹のさや当てというか、妹の姉に対する反抗心と、病床の夫が秘書にいいように操られていることに不安と不満を隠さないアル中の母と一家の不穏な空気に物語の中心がある。それがナッツの登場とともに物語に若干のファンタジー要素が加わっていき、二幕はその「ファンタジーによる一発逆転」後の世界で進行していくが…という感じ。

背後に常に戦争の気配があり、こうした家の中での些末とも言える人間のいさかい、やっかみ、そういったものとは無関係に世界はどんどん悪くなっていくという世界観はケラさんが得意とするところですよね。

マーゴとドミーはマーゴの婚約者をめぐって争うようでありながら、その手紙がナッツの手によるものだという残酷な真実からマーゴがドミーを守ろうとするところ、こういうのがケラさんのうまいとこー!ってしびれちゃったね。あと私は常に優しく穏やかなふうなネネが、実のところ作中でもっともピュアに人に対する悪意を、それも悪意としてではなく善意として行動しているのが(そしてそれに対する深い理由も語られないのが)むちゃ怖かったし、それを淡々と飄々と演じるイヌコさんやっぱさすがだな~と思いながら観ていました。

りえちゃんマーゴのカッコよさもさりながら、ああいうエキセントリックな役をやらせても輝く鈴木杏ちゃんの腕の確かさもよかったなあ。小池栄子さんのナッツははまり役ではあるんだけど、小池栄子大好き人間からするともう一声えぐみのある役柄でも見てみたかった感はあり。ともあれ7人のキャスト、スーパーセブンの呼び声も納得のキャスト陣で実に見ごたえがありました!