「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」

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シリーズ6作目、毎回監督を変えるという今までの慣例を初めて破り、M:IRN(ミッション・インポッシブル/ローグネイション、以下みりんと称す)からクリストファー・マッカリーが監督・脚本で続投です!

今までのシリーズの総決算、という感じで過去作への目くばせもふんだんに散りばめられてるし、それどころかお話としては完全に前作から引き続きだし(なのでみりんはどうにかして見てから足を運ばれるのが吉)、登場人物的にも総ざらえ感がありました。もちろんごぷろ(シリーズ4作目、ゴースト・プロトコル)&みりんでぐっと「チーム感」が増したベンジーとルーサー続投(ブラントくんは残念ながら今回お休み)、そしてイルサも再登場。
シンジケートの残党がトップであるソロモン・レーンを失い(そういえばこの人も再登場)、無軌道なテロリスト集団として跋扈している、彼らは核科学者と接触し核兵器を使用した大規模なテロ攻撃を画策している、それを阻止するのが今回の君の任務…とくるわけなんだけど、冒頭からいきなり敵方にプルトニウムを奪われるという展開。

初見はIMAXで見たんですが、いやいや昨今これほど「映画館で見た気」を満足させてくれるシリーズもない。なにしろトム・クルーズのアクションが釣瓶打ちを超えて文字通り雪崩のごとく襲ってくる。マッカリー監督はあえて脚本未完成の徒手空拳で撮影をスタートさせたと言っており、いやそれはあなたが何より超有能な脚本家だからできるんですってば!普通ならそんなこわいことできないよ!とはいえ、みりんのコメンタリー聞いたときも驚いたけど、あの時もかなりの部分現場のとっさの判断で筋書きを決めてるんですよね。だってラストシーン決まってなかったって言ってたもんね。今回はみりんよりもさらにそのスタイルを推し進めたという感じ。実際、少々プロットが入り組んでいるというか、入り組んでいるわりに突貫工事ぽさがあったりするんですけど、後半の物語の勢い(それを推進するのが超弩級×20のアクション)がすさまじく、またイーサン・ハントという人物の来し方行く末みたいなものがうまいこと物語を重層的に見せることに成功しており、なんか終わった時には「ええもん見た」感が残るっていう…トム&マキューコンビ揺るぎない。

今回はCIAからの監視者としてイーサンと行動するヘンリー・カヴィルさん演じるオーガスト・ウォーカーという人物が出てくるんですけど、ちょっと露悪的に書きすぎかなあというのが若干気になった。露悪的というか、意地が悪いというか、特に最初のヘイロージャンプのとことか、そのあとで「おれも役割を演じていた」という台詞があるようにある程度は意図的なものとしても、もう少し「イーサンとは違う」けど「魅力的」というふうに持っていってくれた方が私としては好みでした。まあ、あそこでイラっときてるイーサン面白いけどね。それがあの最後の映画史上類を見ないヘリでのチェイスシーン(誰だあんなん考えたの)でのイーサンの「あのクソ野郎」の連打に繋がるかと思うと面白いけどね。

