君ノ声

bridgeで中村一義のインタビューを読む。

こっそりと、というわけでもないのだが、中村一義は私がアルバムをコンプリートしている本当に数少ないアーティストのうちのひとりで、それを言うとあれ、なんだか意外ね、という顔をされることもすくなくない。確かに私のすきな音楽、「バンド」というものから良くも悪くも自由になりきれない音楽を好んで聴く私の音楽の狭い範疇からは、彼の音楽はすこしはずれているのかもしれないとおもう。

もう10年近くまえになるが、私がその当時かなり真剣に心を寄せていた男性は、かなりコアなの音楽ファンだった。ロッキンオンJAPANを創刊号から買い揃え、決してCDをレンタルせず、まだ衆目の知るところでないアーティストに愛を注ぐことに血道をあげ、心底から佐野元春を尊敬していた。それと同時に、慢性的な持病を持っていたかれはどこか「人生を半分投げた」ようなところがあった。皮肉屋で、クールで、自分は40才になるまえに死ぬだろう、と当たり前のように言っていた。こうやって書き連ねていてもなんだか恥ずかしくなるばかりだが、わたしはこの子供なのか大人なのかわからないひとのことを、かなり真剣に好きだったようにおもう。

かれはどんなものであれ、「お涙頂戴」的なもの一切を蛇蝎のごとく忌み嫌っていて、そういった手に乗ってやすやすと「感動しちゃう」女の子たちのことを冷めきった視線で語ることが何度かあった。平素はふんふんとその話を聴いていたのだけど、あるときふと切り返してみたくなった。じゃあさ、感動とかそういうのばかばかしいっていうけどさ、自分はどうなの?あんなにいっぱいCD買ったりライブに行ったりしてさあ、感動とかしないの?それって楽しいの?

感動するのと、感動させようとしてるものに乗っかることはちがうだろ、とか何とかそのひとは言ったような気がする。でもわたしが反論しようとするまえに、彼はこう付け加えたのだった。

そりゃCD聴いて、思わず涙が出たりってことはあるさ。中村一義のアルバムとかさ。

えっ、とわたしは声を出さずにかなり深く衝撃をうけた。この人、中村一義のアルバムを聴いて泣いたりするのか。想像できなかった。その頃、中村一義は「ERA」という3枚目のアルバムをリリースしたばかりだった。JAPANやbridgeの誌上では、繰り返し繰り返し彼の特集が組まれ、まるで世界を中村一義がすっかり塗り替えてしまうのだとでもいうようなテンションでそのすばらしさが語られていた。わたしは翌日、そのERAというアルバムを買い、そうして繰り返し何度も聴いた。この中のなにが、彼のこころを「すっかりおさえて」いるのだろうと思いながら聴いた。何度も何度も、何度も何度も。あんなにも、そこには語られていない何かを探しながらひとつのアルバムを聴き続けるなんてことは、おそらくもうないだろうと思う。歌詞カードはまったく見なかった。開くことは開いたが、非常に特徴的な中村一義の、文字で見る詞のリズムに慣れることが出来なかった。だがアルバムは不思議と飽きなかった。あんなにも繰り返し聴いたから、一緒に口ずさむことは出来るのだけど、その歌詞の正確なフレーズは実はほとんどわかっていないのかもしれない。

結果的に、わたしはその後も中村一義の音楽につきあい続けることになった。中村一義が初めてツアーを行った「博愛博」の大阪BIGCATでのライブは、今思えばわたしにとってライブハウスというものを初経験した日だった。そして、THE YELLOW MONKEY休止後に、わたしが初めて行ったライブでもあったのだった。

奇妙な明るい声をもつこの歌い手に、なぜあのひとがあんなにも思い入れていたのか、正解はもちろんわかっていない。その後中村一義100sというバンドで活動するようになった。わたしはいまだに律儀にアルバムを買い続けていて、その理由も自分ではよくわかっていない。ただ「金字塔」というアルバムにおさめられた「永遠なるもの」という曲は何度聴いてもこころに響くものがあるし、自分の両の腕のことを「平行線の二本だが 手を振るくらいは」と歌う声は、これ以上の表現はないんじゃないかと思うぐらい、わたしの頭にしみこんでいる。

bridgeで読む100sとしてではなく、「中村一義」としてのインタビューで、「中村一義が戻ってきた」と彼自身が語っていて、100sとしてのアルバムではあるが、渋谷陽一が歌詞の一部を読み上げながら問いかけていくインタビューは、なんだかタイムスリップしたようにも感じられて懐かしかった。
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わたしに中村一義の歌と声を教えてくれたひとは、別の女性と結婚し、今年で39才になるが、今はもう、40才で死ぬ自分のことを語ることはしなくなった。