「七月大歌舞伎 夜の部」

  • 松竹座 1階4列26番

高麗屋さん襲名興行、松竹座は染五郎くん抜きで幸四郎さん白鸚さんのおふたりです。
「元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿」。仁左衛門さまと中車さんの顔合わせです。いやー面白かったです。タイトルの通りあの忠臣蔵なのですが、松の廊下の刃傷沙汰以降、判官贔屓の世間は吉良憎しの浅野同情論が強く、その空気を読んだ幕府は浅野家再興を認めようとしている、でもその話が通ってしまうと仇討ちの道理が立たなくなってしまう、という背景をうまく描いていて面白かった。限りなく幕府の中枢にいる綱豊と、ひとりの赤穂浪士の心中を明かさぬままの駆け引き、心理戦がみどころで、このひとつの台詞の裏を読み合うみたいな丁々発止の台詞劇を、仁左衛門さんと中車さんが繰り広げるのですから、こんな贅沢あっていいのか!ってぐらい芝居の「巧さ」を堪能させていただきました。かなり理屈に理屈の応酬が続くので、下手なひとがやったら目も当てられんな!と思いますが、いやはやさすがです。

特に、助右衛門が綱豊に向かって、あなたがうつけのふりをしているのも将軍に目を付けられないためだろう、と切り返した場面、お喜世が思わず短刀に手をかけて「お手討ちを待つまでもございません!」と詰め寄る場の緊迫感(壱太郎くんよかったな~)、浅野家再興の話を匂わせてついに助右衛門が敷居を越える場面(それでも実は、という内情は明かせない!ここめちゃくちゃよかった)、いやー絵になる、絵になる。

でもって究極に絵になるのが最後、思い余って吉良上野介を奇襲しようと考える助右衛門が、能装束をつけた人物に襲い掛かるも実はそれは綱豊で…っていう場面。助右衛門の繰り出す槍をはっしと受け止めてキッと見やる仁左衛門さまにはらはらと降りかかる花びら…っていう瞬間がもうね、
絵かよ!(字足らずのツッコミ)
ってぐらい構図もなにもかもキマりにキマっていてすごかった。よく絵から抜け出たような…とか言うけど、3次元が完成しすぎると逆に2次元に近づきますね。って私は何を言ってるんでしょうか。あんなん実際絵に描いてもあそこまでキマらんわってぐらいの完成度。すごい。

「口上」。歌舞伎座博多座も口上がない方を拝見していたので、幸四郎さん襲名の口上は初めて拝見しました。鴈治郎さん「幸四郎さんは関西人に憧れていて関西人化計画とかやっていたがぼくに言わせれば巨人ファンをやめて阪神ファンになれば話ははやい、まあそういう私は中日ファンですが」扇雀さん「これからも巨人ファン同士仲良くやっていきましょう」彌十郎さん「松竹座では歌舞伎NEXT阿弖流為でもご一緒させて頂いて、歌舞伎NEXTのみならずわたくしにもNEXTがありますように」中車さん「憧れの年下の先輩です」仁左衛門さん「三代同時襲名が途切れることなく続くなんてすばらしいこと、このうえはまだお生まれになっていない染五郎さんの御子息が襲名されるときにも列座させていただきたい」などなどなど。口上じたいなんだか久しぶりに拝見したような。楽しかったです!

女殺油地獄」。新幸四郎さんの河内屋与兵衛、染五郎時代にルテ銀でおやりになったときに一度拝見しています。そういえばそのときもお吉は猿之助さん(当時亀治郎さん)だったよな~。

非常に好きな演目で、なんで好きかというと勿論殺しの場のいききった様式美の凄み見たさ、っていうのもありますが、この登場人物の「ボタンの掛違え」としか言いようのないストーリーテリングがやっぱりすごすぎると思うんですよね。

