「子午線の祀り」

  • 厚生年金芸術ホール  J列17番
  • 作 木下順二  演出 観世榮夫

平家物語の一ノ谷から壇ノ浦までを題材に、平家方知盛、源氏方義経を中心に描いた戯曲。79年に初演されてから四半世紀の間に渡って手を変え品を変え上演され続けているというもので「現代演劇の最高峰」と言われているそうだ。なるほろ。

睡眠不足プラスかぜっぴきというかなりデンジャラスな状態であったためヤバイかな、と思いましたが意外と大丈夫でした。昔山本安英の会での公演を観たときも寝た記憶はないから多分もともとこういう話が好きなんだろうと思う。冒頭の詩の朗読(詩じゃないのかもしれないが、個人的にあの文章には詩の美しさを感じる)は素舞台に読み手が現れてやるかたちでした。本当にうっとりするほど美しい文章だわあ。

前半にすこし長さを感じるシーンが多いのだが、その前半を萬斎さんとともに引っ張る阿波民部役の木場勝巳さんが素晴らしくなんとも引き込まれる。萬斎さんは群読や地の文を読むときの浸透力がすごい。さすがだ。立ち居振る舞いの美しさも素晴らしくて見惚れます。個人的には木場さんに物語的求心力を、萬斎さんが様式的求心力をそれぞれ持っていていいバランスだったかなと思いました。源氏方に話が移ると、もともと義経の話が好きというのもあってこちらも面白く。義経の嵐さんが最初ちょっと拒否反応だったのだが見ているうちに気にならなくなってきた。弁慶・伊勢三郎佐藤忠信なんかはいいバランス。義経の話はどうやってもその後に待つ悲劇が頭に入っているだけに、あの「ただ平家を討ち滅ぼすことのみに専心する」という覚悟がまた切ないのですなあ。

「そうなるはずのことだったように思われる」と知盛が何度も口にするように、大きな運命の輪の中で葛藤する人間たちというのは面白い見方だなあと思った。知盛は心の奥底でどこか「諦め」みたいなものがあって、それが一ノ谷での敗戦以降の彼を支配しているようなのだけど、骨抜きになった平家方の中でただひとり気を吐く阿波民部が、最後の最後壇ノ浦で御座船がおとりであることを白状してしまうくだり、冒頭の自分の馬を射殺すなと言いながらその己の言葉に愕然とする知盛と重なって、運命というものに翻弄される人間の切なさが感じられる非常に印象的なシーンだった。

芝居と直接関係ないのだが阿波民部が固執する三種の神器、勾玉と剣が二位尼によって海に沈んだあとどうなったのか気になったのでいろいろ調べてみたらこちらもかなり面白かった。勾玉は軽いので結局浮かんできたそうだが、剣はついに見つからなかったらしい。しかし、もともと勾玉以外は卑近な言い方をすれば「オリジナル」ではななくて「レプリカ」なんだそうである。鏡のオリジナルは伊勢神宮に、剣のオリジナルは熱田神宮にある(と言われている)のですな。でもって安徳天皇とともに沈んでしまった剣のあと、ちゃんと代わりの神剣がその後用意されたらしい。そう考えると「天皇などは勝手に捻り出す泥人形のごとき、しかし三種の神器は二度と作られることのない代え難いもの」と力説していた阿波民部の言葉もまたなんと皮肉なという感じがしてくるではないか。

舞台の終盤、壇上で平家方源氏方の合戦が群読で表現されるのだけども、なんとも言えず迫力に満ち、かつ平家物語の文章の美しさ、そのリズムに思わずうっとりであった。かっこいい。合戦の最中に読み手が「月の運行」を差し挟むのもすごく好きだ。この舞台、人に強くお勧めする感じではないのだが、個人的には題材の切り取り方がうまくツボにはまったなーという感じでした。しかし、観客の平均年齢の高さがすごかったな。でもって見事に携帯電話がなりやがりました。開演前ボードを持って係員がしつこくしつこく案内していたので逆に「鳴る率が高いんだろうな」と思ったら案の定だった。おそらく私の前の前の列あたりの女性だったと思うが、思わず靴を投げて後頭部を直撃してやりたい衝動に駆られてしまいましたです(だっていつまでたっても切らないんだもの)。携帯電話の電源の切り方を知らないなら劇場に来るな、とは言わん。携帯を持つな。以上。