「天日坊」

宮藤官九郎さんと六代目勘九郎さんのタッグでコクーン歌舞伎。どちらも愛してやまないお二人ですしもちろん楽しみにしていましたが、勘三郎さん、橋之助さんの不在もふくめいったいどんなものが仕上がるのやらと様子見の部分も正直ありました。が、ふたをあけてみれば私の周囲でも初日から上々の評判で、期待に胸をふくらませて出かけて参りましたよ!以下畳みませんが、未見の方はお気をつけて!

河竹黙阿弥が約150年前に書いたという「五十三次天日坊」を宮藤さんが脚色されたんですが、もともと宮藤さんの脚色力については定評がありましたけど、通しで上演すると2日(!)かかるというこのホンのエッジを見事にとらえてこの形に仕上げた宮藤さんの腕の確かさ!さすがとしか言いよう無い!

自分の出自を知らぬ法策は、出自を知らぬがゆえに目の前に無造作に置かれた「身の証」を、それも黄金の香りのする身の証を奪い取る誘惑に勝つことができない。一度転がり始めた嘘は次第に大きくなり、小さかった波紋は大波となって我と我が身に打ち寄せることになる。お三婆さんの家で、彼の心にその誘惑が吹き込まれた瞬間のトランペットの音。その瞬間、勘九郎さんがまるで瘧のように体を震わせる場面、素晴らしかったな。

歌舞伎を見ていると「○○、実は」というのは頻繁に(そう、頻繁に)出てきますが、それをまるで逆手に取るような「その実おまえはいったい誰なんだ」という問いかけが常に浮かんでいるような舞台でした。不思議なことだけれど、天の字の痣から義高だとわかる場面や、法策が光儀に刀を振るう場面を見ているときに、野田版鼠小僧の「俺が鼠小僧だとなれば俺の話を聞くんだろう」という台詞をなぜか思い出したりしました。

法策は、「ただ法策であった」ころの自分を唯一知る人物の前で嘘を突き通すことが出来ず、「自分は何者かである」ことを信じるお六たちが倒れたあともひとり刀を振るい続けますが、光もなく、四方から黒い壁がただ押し迫るラストシーンは、誰でもなく、どこにもいけない彼の心の中を覗き見ているようで泣けてきました。

宮藤さんならではの軽妙な台詞のやりとりや、大胆な場面使いなどが功を奏していたのは言うまでもないですけれど、しかしなにか演出的なサプライズを見せるというわけでなく、ひたすら物語と役者、そして終盤はあまりにも真っ当な演出の力でここまでのカタルシスを得ることができるんだなあと改めて思ったり。とはいえ、串田さんの演出力に依るところはもちろん大きくて、音楽の使い方といい場面の転換の仕方といい、18年間積み上げてきたからこそ崩せる大胆さがすごく心地よかったです。

キャストの皆さんも本当に、ほんとうにすばらしくて、真那胡敬二さんも近藤公園さんも白井晃さんも、ある意味畑の違う中で素晴らしい奮闘ぶりだったと思います。もうね、私は大江廣元をやった白井さんを心から労って差し上げたいよ…!黙阿弥調の台詞を歌舞伎役者とガチで渡り合うってどんだけプレッシャーなのかと。出番が多い訳ではないけれど萬次郎さんの存在はやっぱりすごく効いてましたよね。巳之助さんと新悟さんのコンビもよかったなあ。こうして拍手を受けたことがきっとどんどん栄養になっているんだろうなと思える力強さでした。そういえば化け猫の声は彌十郎さんだったような?

でもって、私はもう、亀蔵さんと結婚したい。いや、するしかない。あの人の間、緩急、笑いに対する天才的としか言いようのない嗅覚は類するものがないと言い切りたい!この芝居を観てもう3日経とうかというのに、未だに亀蔵さんのシーンで思い出し笑いが出来る私です。お三婆ももちろんですが、赤星の出の場面、法策に古着を投げつけるところ、私の呼吸を返してくれと言いたくなるぐらい笑いました。かと思えば天日坊の一行として現れた、赤星典膳としてのあの堂々たる姿。惚れるわもう!

獅童さんも役の大きさをきちんと見せていて、もちろん遊べるところでは全力で遊ぶし、二月の松竹座公演でも思いましたが場面を保たせる力があるひとだなあと。そして七之助くん…!いやあこれは彼に(というか彼女に)惚れずにはいられない。黙阿弥作品お馴染みの役所ではあるんですけれど、美しい、声がいい、崩しも抜群、隙がないなんてもんじゃない。宮藤さんの書く台詞との相性も抜群なんでしょうね。書いてる宮藤さんの愛情もすごく感じたなあ。最後の立ち回りでの、苛烈といってもいい一瞬一瞬の美しさ、あの死に様、目に焼き付いて離れません。そういえば今回立て師としては川原さんと前田さんのお名前があるですよね。いやでも新感線で見慣れた殺陣とはまた違う、歌舞伎役者の尋常じゃない身体能力を生かし切った場面の連続で血が沸騰するってこのことか、と感じ入りました。

勘九郎さんの舞台を見る度に、あーマジこの人世界一男前だわとかって言っていますけど、そしてそれは本気ですけれど、いつもいつもそう思ってるわけじゃないです。でも舞台の上での勘九郎さんは、激烈なまでにカッコイイ瞬間があるんですよ。ほんとにもう、炎が立ち上るようなかっこよさが。誘惑に駆られた顔、手を血で染めたあとに迷う顔、その迷いを断ち切って天日坊として覚悟を決める顔、すべてが崩壊するときの絶望の顔。立ち回りでの足捌き、体のしなり、どれだけ速く動いてもぴたりと止まる刀、そういうひとつひとつが、まるで炎のようにかっこよかった。

これは作品の感想からは外れてしまうけど、舞台の上の勘九郎さんを見ながら私は去年の3月12日の博多座を思い出していた。あれほど空席の多い客席の前に立つ勘九郎さんを私はそれまで見たことがなかった。勘三郎さんのこと、震災のこと、なんだかすべてを背負い込んでいるような背中に思えたことを思い出していた。そこからここまで来たのだ、舞台の中央に立ち、客を惹きつけてやまず、客席は立ち見の客で埋まり、熱狂的なカーテンコールの拍手が続く中に。これはまるっきりの感傷だとわかっているけれど、この人は「勘太郎さんだった勘九郎さん」では最早無く、「六代目勘九郎」なんだなと、そう思った。

この演目はそう遠くない未来、また再演されるだろうと私は思っているのですが(それが歌舞伎の良さであり強み、レパートリーが増えるというのはそういうこと)、それがどんな風に変わっていくのか。たとえば「夏祭」のラストシーンが「どこへでもいける」から次第に「どこにもいけない」に転化していったところがあるように、この天日坊の物語、「どこにもいけない」から始まった物語が「どこにでもいける」に転化していくことだってあるんじゃないのかなと。別に台詞や筋立てを変える必要はない、明かりひとつ、セットひとつ、役者の芝居ひとつで世界を反転してみせることができる、それが演劇の強みだと私は思っているので。これから育っていくこの物語の行く末を、今から楽しみにしています。