高津宵宮の長町裏で

一報を目にした時に思ったのは、とうとう、きたかということだった。ようやく、というよりも、とうとう、この日が来た、という感慨がわたしの中で強かった。

わたしの2000年代の観劇の中心にあったのは、まちがいなく「夏祭浪花鑑」であったと思う。

2002年に行われた大阪扇町公園での平成中村座でこの芝居を見てから、勘三郎さんが勘九郎時代もふくめて演じた「団七」で見逃したのはルーマニアのシビウで上演されたものだけだ。大阪、東京、松本、そしてニューヨーク。この間にわたし自身も3度転居し、でもどこに住んでいても、必ずこの芝居を見るために足を運んだ。

2011年3月の博多座で、勘三郎さんはこの「夏祭浪花鑑」をかける予定であったが、体調不良により出演を見合わせた。当時まだ勘太郎であった当代の勘九郎さんが、代役で団七をつとめることになった。もちろん、初役だ。

私がこの博多座での「夏祭」を観たのは、3月12日である。

当時は名古屋に住んでいた。新幹線ははたして動くのか、動いたとして、行くのか、そういう逡巡も確かにあった。が、結果的に東海道新幹線は運行し、私はそれに乗って福岡まで出かけた。

休憩時間に携帯電話を見ると、ツイッターには「福島の原発」の文字が飛び交っていた。その一方で、わたしは自分の好きな役者が、自分が最も思い入れる作品で、いつかはかれもこの役をやるときがくるのだろうか、と思い描いていたその役をつとめる姿を最前列で食い入るように見ていた。
自分のいる場所がどこか歪んで見えてくるようだった。自分のいる世界がよくわからなくなった。

あのときの勘九郎さんはやせていた。のぞく手首の細さが、異様に目に焼き付いている。ただでさえ、御父上の代わりに舞台に立つプレッシャーがあったと思うが、そこに震災という出来事が重なり、あのほそい背中にどれだけのものを背負わねばならなかったのかと、改めて思う。当然だが、あれほど空席の多い「夏祭浪花鑑」は、あとにもさきにも経験したことがない。

あれから10年である。

とうとう、そういう気持ちになったのか、と思う。とうとう、またふたたび、あの荷を背負ってもいいと思えるようになったのか、と。

無事に舞台の幕が開く、ということそのものが、奇跡のようなものだということは10年前にも思ったはずだけれど、今また改めて強くそのことを思う。そういう時代に演じられるのも、この作品の持つ引力なのかもしれない。

楽しみにしています。もういちど、あなたの団七に会えることを。