以下いろいろ雑多な感想をメモ書き!当然のようにネタばれてるよ!
・長官~~~~~~!!!!(これ以上は言えない)
・うう…めっちゃ楽しそうだったのに長官…(言ってる)
・それはさておきベンジー大好きっ子のわたしとしてはとうとう!2作越しで!ベンジーのフルマスクが叶った~!という喜びが!
・基本的にビッグバジェットムービーに出演しない方針のソロモン・レーン役ショーン・ハリスさん、前回のみりんのときに「最後殺してくれるなら」という約束で出たのに生き残り、あまつさえ続編にまで引っ張り出されるという…しかし本当にションハリさんなんで出てくれたんやろ。結構現場としては気に入っていたとかだといいな!
・そのショーン・ハリスさん、ソロモン・レーンだけど中の人は実は、なシーンがあまりにもうますぎて、うますぎて、この人…どういう!?天才か!?ってなったしあのシーン何回でも見たい
・そのションハリさん演じるソロモン・レーンを同乗させてのカーチェイス(しかしなぜ助手席?イーサンが隣なら抑え込めるから?)、ベンジーのかいだんかいだんかいだん!が懐かしくなるほどの「塩対応」ならぬ「塩同乗」ぶり(そんな言葉はない)
・パリでの撮影、バイク+カーチェイスも、ものの見事にパリ名所を回ってて笑いました。凱旋門ラウンドアバウト逆走てすごすぎか。そして相変わらずバイクチェイスの玉ヒュン度合いがすごい。4DXで見ると何度も「ぶつかる!」ておもう
・ヘリの操縦もイーサンなら当然余裕でしょ!って描き方じゃなくて、うんうんできるできるだいじょうぶ…て自分に言い聞かせながらやってるのが新鮮でよかった。荷物落とすの失敗して悪態つくとこ最高ですよね
・イルサ相変わらずちょうかっこよかった。イルサのかっこよさがみりんから全く損なわれてなくてホッとした。あのVIPルームでの足技惚れるぜ。自己紹介するウォーカーくんにこれぞ正真正銘の塩対応。イルサも興味ない人とことん興味ない!て感じだもんな。やっぱイーサンと魂の双子説
・後半ベンジーとイルサがコンビになるシーンがたくさんあったのもうれしかったなー。あのベンジーのピンチに覚醒するイルサかっこよすぎでしょ…あれこそ「絶対殺すマン」…!あとイルサがジュリアのこと「彼女好き」って思わず言うとこもよかった。つーかイルサとジュリアが並ぶとイーサンの!女の趣味!!てなる(似てる)
・マッカリー監督がSNSのQ&Aで、「ベンジーをひどいめにあわせないで!」ってファンの声に「もう遅い」って返してたんだけど、なるほどこういう…てなりました(笑)でもベンジー今回もいっぱい活躍してたしイーサンにニヤニヤしながら「君のことはぼくが守るよ」とか言われちゃうしあのナビの場面もこのベンジーの、ひいてはサイモン・ペッグの愛嬌だからこそたのしく見られるんだよな~と思ったり。ほんとベンジーがこのシリーズにもたらしたものは大きい!
・今回ウェットな部分をルーサーがかなり代弁していて、あのイルサに語るところもさ、これルーサーじゃなかったら、というか一歩間違えばすげえ陳腐なシーンになるところだよなあと思いつつも、これが唯一1作目からずっと出ているルーサーで、これがシリーズの6作目でいろんな思いが観客にもちゃんと積もっているからこそぐっとくるシーンになったんじゃないかなとおもう。
・イーサンの妻であるジュリアが再登場するよって情報が出たときは「どうなのかなあ」と思った部分もあったんですけど、いやこれ以上ないぐらいうまい着地点だった気がします。あのジュリアのさ、「あなたがいるから夜も眠れる」ってせりふ、吹替えでは「生きていける」だったけど、これは断然字幕の「夜も眠れる」のほうがいい。あの一言には不覚にも泣きそうになった。イーサンがようやく報われた瞬間というか…
・そう、4DXは吹き替えだったのでね、字幕と吹替え両方体験できたのはよかったんだけど、うーんしかし!しかしである。わたしゃ広瀬アリスちゃんもDAIGOくんも好きなんじゃ。むしろ大好きといっても良いぐらいじゃ。いやまあがんばってたかもしれないしDAIGOくんも前評判よりはよかったかもしれないけれども他の人の聞かせる度合いと比べちゃうと出来の差が如実だし、何より「がんばってる」って何の免罪符にもならなくないか?という気持ち勿論あるし、ほんとふつうにプロを使お?今回はみんな来日もしてくれたし宣伝材料たくさんあったじゃん?こんなことでふたりにマイナス感情抱きたくない~
・カヴィルさんのいろんな表情が楽しめたのも良かった。もちろん「上腕二頭筋再装填」のあのトイレファイトもすごいけど(しかしUNCLEといいBvsSといいカヴィルさんはトイレで戦う星の下に生まれているのか)、やっぱりあのヘリでのチェイスシーンと最後のタイマン勝負が最高ですよ。あの憤怒にまみれた顔!最高にセクシーだったしあそこで顔を半分焼こうっていったひとに勲章あげたい。カヴィルさん文字通り「歩くパルテノン神殿」とか言われるぐらいの超美形だからこそ、ほんの少しの欠損がセクシー度合いを増幅させるよね…!

