「コリオレイナス」

コリオレイナス。タイトルを聞いても、不勉強な私はシェイクスピアの作品とはまったく存じ上げませんで、ギリシャ悲劇かなんかですか、と思っていたテイタラク。うーん、勝村さんは見たいけど、と思いつつまあいいや、今回はスルーで、ちょっと苦手そうだし、と最初はチケット取っていなかった。ところが初日の幕が開いてからの評判にぐらぐらと心動かされ、タイミング良く翌週も東京に出かけていくことになったので慌ててチケットを押さえた次第。
いやー、行って良かった。
初めてのさいたま芸術劇場。劇場の大きさも間口もジャストフィットな感じで、大ホールとはいえ大きすぎず好感の持てる劇場だった。F列で見たんだけど、すごく見やすいし。

ストーリーを知らずに見た、というのも今回はプラスに働いたかも。純粋に物語の展開としても楽しめた部分が大きかった。今まで見た有名なシェイクスピア作品は、シェイクスピアに明るくないわたしでさえも話の筋は知っている、というものが多かったので、「どうなるか」ではなく「どうやるか」に視点があったというか。

コリオレイナスは軍人として有能であり、命を賭けて祖国のために戦う勇気があり、かつそのことを言い立てて自分を身の丈よりも大きく見せることを何より嫌う高潔さをも持ち合わせている。が、同時にそうはできない一般大衆の弱さ、人間の脆さを認めることができない。人間は誰でもこうあるべきだ、という頑なな信念とでもいうべきものにコリオレイナスは突き動かされている。

「こうあるべきだ」という信念がついに揺らぎ、自分の中の弱さに触れたときに、彼に最後の鉄槌が下される、という展開が、なんとも切ない。

大衆は愚かでもあるかもしれないが、同時にもっとも強大な存在に描かれており、なんとなく黒澤明の「七人の侍」を思い出したりした。コリオレイナスはローマで民衆たちに追い立てられ宿敵であったヴォルサイに向かうが、それはローマへの復讐心ばかりではなく、強いもの、勇気あるものが死力を尽くす戦場でのある種の純粋さが、追従と吹聴と噂と扇動に満ちた言葉の数々にまみれた身には懐かしく思われたからかもしれないなあ、と思ったりした。だが結局は、彼は黒い民衆からも白い民衆からも最後には弾劾を受ける。このシーンでコリオレイナスがあげる乾いた笑いがなんとも印象的だった。

高慢で鼻持ちならないが高潔かつ純粋であるコリオレイナスを唐沢さんが好演。「マクベス」でも拝見したが、この役の方が断然ハマっていたなあと思う。私は見ながらかなりコリオレイナスに肩入れしてしまっていたが、それは唐沢さんの魅力によるところが大きい。この役はやる人によって相当印象が変わるだろうなあと思った。権力欲むき出しなタイプの人がやったら、それこそ護民官の方に肩入れしてしまうかもしれないし。白石さんのヴォラムニア、あの説得で落ちない人間はいないだろ・・・とでもいうような圧倒的パワー。吉田鋼太郎さんのメニーニアス、親友として出向いていきコリオレイナスに追い返されるシーンが素晴らしかったです。

そして個人的には何よりも勝村さんのオーフィディアスにしてやられてしまったわけで。いやあ・・・夢のような3時間だった、って勝村さん正味1時間ぐらいだけど出てるの。格好いいし声はいいし、オーフィディアスというキャラクターに説得力を持たせることに完全に成功してるし、あの「聞くな、諸卿!」のとことか、鳥肌ものでしたもの。ヴォラムニアに縋るコリオレイナスを見ているときのあの冷ややかな視線、部下たちの心配に冷笑を浮かべながら答えるときの仕草、そして最後の圧倒的な迫力。

これは戯曲の書き方がそうなっているのかよくわからないんですが、勝村さん、台詞を言うときのブレスの位置を、長い台詞ではあえて接続詞のあとにしていた気がしたんだよね。普通は「かれにはこういう気性があった、そのためにローマを追われたのかもしれない。あるいはまたそうではなく・・・」って台詞があったとして、普通は「かもしれない。」でブレスじゃないですか。それを「かもしれないあるいはまた、」でブレスなの。下手な役者がやると逆効果になっちゃうかもしれないけど、これが非常に台詞にリズムを生んでいて聴いていて心地よかった。

ともかく勝村さんのオーフィディアスについてはとてもじゃないけどこんなものじゃ語り尽くせないわ!というほどにツボだったのでまたどこかで改めるとして(どこでだよ)、これは本当に面白かったです。役者の技量は高いし唐沢&勝村の殺陣(唐沢さんはほんとに殺陣うまいね)は見応えあるし、衣装もすごく素敵だし、3時間15分ですがまったく苦にならない観劇でした。いやー行って良かった、与野本町。地方公演あるので、機会ある方は是非に是非に。