勘当したにも関わらずその子のことを思って金を持ってこずにはいられない与兵衛の両親、その胸の裡を知って涙する与兵衛、でも借金を返すにはまだ足りない、それさえ返せれば、返すことが出来たら、やり直しができる、リセットボタンを押せる…という与兵衛の瀬戸際の懇願が、しかしお吉にとってはさきほどの「いっそ不義をして…」という与兵衛の言葉が邪魔をして、その瀬戸際の懇願を真あるものにとらえることができない。このすれ違いの悲劇!ここでわざと軽くあしらう猿之助さんのお吉、すべての希望が潰えたかのような表情の幸四郎さんの与兵衛、この対比見事だったなー。でもって、ふと手元の刀に気がついた瞬間の、色がさっと落ちるようなあの表情!いやーこういうのを観られると「はー芝居好きでよかったっ!」と心の底から思いますね…ほんと目の光までも消すことが出来るんですよ役者っていうのは…

殺しの場にいたるまでのふたりの緊張感もすばらしかった。あのお吉の「死にとうない…!」がぞっとするすごさで、その中でみせるあの様式美の塊のような場面の数々。見応えしかない。幸四郎さんと猿之助さんてほんとゴールデンコンビだとおもう。猿之助さんの女形大好きなので、そしてなかなかこうした女房役を拝見する機会が減ってしまったので、ほんと襲名の威力…ありがたい…ってなりましたね。歌六さん竹三郎さんの徳兵衛おさわも含めて鉄壁の布陣で、むちゃくちゃ満足度の高い観劇になりました。

「ブリグズリー・ベア」

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伊藤聡さん(空中キャンプさん)が今年のベストと大絶賛されていて、あまりにも熱い入れ込みぶりに「そ、そんなに?」と思って見に行ってしまういつものパターンです。私のような人間はぜったい沢山いるとおもうので、やはり好きなものや好きなことを熱意大盛りで語るのは大事。監督はデイヴ・マッカリー、長編監督デビュー作です。

砂漠の真ん中のシェルターで両親と暮らしていたジェームズは、毎週届く「ブリグズリー・ベア」の新作を何より楽しみに毎日を送っていた。しかし、突然警察がやってきて、父と母は逮捕され、連行される。実はジェームズは幼い時に誘拐され、以来このシェルターで外界から遮断されて暮らしていたこと、ブリグズリー・ベアも彼らが自ら製作していたものだということを知る。

この物語で、「子供を幼いころに連れ去られた実の両親」にピントがあってしまうと、なかなかつらいものがあるかもしれない。逆に言うと、この映画は徹頭徹尾ジェームズの視点から世界をとらえていて、それがいいようもない美しさを生んでいるのだとおもう。ジェームズを誘拐したテッドとエイプリルは、しかしジェームズに愛情とじゅうぶんな教育を与え、ブリグズリー・ベアを通じてジェームズの情操教育にも目を配るような「親」であり、ジェームズは実際にあったことを聞かされても、過去の自分が暮らした世界をなかったことにすることを到底受け入れられない。

と、ここまで書くとなんかすんげえ鬱になりそうな筋書じゃねーのって感じなんだけど、そうはならない。ジェームズはブリグズリー・ベアを介してはじめての友人を得て、ブリグズリー・ベアの物語を語ることでコミュニティに参加する。生まれて初めて出会った思春期真っ盛りの妹と時間を分かち合う。キャンプ。水辺での石投げ。行き過ぎた行動をとってしまったあとも、彼は友人と協力してくれた刑事をかばう。実の両親がジェームズが帰ってきた日に言っていた「やりたいことリスト」をジェームズはその現実の生活の中で見つけて身につけていくのだ。

ついに完成した「ブリグズリー・ベア」の映画を上映するときに、それが受け入れられなかったら?という不安でトイレに閉じこもってしまうジェームズのシーンがすごくよかった。不安になるのは望みが高いからだ、っていう台詞が私の好きな漫画にあるのだけど、そういえば昔、爆笑問題の太田さんが野田秀樹さんの製作現場で演劇を志す若者たちに「これはほんとうにすごいものだと思うものができる時が来る、その時に本当に理解者はひとりでいいと言えるか、俺はそれは嘘だと思う」って言ってたことがあって、つまり彼の不安は「ただやってみた」ことではなく、創作者として向き合ったからこそなんだろう。ジェームズがひたすら「スレていないピュアネス」を振り回すだけなのではないところが(もちろん、そういうピュアネスを感じさせる部分も上手に描かれているが)私にはすごくぐっときたところでした。そしてあのラストね。生きていくために物語が果たす効能が掬い取られたラストシーンだな~と思いました。