今回本当に「スタントなしのアクション」が天元突破しすぎてて、みんな言ってるようにトム・クルーズ撮影中に死ぬなら本望ぐらい思ってそう(実際今回も足首を骨折したのが大きなニュースになった)ってなるし、いやおトムせんぱい御身大事にしてください…てもちろん思うんだけど、でもいやもうそういうアクションは後進に譲ろ?というようには思えないというか、まあ私はそういうとこある。本当にその人のためかどうかということを視野に入れないつーか。エンタメにおいて私は常においしい所しかもらう気がないというか。って何の話だ。

しかし、あのロンドンの街をひたすら疾走するイーサンのシーン、ただ走っているというそれだけがあんなにも物語を推し進めるひとってやっぱりなかなかいないと思うのだ。

トム・クルーズは映画の中での女性の描かれ方や、作品をとりまく空気や、そういうものをすごくちゃんと読んでいて、それを大きな作品でちゃんとヒットさせながら更新していくということをつらっとやってくれている得難い人だと思うので、そういう作品がもっともっとたくさん見たいので、くれぐれも安全第一でお願いしますほんとうに。

このシリーズ、私はもうなにしろ前作のローグネイションがほんとに好きで好きで、何度見てもたのしい、何度でも見たくなるし、好きな映画はもちろんたくさんあるんだけど「何度でもこの気持ちよさを味わいたい」と思わせてくれる作品てほんとに数えるほどしかなくて、私にとってはそういう映画の1本なので、なんとなく今回一区切りとなったように見えるこのM:Iのシリーズが次に何を描くのかやっぱり楽しみにしております。そしてそこにはぜひサイモン・ペッグ演じるベンジーもひっぱってきてください(笑)。

「ウインド・リバー」

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テイラー・シェリダン初監督作品。ポスターの一面の雪原に残る血と痕跡、「この土地では少女ばかりが殺される」というキャッチコピー、映画の冒頭の雪原を裸足で走る少女…と、ものすごく翻訳ミステリぽさがあります。しかし、ミステリ…という感覚はちょっとうすい。すくなくともフーダニットではないし、キャッチコピーから連想するような連続殺人ものでもない。むしろ映画の冒頭に「実話に基づく」というクレジットが出るように、舞台となるインディアン居留地、もっというのであればアメリカ合衆国におけるアメリカン・インディアンをめぐる構造的な問題に焦点を当てていると言える。以下ネタバレ含みます。

舞台となっているのはワイオミング州ウインド・リバーインディアン居留地で、厳しい自然環境の中にある。主人公のコリーは合衆国魚類野生生物局の職員で、家畜を襲う害獣を始末するハンターであり、この土地を知り尽くしている。彼には家族があるが、大きな喪失が彼らの中に横たわっている。義父から家畜を襲ったピューマの駆除を頼まれたコリーは、奥深い雪原のなかで、一人の少女の死体を見つける。

少女の死因が肺の凍傷(寒すぎて空気を吸うと肺が凍傷を起こし、破裂する)で他殺ではないことからFBI捜査官は捜査をそれ以上大規模に展開できず、コリーに応援を依頼して独自に捜査を進めていくんですが、私は最初の映画の印象が「翻訳ミステリっぽい」というところから入ってしまったので、コリーの娘の事件との関連性みたいな話が出てくるんだろうと思ったら、そういう方向には転がらないのであった。いやむしろ、そういったわかりやすいシリアルキラーの存在がないのに、同じ土地で育った親友の女の子同士がきわめて短い期間に非業の死を遂げている、それはなぜなのか、ということ自体こそがこの映画の描きたいところなのだ、と気がつくのにちょっと時間がかかってしまった感じがある。

雪山でのコリーの行動、服装、装備、そういったものがきちんと取材されて描かれているんだなと思わせるというか、「こっちのほうが見栄えがいいでしょ」的なところが一切ないのがよかった。「そんな恰好じゃ死ぬ」という現実を甘く描かないの大事ですよね。

