「ビッグ・リバー」

  • 青山劇場 1階XE列22番

原作は文豪マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」。もともとのオリジナルミュージカルは1985年に初演され,来日公演もあったようですが当然のように観ておりません。今回はデフ・ウェスト・シアター版、デフは英語で聾者を意味するもので、つまり聾者の役者と聴者の役者が同時に舞台に立ち、全編を手話を通して語るスタイルで上演されているのです。

私は残念ながら英語の聞き取りができないので、本来ならば字幕のお世話になるしかないのですが、今回5列目のど真ん中というお席であったためサイドの電光字幕板に目をやってしまうとせっかくの手話を聞き逃す(見逃す)ことになる!ということに気づいて早々に字幕の方は諦めました。昔々に読んだ原作の記憶とパンフのあらすじをたよりに物語を追っていったのですがそれで正解だったと思います。だって2行ぽっちの字幕より、生の役者さんの表情や動きの方が何倍も雄弁なんだもの。

舞台の上にはハックフィンの原作の様々な場面の1ページがおかれ、それが幕の代わりになったり扉になったりします。抽象的なセットながら、原作の挿絵などもあって場面の理解に役立つのがいい。ジムとハックの2人がビッグリバーに漕ぎ出していく場面で、セットの背後が大きく開かれ、一面のブルーをバックに2人が立つ姿が非常に印象的。たったそれだけの動きなのに、ものすごい開放感がありました。

前述したようにこの舞台には聾者の役者が立っています。主役であるハックを演じる役者さんもその1人ですが、彼の声は舞台の上で「マーク・トウェイン」を演じ舞台進行も同時に勤める役者さんが担当します。他の役者についても、舞台の左右上下どこかしらに現れた役者達が彼らの「声」を担当したり、二人一役で演じたりと様々な工夫を見せます。でもってこれが不思議なんだけど、「声を出しているのは他の役者だ」って意識がだんだんなくなってくるんですよ。錯覚する、というのとも違うんだな。声を出していないって分かってるんだけどそれが意識の埒外に行くというか。それは多分、彼らの手話と彼らの表情と彼らの動きが、何よりも「物語を語っている」からなんじゃないだろうかと思う。彼らの動きで「物語を聞く」という感覚になってくるんです。

それはこの舞台のクライマックス、「光が輝くのを待っている」の合唱でもっとも端的に示されます。遠い彼方に向かって彼らは叫ぶ、その歌と音と声がほんの数分、いや数十秒間、まったくの無音になります。しかし彼らは歌い続けている。その数十秒間、私たちは「音のない世界」に紛れ込む。音のない世界というだけではない、音がないのに「聴こえる」世界に行くのです。それは不思議で、なんともいえない力強さに満ちた世界です。劇場中が一瞬息を呑み、舞台に居る役者と完全に呼吸がシンクロする。ひとつになる、という言い方は陳腐ですが、まさにそうとしか表現しようのない一瞬が、そこには確かにありました。

この物語の舞台は「人間は皆平等である」なんて当たり前のことが、全く当たり前でなかった時代のお話です。堅苦しい世界から「自由に」なりたいと願うハックも、奴隷制度からの自由を求めるジムも、「解放」されることを願っている。こんなに時代が離れた今になっても、ハックやジムの願いに私たちが共感するのは、私たちもまたいつも何かからの「解放」を願っているからなのかもしれないなと思いました。この世界は暗闇だ、とハックが歌うけれど、それは誰しもが心の中に思うことなのかもしれません。

ハック役を演じたタイロン・ジョルダーノがとにかく非常に印象的。くるくる変わる表情とあの大きくてつぶらな目がもう・・・たまらん。可愛すぎる。ジム役のマイケル・マッケロイの素晴らしい歌声も心に残ります。二人の歌う(って、実際に歌っているのはマイケルとマーク・トウェイン役のダニエル・ジェンキンズなんですが)「泥の河」が今回のナンバーでは一番好きかな〜。二人の動き、伸びていく声、聞いていて思わず涙がこぼれてきました。

手話の美しさとそれを見事に振り付けとして取り入れた演出センス、聾者であることをまったく意識させない完璧に合わされたタイミングとアンサンブル、それらを観ているうちに「演じるってなんなんだ」という根本的なことを思わず考えさせられましたね。台詞を喋っててもなーんにも伝えない役者だってこの世には五万といるわけで、ってことは結局、観客に何かを伝えるのは演じる役者そのもののパワーであると言えやしないか。舞台ってものは、まだまだ奥が深いぜと思わずにはいられなかった私なのでした。