ユーモアのあるシーンもたくさんあって、いちばん好きなのは学生時代に演劇を志したことのある刑事に一役買ってもらう(文字通り)ところ。まさかのリテイク要求、最高でしたね。妹も、妹のクラスメイトも、皆すばらしくやさしさに溢れていて、あの片目がとれちゃった!と皆で笑い合うなんでもないシーンの美しさがすごく心に残っています。最後に、収監されているテッドに会いにきたジェームズが、その複雑な感情を吐露する相手を求めたのではなく、声を求めてきたというところも痛快だったし、きっちりそれに応えるテッドもよかった(しかも演じているのがマーク・ハミル!)

しかし、映画を作るというのは文字通りコミュニケーション能力の総本山みたいな作業なんだなーというのがすごくよくわかりますね。与えられたビデオテープを何度も再生し、研究することはひとりでもできるけど、新しい物語を紡ぐには自分のビジョンを伝えて、理解してもらって、話し合って、そういうことで形作られていくんだなと。こういう映画はひとさまのおススメがないとなかなか自分では発見できないので、今後も熱いおススメには軽率に乗っかっていきたいなと思います!

「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」

f:id:peat:20180708225030j:plainロン・ハワード監督。当初はフィル・ロード&クリス・ミラー監督が起用されていましたが、撮影開始後に降板。ところで、先日のコミコンで今作で悪玉を演じているポール・ベタニーロン・ハワード監督に「冬の長い夜、なぜ自分はスターウォーズシリーズに出ていないのだろう?と考えたことはありますか?私はあります」という面白くも直球なアピールのメールを送って、見事本役をゲットした、と話していたんですが、いやもうこのエピソード最高だけど、えっということは監督が交代してからこのキャスティングが決まったってこと…?マジですごい早撮りだなロン・ハワード御大!と思いました。

興行収入が振るわなかった(いや、SWシリーズはみんなお化けみたいな興収だから較べられちゃうとね…)こともあっていろいろメディアでは言われていたりするようですが、見終わった瞬間の私の感想はうーん手堅い!って感じでした。共感と驚異、シンパシーとワンダーという創作物に必要とされる要素(受け売りです)でいえば、ワンダーの部分は確かに薄いので、そういう部分を求めているひとには食い足りないかもしれない。個人的に???と思った部分がないわけではないですが、やっぱりいちばんは手堅く楽しませてくれたなーという印象です。

何かと比較して言うのは御法度であると重々承知していますが、個人の感想ということでおゆるしねがいたいけど、「最後のジェダイ」より全然楽しめたし、あの映画のルークの描かれ方がまだ喉に引っかかった小骨のようになってるので、往年のガチSWファンがショックで足が遠のいたとしても、わかる気がする…という気持ちです。

冒頭のキーラとの関係性の見せ方とか、再会とかよりも、もっとも血が滾ったのはやはりチューイとのエピソードの数々で、正直ハン・ソロとチューイが初めてミレニアムファルコンでタッグを組むシーンがよければそれだけでいいです!と言いたい自分がいます。最初の出会いにしても一緒のシャワーにしてももふもふチューイと(着込んで)もふもふハン・ソロが語り合う場面もかわいくてよかったし、ほんとあの「ケッセルランを12パーセク」の二人の息の合いよう!あそこのシーンは何度でも観たい。ただ、画面がちと暗かったのが惜しい気がしました。IMAXで見たんだけどなー。