扉を開けるシークエンスで観客を錯誤させるテクニックってわりとよく見るが、扉を開けた瞬間過去に巻き戻って「何があったか」をみせるというのはなかなか新鮮だった。終盤の銃撃戦も、おそらくあの土地では獣に襲われることを想定して短銃よりもライフルを装備する人間がいるのだろうが、短銃とライフル入り乱れての撃ち合いは威力が違うだけになかなか壮絶だった。最後の落とし前のつけ方も、私はあれで「彼も法で裁かれるべきだ」というほどには人道派ではないので(彼氏の方は集団暴行殺人になるだろうが、女性の方はよくて強姦罪が適用されるだけだ)同じ目に遭わせることに後味の悪さや良心の呵責は感じませんでしたね。

ジェレミー・レナ―が文字通りワンショットワンキルの凄腕なので、こういう役…似合うなほんと…と思ったり、怒りと絶望を奥底に讃えながらも冷静に真実を見極めようとする姿がめちゃくちゃよかったです。病院のベッドでジェーンにかける言葉もよかったなあ~。あと恋人役を演じていたのがジョン・バーンサルだったので、バーンサルにきをこんなに怒らせて…おまえ…おまえら…パニッシャーの餌食になってしまえ~!とかそういうクロスオーバー的なこともちょっと頭をよぎりました(笑)

「睾丸」ナイロン100℃

ケラさんが描く「革命の時代」の残り香。面白かったです!描かれるのは今から25年前の1993年。その1993年の世界に、25年前、まさに「学生運動華やかなりし」時代の影が思いがけなく顔を出す。

つかさんにも蜷川さんにも、そしてもちろん鴻上さんにも、あの時代に対する一筋縄ではいかない想いというようなものが作品の中に感じられたりするけれど、ケラさんにはそういう湿度がなく、どこか突き放したような目線で語られているのが新鮮でした。安井順平さん演じる七ツ森のあの薄っぺらさときたら。「総括」「自己批判」、んもう、それ言いたいだけちゃうんか!と言いたくなる25年前の彼らの姿。また、演劇を通して活動をしたいという流れで出てくる劇団名と芝居のタイトルがまた絶妙。ありそうすぎる。

観ていて気になった、というか自分が引っ張られてしまったのが、あの「台本」。25年前は確かに傑作だと思ったはずのそのホンを、書いた本人と演出家は「ほんとうにこんな話だったのか?」と首をひねるほど退屈極まりないものに感じる。一方、当時の主演女優の恋人は素晴らしいホンだといい、その主演女優自身もまだ台詞を覚えていると語ることから、そのホンのクオリティを疑ってないように見える。同じ戯曲のことを話しているとは到底思えないほど、両者の評価は食い違っている。私は最初、この台本はどこかで中身が入れ替わっているのではないか?と思い(日記をねつ造した七ツ森のエピソードがあったので、余計に)、ずっとその目線で見てしまったのだけど、しかしそのような種明しが勿論あるわけもない。それでハタと気がついたんです。「誰かが『傑作』と評したホンなら、それなりのものに違いない」と思い込んでいる自分に。同じものを見て傑作と評するひともいれば駄作と評するひともいる。当たり前のことなのに、「傑作」と「駄作」の箱はどこかで区分されて混じり合うことがないとうすらぼんやり思い込んでいる自分がいるっていうことに。

ケラさんのえらいところは、亜子がかんたんに七ツ森を赦したりしないところですね。彼から受けた扱いに対して、文字通り刃物をもって相手を追い詰める。いやーああいうシチュエーションでねえ、女がやっぱり七ツ森に惹かれてたみたいなアホな展開書いてくる作家結構いますよ。そして、何度も刃物を持ち出し、革命や世界を語っていたはずの25年前の彼らの横で、現実の世界が大きくうねり、綻びの種を蒔いているのに、革命の時代にとらわれた彼らは最後の最後まで気がつくことが出来ないというのもね、なんというかすごい脚本だなあ!と改めて思いました。

キャストは隅から隅まで言うことなくすばらしい。客演陣4人もまたぴったりはまってて3時間超の長尺をみっちり詰まった芝居で飽きさせない、飽きる隙を与えない濃密さ。安井順平さん、ほんとに求められるところを存分に発揮していたという感じ。

