「逆鱗」NODA MAP

「エッグ」のときでもそうでしたが、できるだけ前情報を入れずに観て頂いた方がいいのかな…と思います。展開を知って観ても作品の面白さは全く損なわれませんが(むしろ、それはそれで違うものが見えてくると思いますが)、目と耳と感受性をいっぱいに開いてたどり着く先を見極めようとするあの旅の気分は、初見でしか味わえないと思うので。

ということで以下物語の具体的な展開にふれるため、畳みます。

観終わったあと、しばらく自分の身体が切なさ、というようなものでひたひたに浸されて、しばらく立ち上がりたくない、立ち上がれない、という気持ちになりました。「オイル」以降、野田さんが作品を作る際の表現方法は大きく変わったと思いますが(「パンドラ」や「カノン」にもその傾向はあるとはいえ、やはり「オイル」で大きく変貌したという印象があります)、今回もその流れは確実に汲んでいるとはいえ、作品の手触りとしてはすこしちがったもののようにも感じられました。

序盤、登場人物たちが話していることが「なんの」ことなのかわからないまま、だんだんとその糸をたぐり寄せていく構成は「エッグ」とも共通していますが、構成が似ているとはいえ、二つの作品から受ける印象はかなり異なりました。エッグも、そしてたとえば「キャラクター」や「ロープ」や「南へ」もそうなのですが、どこか暴く、という作業を思い起こさせた。覆っている、隠されているものをさらけだすという行為。しかし、「逆鱗」にはそれがない。暴くのではなく。掘り起こす。忘却という砂のなかにいつしか埋もれてしまったものを。

人魚がいったいなんなのか、ということが明かされてから、それまでに繰り広げられたなんということはない会話のすべてがパズルのピースのように意味をなしていくのは演劇的快感をもたらすと同時に、おそろしさを感じさせるものでした。16才のとき、親より早く死ぬのが良しとされる種族、減圧室の恋、モグリの潜り…。あの鱗に書かれた文字のアナグラムは(アナグラムになる、よなーと思いながら見ており、実際そうなるわけなのだが)野田秀樹にとっては得意技のひとつであるし、あとストップウォッチひとつにしても、序盤のなんということもない笑いが、終盤まったく違うこわさをつきつけてくるというのも、野田秀樹というひとのその手綱の取り具合、ただただ事実を突きつけるのではなく、常にシンパシーとワンダーをちゃんと用意しているところに唸らされます。

志願した「後顧の憂いなきもの」たちひとりひとりの出撃を省略しない、全員を、同じ手順、同じ台詞、同じ間合いで見送るところがほんとうにすさまじい。あのシーンを担う阿部サダヲの心を思わずにはいられない。あのとき誰かが思ったかもしれない、言うべきだったかもしれない、届くべきだったかもしれない言葉を口にし、同じ口で彼らを送り出す。ひとりの役者に背負わせるのはあまりにも酷ではないかとおもうほどだ。

けれど「逆鱗」においてなによりも私たちの胸をひきしぼるのは、彼らの届かなかった呼びかけなんじゃないかと思う。おーい、おーい。沖の船に無邪気に手を振る男が現れたら転職しよう、そう思っていた。おーい、おーい。あの呼びかけが、誰にも届かないと知っているからこんなにも胸が苦しいのか。その呼びかけを、地上に浮かんだ人魚が音にする、その声にならない声のすさまじさに、ただうちのめされる。

皆が奪い合い、最終的に押しつけ合う綱元が菊水であったり、人魚学者の役名が「雑魚」であったり、突き刺す針の鋭さが失われたわけではないが、それよりも忘却の砂を掘り返し、その声をすくい上げる、そこに生まれた切ない、いや、ただ切なさという単語で言ってしまっていいかどうかもわからない、どうしようもない根源的な感情に身体が浸されて、ほんとうにしばらく現実に帰ってくることができませんでした。

松たか子阿部サダヲ、ふたりの素晴らしさはもう、筆舌に尽くしがたい。素手で投げて場外に届くのではないかというような、伝える力が最長不倒を超えてあまりある。阿部サダヲは前述したシーンもそうだが、終始自分のカラーは消さず(もちろん笑いもおさおさ怠りなく)、それでいてあのトドメだものね…。松たか子のあの硬質な佇まい、驚異の喉、あーー好きだっ!!と声を大にしたい。オイルでも終盤の声すさまじかったが、今回は冒頭の台詞に戻るあの声はこの芝居を体現するような音でないといけないわけで、それがもう、それがもう…!

この剛腕ふたりの間に立つ瑛太がよかったなあ。声もよく、滑舌もよく、なにより柔らかさを最後まで失わないのがいい。それがいっそう、サダヲとお松の呼びかけの切なさを増幅させる。「まっすぐな明るい目をした」満島真之介も、やはりところどころ(というか、ある表情の時に)勝村さんの佇まいを彷彿とさせつつ、そのピュアネスが逆にこわく感じられてくる芝居でよかった。井上真央池田成志銀粉蝶と確実に自分の仕事を果たす役者たちに死角なし。すばらしいカンパニーだったと思います。

それにしても、これは演劇でないとできない筋書きだよなあと思う。特攻を題材にした映画やドラマはたくさんあるが、人魚に見立てるというこの構図はやはり演劇ならではで、演劇とは見立てることだ、という言葉をしみじみと噛みしめる。そういえば、野田秀樹には遊眠社時代にその名もずばり「回転人魚」という作品があるが、関連があったのか、どうなんだろう。実際の上演は拝見しておらず、戯曲は昔読んだような気もするが、これもまた忘却の砂の中です。