「障子の国のティンカーベル」

多分この戯曲を読んだのは高校時代の演劇部の部室だったと思う。

野田秀樹シンドローム

野田秀樹シンドローム

読んだときは、まったくつかみどころがないというのか、わけがわからないというのか、いやこれに限らず、野田さんの戯曲は本で読んでも「わからない」ことのほうが多い。それが舞台にかけるとまったく違うものに見えてくるからすごいのだが、野田さん自身は演出したことがないというこの戯曲、書かれたのは1981年。

拝見したのは、毬谷友子さんのバージョンです。野田さんの世界をよく理解している演出家と女優の組み合わせであるということもあるのかもしれませんが、野田さんが演出したわけでもないのに、野田演出の「手触り」のようなものが随所にあったなあと思いますし、それがとても心地よかった。そして自分でも一番驚いたのは、もう20年以上前、はじめて夢の遊眠社野田秀樹というひとに触れたときの感覚に近いようなものを味わえたことでした。

人が見ている夢のような舞台、時空は跳び、場面は激しく入れ替わり、台詞に飲み込まれる、ついていくのがやっと、いやついていけてないことの方が多かったかもしれないのに、見ているうちになぜかどうにも名前のつけようのない感情におそわれて感極まる、という、あの感じ。

そして何より、1981年に書かれた、ご本人曰く「若いし粗い」というこの戯曲に詰め込まれた「野田秀樹エッセンス」というようなものの濃縮還元度合いにちょっとくらくらしました。少年性の喪失は「ゼンダ城」に、人でなしは「野獣降臨」や「半神」に、母性への回帰は「小指の思い出」に、そのエッセンスがそれぞれその後の作品で大きく開花したような気さえしてきます。

30年以上前に読んだ戯曲ですが、ピーターとティンクが逃避行の果てに見る夢、その夢のあとの「竜だと思っていたものはただのガスホースで…」という台詞、あれは鮮明に覚えていた。飛べるという自信があった少年が、飛べないという自信だけはある少年に、いや、もはや少年でいられないものになっていく。

そしてこのシーンでの、毬谷友子さんの圧倒的な「正解」感がすごい。戯曲の求める芝居を文字通り体現していて素晴らしかった。いやこのシーンだけでなく、この戯曲に惚れ込み、7年の歳月をかけて上演にこぎつけたその情熱が舞台の上の毬谷さんからほの見えるようでした。マーラーのアダージェットなんて、ド級にベタな選曲なのに、あの影絵のシーンでわけのわからない感情に突き動かされてしまったものなあ。

1時間35分の上演時間ですが、短いとかコンパクトとかいうよりも、ずっしりとした感覚が観劇後にあって、濃密な時間だったなーとしみじみ思いました。そうそう、劇中音楽に椎名林檎さんが協力していて、あくまでもスペシャルサンクスとしてのクレジットではあるけど、そこもっと推してもいいんじゃね…?欲なさすぎ!と思ったり思わなかったり。

劇中でティンクの持っている小道具の分厚い本、表紙がちらっと見えたんだけど「定本・野田秀樹夢の遊眠社」でしたね。思わず顔がにやけてしまったよ!