あと、第三舞台ファンとしてこれは書いておかないといけないのではないかと思いつつ、えーと1993年には第三舞台の公演は行われてないんですね。もうね、「アプル」「第三舞台」って単語が出た瞬間に「1992年の天使は瞳を閉じてインターナショナルバージョンかな」とかよぎるほどにはおたくなので。でも劇中で立石が言うのは芝居の時点よりもすこし前ということも考えると、実際の観劇は1992年の可能性もありますね。というか、ケラさんはもちろんちゃんとお調べになっていて、この台詞を出したのだと思うの。25年というスパンは変えられないので、そうすると一番近い公演がこのアプルの天使になるっていう。ここで、紀伊国屋ホールとか言わないでアプルと言っているのがもうね、おたく的にはさすが!と言いたい。第三舞台はほとんどアプルで公演をやっていないのでね!そして鴻上さんをチョイスしたのも、ちゃんと意図があるというか、あの世代においてもっともあの革命の時代への思い入れを隠そうとしない(デジャ・ヴュの秋田健太郎はもろに秋田明大と唐牛健太郎からとっているし、役名にハラハラとつけたり枚挙に暇がない)からこそなんだろうなっていう。かつての同志が集まって25年ぶりに芝居を打つ…ひゃーもう絶対好きそうなシチュエーションだしラジオで宣伝してくれそうっていうね!三宅さんの鴻上さんの物まねと唐突に始まるダンス、大笑いさせていただきました。

あとこれは第三舞台語りついでの蛇足の蛇足ですが、第三舞台の「ハッシャ・バイ」という作品では、有頂天の「BYE-BYE」が劇中で使用されているという、おふたりにはそんなつながりもあったりするんですよ!

「メタルマクベス disc1」

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髑髏城4+1シーズンで終わったかと思ったらまだだ!まだ始まってもいねえよ!(文字通り)ということで次はメタルマクベスがキャストを変えて3バージョン連続上演っていう、この関東平野でまだ公演をされるおつもりか…!てまあこの話はこれぐらいにして。3バージョンの出演者、最初のdisc1にこの人の名前を見たとき私が思ったこと。相変わらず古参を殺しにくるやないか!よろしい!受けて立つ!その名前とはもちろん橋本さとしその人です。

そのあたりの思い入れはもう前に書いたので省略させていただくとして、12年ぶりのメタルマクベス再演(12年ぶりかよ…とちと遠い目になりますな)、おそらく劇場の機構とキャストの見せ場的なところで足したり引いたりしたシーンも結構ありました。まあそもそも上演時間がほぼ4時間なので、足されていないわけがない。

しかし、髑髏4+1バージョン全部見て、この劇場の機構にも「それ もう 見た」感満載になっていた客としては、演目が変わり、そしていのうえさんが前回を踏まえて劇場機構を活用していて、そこが非常に新鮮でしたね。ステージアラウンドは座席によってよりによってセンターがもっとも見づらい、という罠に陥りがちなのですが、今回なるほど!と思ったのは間口を広くして左右で別の場面を展開させるという手法。これ、サイドの客から見るとめちゃくちゃ役者が近いので満足感があり、いちばん視界が死んでるセンターで芝居がないのでストレスが低い。照明も、フロントに照明を組めない分、メインとなるセットに強力な装置だったり照明だったりを仕込んでいたのもよかった。生バンドを入れた関係もあるのか、ちゃんと最後にメインステージで芝居が終わるので、休憩時退出時の動線ラクという思わぬ恩恵も。終盤に大崩しになったセットの見せ方も、巨大建造物感満載ですごく好みでしたね。最初の頃感想で、むちゃくちゃ回るぞ!と聞いていたのですが、構えて見たせいかたしかによく回るけどさほど気にならなかったです。

マクベスマクベス夫人にめちゃくちゃ歌える人がきてるのでおふたりのナンバーが増えており、代わりに?リンスとダイエースプレーの歌はなくなってた。あと個人的に痛恨だったのは七光り三度笠が消えたことですね…松下優也くんのキレキレの踊りで見てみたかった…やましい気持ちはゼロでござんす…あんな名曲ないよ…。レスポールJrはグレコとの口説きの場面がスパッとなくなってたのも驚いた。あれJrの結構なしどころじゃない?(原作マクベスにも勿論ある)さとしさんと濱田めぐみさんの歌がすばらしいのは言うまでもないんだけど、やっぱり曲が増えると一気に尺が長くなるので、たくさん歌わせるより歌唱力ドヤ曲1曲に絞って朗々とやってもらったほうがよかったかもとは思いました。