あとランド・カルリジアンの描き方、演じるドナルド・グローヴァ―素晴らしかった。ああいう魅力的なキャラがいるのはシリーズものの強みだよなあ~。I hate you. I know.のやりとり最高でしたね。キーラの描き方といい続編ありきだった気がするんだけど、もし続編があったらこのランドとハン・ソロとチューイのやりとりがもっと見られたのかと思うと惜しい気がする。

しかし、ローレンス・カスダンは文字通り西部劇のフォーマットで描いたんだなっていうのが要素を抜き出すとよくわかりますよね。想い人が権力者に身を寄せている(気に入られている)、列車強盗、チェイスシーン、ポーカー!そして決闘! 最終盤の、どっちがどこまでだまし、だまされているのかの見せ方とかはさすがに老練て感じがしました。というか、クライマックス的には若干の物足りなさがあるところを、ウディ・ハレルソンベケットの魅力にも助けられてうまーく緊張感を持続させてるなっていうか。いやヴォスとの対決、ポール・ベタニーがそこまでせんでも!くらいの白シャツ・黒スーツでケープつきっていう鬼のビジュアルで目に楽しいことこの上ないんですが、形勢逆転あっさりすぎる!ってのはどうしてもありますよね…。

私の大学時代の友人に、ハリソン・フォードハン・ソロを見て「いつかハリソン・フォードと話せるようになるために英語を勉強しよう!」と一大決心し、立派なことに実際バリバリのイングリッシュスピーカーになったコがいるんですが、まあそれほどまでにSWにおけるハリソン・フォードは一種のアイコンであって、だから若き日の彼をやるっていうのはすごいチャンスであると同時にすごい試練でもあると思うんですよね。当たり前だけど、顔が似てればいいって問題でもないし。オールデン・エアエンライクハン・ソロミレニアムファルコンを目にした時のときめき、操縦席に座った時の高揚感になによりハン・ソロを感じることができたのが何よりよかったです。

「ニンゲン御破算」

いきなりこんなことを書くのもどうかと思うが、実は私は大人計画の芝居の感想を書くことに若干の苦手意識がある。言うまでもないが、芝居自体は大好きだ。大好きというか、松尾スズキさんは絶対見逃したくない作品を見せてくれるひとであり、絶対に楽しませてくれる劇団だと思っている。だから観るのは大好きなんです、もちろん、言うまでもなく。でも感想を書くのがむずかしい。なんというか、松尾さんの書くものには一種独特の情動のようなものがあり、その芯を感じることはできても、うまく咀嚼することができてないんじゃないかと自分でぼんやり思ったりする。もう20年近く見ているのに今更何言ってんだって話ですが!

当時まだ勘九郎だった、中村勘三郎さんと松尾さんがタッグを組んだ「ニンゲン御破産」、あれが15年前と聞いて、まず慄くが、あの時はまだ歌舞伎も大人計画も見始めて日が浅かったというのもあり、面白かったけれどどこを捕まえていいかわからないという感じだったなーと思い出したり。ただ今回の再演はその松尾さんの独特の情動のようなものが少し整理されて、情よりも理が入っている部分があるような感じがして、そのぶん私にとってはずいぶん飲み込みやすく仕上がっていたなという印象。

初演は3部構成(2回休憩が入った)と記憶しているんですが、今回は一幕二幕をぶっ通したのでまあ前半が長い(笑)。途中で「いかにも15分の休憩が入りそうな~」とアナウンスでいじりながら今までの話の流れを南北である松尾さんと黙阿弥であるノゾエさんが説明してくださるという親切設計。あと、最後の展開は覚えていたので、それを意識して見ていたせいもあり、実之介と母親とのやりとり、ガセの介と言われて「それ、いただきました」と実之介が返す場面、実に細やかに種を蒔いていっているんだなーという感じで、こういう見方が楽しめるのは再演ならではかも。

