「桜姫」

桜姫東文章」の現代劇版を観るんだ!というよりは、長塚さんの新しい作品を観に行くんだ、という心持ちの方が自分の中では勝っていて、それがいいように功を奏したのかな、と見終わったあとに思いました。歌舞伎の「桜姫東文章」の世界を求めていたら「?」という感じだったかもしれない。そうは思いながら、自分としてはとても楽しんだ観劇でした。うんざりするような暑さ、貧困、混乱、そして幻想。どろどろとした人間感情が、舞台のうえにこぼれでているような芝居でした。濃厚です。

面白いなあと思ったのは、この作品の中のマリア、つまり桜姫を、徹底的に空っぽにして描いているところでした。その空っぽの器の中に、セルゲイもゴンザも、自分の思いだけを注ぎ込もうとする。一緒に死のうとするセルゲイも、死にたくねえと叫ぶゴンザも、その向こうにマリアという女性を見てはいないのだ。「桜姫」を中心に描かれる歌舞伎版ではこれはまったく感じなかったことでした。

禍福はあざなえる縄のごとし、ではないけれど、劇中で幸福と不幸の折り合いについて井之上さん演じるルカが語るセリフがとてもよかった。そのモチーフは劇中のラストシーンにも現れるのだけれど、ラストでゴンザとセルゲイがすれ違うシーン、この二人が「もう一人の自分」同士であるという考え方もできるのだなあと思い、そしてまた、南北の描く世界ですれ違ったふたりが、時代を超え、場所を超え、世界を超えて、今もどこかで幸福と不幸のやりとりをしている、ということを象徴するシーンのようにも思え、あーだとすると、千秋楽に白井さんのセルゲイが勘三郎さんの清玄とすれ違っていたりしても面白い、とかそういう想像力をかき立てられてしまいましたね。

ただでさえ、濃縮還元100%役者汁、というようなメンツが揃っていて、しかも演目がコレですから、ヘタするとちょっとした食あたり感覚ですよね(笑)いや、もちろんけなしているのではなく、そういった濃厚さをもきちんと客席に届けてくださる役者陣に最敬礼!という感じなのですけれども。あたりまえだが、皆、うまい。どうしてああも観客の呼吸を自在に引きつけることができるのであろうか。勘三郎さんの「チョイ悪オヤジ」風味なゴンザ、個人的には大好きです。古田さんはやっぱり対話において圧倒的なうまさがあるなあというのも再認識。あのしのぶさん演じる老婆とのシーン*1、あれだけ一瞬グダグダになりそうな空気だったのに、あの「未来も過去も幻想である」というセリフをちゃんと力をもって言い切れるってすげーなーと感心しました。あそこ流れちゃいけないもんね。

古田さんや大竹しのぶさんや、あとまあ秋山菜津子さんもかな、なんとなく演技のベクトルが同じ方向に向いている感じがあるんですが、今回その佇まいとしても芝居の手触りとしても、そこにいい意味で「馴染まない」白井晃さんが入っていることがすごくよかったなと思いました。もちろんはまり役ですし、そしてあの終盤、一気にゴンザを追い詰めてみせるかれの執念のさまは、白井さんの役者としての力量のハンパなさを実感できてうれしかったです。

あーしかし、自分は長塚圭史という劇作家をいつのまにかこんなに好きになっていたんだなとあらためて思いました。今年の岸田戯曲賞の選評で、野田さんは候補作(つまり長塚さんのsistersを含む)について「外側がない」と評していて、私自身は長塚さんのsistersという作品をとても好きですが、しかし野田さんの指摘には一理も二理もあるとおもった。そしてそういう意味から行くと、今回のこの「桜姫」は、南北という作家が向き合った「外側への視線」を借りてではあるけれど、長塚さんのあたらしい世界のようにも感じたのでした。英国からのお帰りを心よりお待ちしております。

*1:もしかしたらkaiさん同じ日にご覧になっていたのかも>ちょう私信