野心はあるのにどこか非情にも非道にもなりきれない、マクベス夫人と「わたしもあなたも驚くほど小さいわ」と語るシーンがあるけど(「小さい箱にしとけばよかった…!」名シーンですよね)、このマクベス像にさとしさんがずばっとはまってた。前半歌いながらの殺陣とか、これから磨きがかかるんだろうなと思うシーンもあったりするけど、後半の、あの魔女の予言にすがり、その予言がひとつひとつ打ち崩されていくあたりの絶望と狂気の際、みたいなところから、それでも力で押し戻そうとする悲哀が、自他ともに認めるパワープレーヤーであるさとしさんの熱量と相まってものすごいカタルシスがありました。

冒頭の登場からぐっとくるものがあったし、じゅんさんエクスプローラーとキャッキャウフフしてるのそれだけで尊いし、もういつまでもこの二人見てたい!って感じでしたけど、個人的に一番キたのは粟根さん演じるパール王との対決シーンですね。ふたりの間合いの息の合いよう、音響とのタイミングの合い方、全部が音がするほどズバッズバッとはまっていて、これ、この感じ、ああ私は今新感線を観ている!!!という喜びに胸がいっぱいになって泣けてきて参りました。またふたりがねええええ、もう無駄にかっこいい。かっこよさを湯水のように無駄に浴びせてくるこの感じね!これだよ!!

じゅんさんもかっこいいのとおもしろとのバランスが絶妙で最高だし(判決もとい半ケツを言い渡すじゅんさんと止めるさとしさん、幸福な絵面過ぎだろ)、粟根さんのさとっさん呼びもほんとありがとうございますだし、いやもうね、古参のノスタルジーと仰ってくださって結構ですこればっかりは。そこから自由になってこの3人の共演を冷静な目で見るなんてできないししたくないよこればっかりは。

濱めぐさん歌唱力はもちろんキュートなマクベス夫人でさとしさんとのバランスがめちゃくちゃよかったなー。植本さん猫背さんはなんつーか、もう打席に立ったら確実に塁に出る感というか、任せておける!感がすごい。頼りになります。松下優也くんのJr、「明けない夜はSO LONG」をめちゃかっこよくめちゃ気持ちよさそうに歌ってたのが印象的でした。あそこはかっこいい場面だ、うんうん。

カーテンコール、もちろん最後に出てくるのはさとしさんで、ああああこの!!!センターに立つさとしさん!!!ってもはや感慨しかない。あそこの笑顔はほんと…ずりーですよ!そしてハケていくときにじゅんさんと肩を叩き合って笑顔を交わしていたのがね、もうね、リアルで胸の前で手を組んだしかみさま…もうじゅうぶんでございます…みたいな満たされた気持ちになりました。いやほんと、この感想を締めくくるのはこの言葉しかないっしょ!
おかえりなさい、さとしさん!!!

「消えていくなら朝」

  • 新国立劇場小劇場 D2列5番
  • 作 蓬莱竜太 演出 宮田慶子 

蓬莱竜太さん新作。宮田慶子芸術監督はこの作品を最後に芸術監督を退かれるとのこと。蓬莱さんで新国立、というと私のその年のベスト1である「エネミイ」が思い出され、中劇場と迷った挙句こちらを観劇。

観ながら途中で、あれ?これ…うちの話?と思ってしまう瞬間があったのだが、感想を検索していると、そういうふうに思った観客が少なくないようで、そこでまず唸った。「うちの家族変わってるだろ」「べつに。普通だよ」「普通?普通かな。こんなにきりきりしてるおれがおかしいだけかな」。そういうやりとりが劇中であるが、おそらくこの芝居を観て「この家族、変わってるな」と遠巻きに見るよりも、どこか自分の家族の事情というやつに近づけて観てしまうひとのほうが多いのではないかとおもう。それはまさしく蓬莱さんの筆の冴えにほかならない。