初演は実之介がからっぽだ、からっぽだと叫ぶ二幕の(今回では第一幕の)ラストがとにかく印象に残ったんだけど、今回はそこも最後のどんでん返しに繋がった台詞なんだなというのがよくわかって、自分じゃない容れ物に自分を入れられてしまっているからこその空っぽさ、ということをこんなにも切実に描いた話だったんだなあと。歌舞伎役者の肉体を通して松尾さんが書こうとしていたものが15年経ってよりくっきりと見えてくるような気がしました。

阿部サダヲさんはさすがに松尾脚本が骨の髄までしみ込んでいるというかね、書いているひとの求める温度を的確に表現するだけでなく、常に倍掛けの熱量で客席をぐいぐい押してくるから本当にすごい。サダヲちゃんがやることによってのみ込みやすくなってる部分が絶対にあると思う。岡田将生くんは本当にどうかと思うほど強靭な喉をしてるよね。声が強い。サダヲちゃんもアホほど喉の強い人だけどそれに全然負けてない。舞台において強い声と強い喉を持っているってもうそれだけで100人力なのに、それであのビジュアル…しかも芝居も達者…二物以上与えすぎかよ!ってなりますね。松尾さんとノゾエさんの師弟コンビよかったなー。松尾さんの、きわきわのところで残酷な顔を見せたりするの相変わらずぞっとするうまさ。マイラヴ小松和重さんも安定の活躍ぶり、そして平田敦子さんの仕事師ぶりが際立って輝いて見えました。

「ブロウクン・コンソート」パラドックス定数

  • シアター風姿花伝 全席自由
  • 作・演出 野木萌葱

シアター風姿花伝が「プログラミングカンパニー」として年間通じてバックアップするプロジェクト、2018年はパラドックス定数が選出され、「パラドックス定数オーソドックス」として過去の作品を多数再演するシリーズ。野木さんの脚本好きだし、見たいなーと思っていても普段は上演期間がなかなか状況のタイミングと合わず諦めていたので、こういう企画をしてくださるのはうれしい。なんてったって予定が!立てやすい!

どこにでもあるような町工場で職人として働く兄弟。兄には障がいがあって、弟は兄の面倒をみながら生活している。どこにでもあるような話、だけれど、どこか違うのは、彼らがその工場で作っていたのは模造拳銃だったのだ、という筋書き。

町工場の兄弟、やくざの兄弟分ふたり、ベテランと新米の刑事2人組。こういう舞台設定にして、やくざの兄貴分が出所して戻ってきて、新たな仕事の発注をもちかけ、そこに刑事が絡んで…という脚本を、もし映画やドラマでやろうとしたら、十中八九女性の登場人物を絡めてくるだろうと思う。刑事のどっちかが女性とか。兄弟の幼馴染がいるとか。やくざの兄貴分の愛人とか。貧困な発想の連打で申し訳ないが、とにかくこの設定でびた一文女性の匂いをさせない脚本を書いてくる野木さん、好きすぎる。強いていえば、この作品では「拳銃」こそがヒロイン、男性のロマンを体現する存在なんだとおもう。

誰もが振りかざしたくなる道徳の教科書のような倫理観はここには存在せず、いや存在したかもしれないが摩耗しており、みんなどこかのねじが狂っている。ベテラン刑事が言い放つ「ヤクザに人権なんかねえだろ」の台詞通り、警察ですら酸いも甘いも噛み分けすぎてるんだけど、その噛み分けっぷりがどこか一本芯の通ったように思えてくるのが不思議だし、さすがですね。

拳銃とやくざを絡ませているけれど、舞台上での発砲シーンが限られてたり(見えないところでの発砲は結構ある)、スプラッタも極力控えめだったのは野木さんの好みなのかなーと思いました。