作品の主人公は18年ぶりに故郷に帰ってきた男で、かれは東京でどうやら劇作家といわれる仕事して、そこそこ成功といっていいものを手にしているようだ。自分が省みなかった、省みることが出来なかった家族との対話。兄と弟、弟と母、妹と父、兄と母…攻守が目まぐるしく入れ替わる会話劇で、そこでぶつけられる言葉はなかなかに痛烈だ。だが、シーンが変わると、先ほどまで文字通り「相手を泣かす」まで追い詰めたもの同士が普通に会話していたりする。家族というものの根強さ、根強いからこそのおそろしさ。

どんな家族であっても、「生活を共にする」ことを延々と続けていく以上、「あのとき、ほんとうは…」という部分が絶対にあるだろうと思う。私にもあるし、私の家族にもあるだろう。もしかしたらそのことを相手は覚えていないかもしれない。いやきっと覚えていない。それを飲み込んだまま、また次の朝を迎える。何度も。何度でも。「仲が良いように表面を取り繕っているだけだ」「それは、努力!」

宗教にはまって幼い子供たちを振り回した母、末娘に「理想の息子」を夢見て、それを自覚していない父、劇作家や女優という仕事を「売れてない」の尺で語ることしか知らない兄。一瞬観ているこちらも鼻白むが、主人公である弟が兄の仕事を「えらいと思うよ、毎日通勤電車乗ってさ、下げたくない頭下げてさ…」とのたまい、思わず「なんだよその言い方は。おれたちの人生は罰ゲームか!?」と言い返す兄にはほんっとその通りだ、と強く頷いてしまう。そしてその弟自身も、自分が交際している「若い女優の卵」のことを「苦労知らずのお嬢さん」という眼鏡でしか見ることが出来ない。妹が「25の誕生日からずっとそうだった」というその気持ち、わかる、人生のある瞬間に、とつぜん「私の人生はこれの繰り返しだ」と思ってしまうときって、あるのだ。ただ欲を言えば物語の中で、彼女にも今抱えているものを空しいと思いつつしがみつく、だけではない何かがあるともっとよかったかなと思う。まあ、いちばん自分と立場が近いからこそ、そんな風に思ってしまうのでしょうが。

たぶん、この芝居を観た後、感想を語り合うとしたら、それはまず自分の「家族」のことを語ってしまうことにつながるんじゃないかと思う。やはり素晴らしい筆の冴えだ。鈴木浩介さんと山中崇さんの兄弟ぶり、よかった。どちらかだけを露悪的に書かず、どちらにも自分に近しいものを見ることができる兄弟像だった。高橋長英さんと梅沢和代さんの夫婦、さすがのうまさ。やたら悲劇的にもならず、どこかからっと乾いた質感がこの座組全体にあって、それは観ているこちらをずいぶん助けてくれたと思います。

「ジュラシック・ワールド/炎の王国」

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世界中で大ヒットした前作から2年!監督はコリン・トレボロウからJ・A・バヨナにバトンタッチ。でも脚本にはトレボロウがクレジットされていますね。

キャストも前作からクリス・プラット演じるオーウェンブライス・ダラス・ハワード演じるクレアが続投。クレアの登場シーンもそうだし、途中でも「ほらよっ!」とばかりに彼女の履いている靴がアップで抜かれていて、前作であれだけネタになったからな~とニヤつきました(私も、この間地上波でやってるの見たけどやっぱり気になる派。だって最後T-REXと追いかけっこするのに…w)。

もともとの「パーク」シリーズ3部作の第2作「ロスト・ワールド」で恐竜が街に上陸するシークエンスがあったので、これもそれを踏襲するのかな?と思ったらやっぱりそうでしたね。とはいえ、都会で恐竜大暴れ!な方向ではなく、第1作の舞台となった「イスラ・ヌブラル島」が火山の噴火により危険な状態になり、恐竜の保護を訴えるクレアと、そこにロックウッド財団が支援を申し出るが、これに裏がある(そりゃあるよね)という筋書き。イスラ・ヌブラルを脱出するまでと、そこから恐竜が運び込まれたロックウッドの屋敷でのシーンが違う映画か!?ってぐらいテイストが違っていて、というか後半のゴシックホラー味が強い。監督のカラーなのかな。個人的にはやっぱり広大な自然の中で恐竜さん見たいよね…という嗜好があるのですが、とはいえ狭い廊下をインドラプトルに追いかけられる少女、っていう絵面はなかなか強烈なものがありました。あとヌブラルを脱出するときのブラキオサウルスが哀しすぎた…。

オーウェンに育てられたヴェロキラプトルのブルーが物語のキーになっていて、オーウェンがラプトル4姉妹を育てるホームビデオ(ホームビデオとしか言いようがない)が結構沢山映ったりして、いや確かにめっちゃかわいい!しかし調教により知能の片鱗を見せた子のDNAもらっちゃおうぜー!っていうその土台がなんかうまくのみこめなかった。つーかどうしてどいつもこいつも恐竜を意のままにできると思うのかっていうね。DNAを操作して「自分が作り出したい生命体」を創ってしまうのも人間の傲慢さだけど、それをコントロールできるって発想はどこから?と毎回思っちゃう。

しかし、最後の展開はちょっとびっくりしましたね。いやこれまるきりガス室で息絶える的なアレで終わるんか…?と思ってたら。ら。あらーそういう?そういう方向?その傲慢さのツケはみんなして払いましょうっていう?イアン・マルカム(ジェフ・ゴールドブラム!)のキマった感ありありの台詞まで飛び出したし、「あのあとどうなるのか」という視点をごっそり抜けばディストピア(恐竜にとっては必ずしもそうでもないかも)ものエンドみたいで、これはこれで個人的にはよかったです。あと欲を言えばモササウルスせんぱいの活躍をもっと見たかったね!っていう!

「七月大歌舞伎 昼の部」

  • 松竹座 1階5列22番

昼の部は「廓三番叟」(初めて見た!)と「車引」に続いて、襲名演目である白鸚さんの「河内山」、幸四郎さんの「勧進帳」という顔合わせ。「車引」、扇雀さん桜丸に鴈治郎さん梅王丸という配役で、このご兄弟での「車引」はなかなか貴重なのでは…!?割とよくかかる演目なのでいろんな役者さんで拝見していますが、いちばん直近で観たのが勘九郎さんの梅王丸ということもあり、里心に火がついたとかつかなかったとか…(ちーん)。

河内山もよくかかりますよね~。俊寛と河内山が上演されない年はないのでは!?芯をとる役者のしどころとか座組の顔ぶれとか上演時間でこう、選ばれやすいところがあるのかな。今月の松竹座、殊勲賞をあげるとしたら歌六さんなのではないかと私は思っているんですけど、御浜御殿綱豊卿の勘解由も油地獄の徳兵衛もすばらしいし、この河内山での出雲守がまた絶品。放埓な殿様ではあるんだけど下品になってない、役の大きさがちゃんとあって矮小化されてないというのかな。だからこそ白鸚さんと対したときの場に緊張感がちゃんと持続していて見ごたえのある一幕でした。

さて昼の部のメインイベントと言って差し支えない、勧進帳でございます。なんといっても仁左衛門さんが富樫でおつきあいくださるという!歌舞伎座勧進帳を見逃したので、というか新幸四郎さんの弁慶を拝見していませんでしたので、この機会に飛びつかないわけがあろうか。いやない。いやもうほんと、隅から隅まで歌舞伎を!!見た!!!という充足感にあふれた70分。満足度ストップ高でした。仁左衛門さんの富樫の凛とした佇まい、幸四郎さん弁慶の大きさ、山伏問答の丁々発止ぶり、「いかに、それなる強力」からの緊迫感…!あの空気が右に、左におされるような、圧が目に見えて行きかうような空気、最高でしたね。もうずっと見ていたかったもんね。

富樫、思い入れあって去る場面も思わずわっと拍手があふれたし、その後の義経とのやりとり(判官御手を…でウっと泣きそうになった私だ)も素晴らしかった。そして最後、花道に残った弁慶の一礼、からの大きい大きい飛び六方…。いやー、もう幕切れで思わず「満たされた…!」とひとりごちるほど満足、満喫、堪能しました。なかなか弁慶という役に巡り合わず、ご本人も自分は弁慶をやることはないのではないか…と不安に思われた日もあったとのことですが、だからこそのこの大きさ、ずっとこの高みを見据えて憧れてきたからこその弁慶なんだなあというのがひしひしと感じられ、この役の中に心が透けてみえるような体験こそが芝居見物の醍醐味だよなあと改めて実感いたしました。