あと、出てくる男性が全員どっかダメなんだけど、えっ…ちょっと…かっこいい…と思わせてくれるのがすばらしいですね。智北役の渡辺芳博さんて、お名前どこかで…?と思ったらサードステージの方で、虚構の劇団で見たことあるがな!ってなったけど、むしろそれを思い出すよりジョビの坂田さんに激似では!?って何回もまじまじと顔を見てしまった。抜海役の今里さんもよかったなー。謎の殺し屋永山役の生津さん、初めて拝見したと思うけど、背は高いわ声はいいわ(ハイ承知。って決まり文句のびみょうにいらっとする感じ最高)、兄弟の愛憎の描き方、キレイに収まりそうでおさまらないのがまたいい。初野&筬島の刑事コンビは終盤になるについれちょう輝いてた。みんなかっこいい。すごい。登場人物が決してかっこいいわけではないだけに、すごい。

パラドックス定数は劇団先行のチケットが毎回凝ってて、今回はタイムカードを模したものになってたんだよなー。オリジナルチケット好きとしては萌えるところです!

「日本文学盛衰史」青年団

高橋源一郎さんの原作を青年団平田オリザさんが舞台化。いやー面白かった。ずっとニヤニヤ、時にゲラゲラ笑いつつも、自分が当たり前に享受してきた言葉の喜びというものについて考えさせられたりもして。

小説原作ではあるんだけど、まず唸ったのが脚本のうまさ。かつて、三谷幸喜さんが「オケピ!」で岸田戯曲賞を受賞したとき、審査委員のひとりである野田秀樹さんが選評で、三谷さんの脚本の上手さを花見の場所選びの上手さにたとえていたけど、まさにこれもその「花見の場所選びの上手さ」が炸裂した脚本だとおもう。

舞台は主に4場で構成され、北村透谷、正岡子規二葉亭四迷夏目漱石の葬儀の場面が描かれている。アーロン・ソーキンが「スティーブ・ジョブズ」で、ジョブズにとってターニングポイントとなるプレゼンテーションの舞台裏、という場に絞った脚本を書き、いやはやソーキンあんたはやっぱりうれしい男だよ、と私を喜ばせたけど、同じようにこの全幕を4つの葬儀の場とするというアイデアはまさに演劇的だよなあとおもう。「場所」を動かすことの制約を逆手に取っているというか。

葬儀に三々五々集まる文学者たち、森鴎外らの登場、故人の家族の挨拶、故人の思い出を語る参列者、故人の恩師的立場の者からの挨拶…と、どの場も基本的に同じフォーマットを踏んで展開していく。でもってこのリフレインがあるからこそ、否応なく動いている「時代」というものがよりくっきりと浮かび上がってくるのがすごい。

彼らは皆、新しい日本語、新しい文学における言葉の獲得というものと向かい合ってきた人間で、その中でいかに自己の内面を表現するか、いかにイデオロギーから自由になるか、というようなセリフがあってハッとした。絵画や音楽がかつて宗教を表現することからはじまり、やがてそこから自由になったように、この時代には文学とイデオロギーは密接な関係にあって、そこから自由になることを模索していたのだ。この時代とは言ってもたかだか100年前の話なのに、今やアーティストがイデオロギーを語ることは禁忌のように扱われる。

最後の漱石の葬儀には、レッツゴー三匹ならぬ坂口安吾太宰治織田作之助無頼派三匹トリオが表れ、「これから」の話をする。そこで森鴎外が問いかける「では日本はいちど、滅んだんだね?」「はい」「でも文学は滅びなかった?」「はい」というやりとりが、どうにもぐっと胸にきてしまった。西洋文学の翻訳というかたちで、「正解」を知ってしまっているからこその苦悩、という話も面白かったし、幸徳秋水に対して夏目漱石が語る文学の敗北の言葉も印象深い。そうした時代があってこそ、表現というものが個人の権利として保障される時代に私たちは生きることが出来ているんだということを改めて考えたりした。

正面切って語られる文学論の傍ら、徹頭徹尾「今」の話題を差し挟んでいて、それがシームレスに展開していくのが見事だったなー。冒頭のカゲアナからして「本日は日大…失礼しました、日本文学盛衰史にご来場いただき…」だもんな。漱石の使うLINEスタンプは猫、女を男を癒す道具だと思ってない!?と意気軒高な樋口一葉に重なる「RT」「RT」の声、ドラマ、スポーツ、あらゆるネタを盛り込んで、それがなんというか内輪受けのようにならないところがすごい。ネタに品があるというかね!

それぞれの登場人物の略歴を知っているとずーっとニヤニヤできる感じがありつつも、全然知らなくても十分に楽しめる描かれ方だなーと思いました。逆に今まで名前しか知らなかったという作家でもここで描かれた人物像から気になって著作を読んでみたくなったりして。

森鴎外役の山内健司さんの存在感、すばらしかったなー。どんな場面でも森鴎外が出てくるとぐっと場面の手綱が引かれた感覚があった。全場を通して島崎藤村田山花袋の役で出ずっぱりの大竹直さん島田曜蔵さんも印象に残りました。志賀廣太郎さん、お元気な姿を拝見できてよかったです。あと坪内逍遥役はまりすぎでした!

「六月博多座大歌舞伎 昼の部」

通称「伊達の十役」、幸四郎さん襲名演目。初見です(伽蘿先代萩からの派生というのはなんとなく知っている)。ちゃんと筋書の内容を頭に入れておかないと人物相関図がごっちゃになったりするかな(何しろ同じ人が色んな役をやるので)と懸念していましたが、最初の口上で非常に簡潔に「このひと善玉ですよ」「このひと悪玉ですよ」と関係を整理して見せてくれる親切設計。ありがたい。正式名称は慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)。うまいこと言いますね。奮闘公演とか言っちゃうよりずっと一生懸命感があるね。

この演目、面白いのがのべつ幕なしに十役の早替わりをやっているわけではなくて、そのかなりの部分が前半に集中していること。何しろかなり長い間、舞台のうえに幸四郎さんしかいない(役としては複数の役がいても、いずれも幸四郎さんが演じているため)という時間が続く。この早替わりがこの演目の大きな趣向なので、ここでは「ひとりがやっている」ということをアピールしつつ芝居を進行していくことになるわけです。じっくり気持ちを作って入り込む、みたいな隙はなく、言ってみれば短距離のスタートダッシュを延々繰り返しているようなもの。それをいかにうまく決められるか、もちろん外連味もありつつ、しかしドヤ感にかたより過ぎてもいけない。伊達十にかぎらず早替えを眼目とする芝居の難しさって実はそこにあるような気がしています。その匙加減というかね。幸四郎さんはやっぱり華のある方なので、そのあたりの客席への見せ方みたいなものが非常にうまい。

転じて次のいわゆる御殿の場では、早替わりの趣向はぐっと抑えられ、時間の大半を政岡として通じて出ることになる。言わずと知れた女方最大の難役と言われる役であり、ここはじっくり腰を据えて演じられるため、序幕がスタートダッシュの連続とすれば、こっちは完全に長距離走のそれ。一本の芝居なのに、使う筋肉がぜんぜん違う!これは確かに、やってみたくなる演目だろうなあと思いました。ことに、幸四郎さん自身もこの政岡の役にひときわ念があるというか、これをやりたかったんだろうなー!というのがひしひしと伝わってきました。しかも今回襲名ということもあって、八汐の仁左衛門さま、栄御前の魁春さまがこの場に並ぶという、本当完全にここ大歌舞伎待ったなしの雰囲気ですごかったです。観ている観客もいろんな味が楽しめて、いやーよくできた演目だなあと。しかも、この入り組んだ人間関係がなぜかわかりやすく感じちゃうのも不思議。

花道横の良いお席で拝見できたので、幸四郎さんを間近から見上げながら「まつげ…ながい…」とか、「あっ…ちょっと袖口から…脇が…みえる…」とかそういうけしからん煩悩に思いくそまみれつつ、文字通り追いかけ追いかけられ、殺し殺されする幸四郎さんを堪能できてよかったです。切り口上のときお隣の梅玉さまが自らぱちぱちと手を叩いて幸四郎さんを讃えられて、重ねてピースピースで幸四郎さんもそれ見てほっこり笑顔、という心温まる光景も拝めて言うことなしでした。